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暮れない昼、音のない部屋

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 『Giraffe』は二年前に閉店した。渋谷のライブハウスも、都市の再開発だとかで立ち退きをさせられる店が増えている。池袋の『Parade』は変わらず営業を続けているようだったが、大学を卒業して以来もう何年も顔を出していない。
 あの頃よくつるんでいたバンドの名前を、今でも時々小さなネットニュースや、夏フェス出演者一覧の片隅で目にする事がある。ミステリアスな雰囲気で最近注目されているあの女優は、以前は『Parade』の常連バンドでベースを弾いていたし、若手のロックバンドとして今最も人気だと言っても過言ではない某バンドのボーカリストは、数年前まで別のバンドで『Parade』に毎月のように出演していた。しかし、誰もそんな事は知る由も無いし、興味もない。彼らの事を思い浮かべる度に、私は何故だか時空が歪むような感覚に襲われた。
 世の中の人間にほとんど存在を知られないまま、バンドというものが七年間、或いはそれ以上、その形を保って存続していくというのは、一体どれ程の事なのだろう。それは尊くも、どこか恐ろしく感じられるのだった。
 
 『Giraffe』の跡地にできたカフェの前を通り過ぎ、坂を少し登った所にこの事務所はある。カフェのオープンテラスでコーヒーを飲む人々は、そこが『Giraffe』の受付であった事などには興味があるはずも無い。
 ルイがふと十八階の大きな窓に目をやり、四月の澄んだ青空を見つめている。
 「えーと、この年齢にしては渋い音楽の趣味をお持ちみたいなんですが、これはどなたかの影響があったのですか?」
 私は、ニューアルバムの資料に書いてある八十年代のR&Bシンガーの名前を口にしながら尋ねた。すると、ルイはゆっくりと視線をこちらに戻しながら、
「ああ、それはちょっと」と曖昧な笑みを浮かべ、
「なんかそういう風に言えってことになってて、あんまりよく知らないです」
 そう事も無げに答えた。
 その瞬間、会議室に得も言われぬ緊張感が走り、私は全身の毛が静かによだつのを感じた。
 「あ、えー、なるほど」と言葉を繋ぎながら、ルイの横に座っているプロデユーサーと思しき男性の顔をさり気なく確認しようとしたが、うまくそちらに視線を移すことができない。ルイの手が再び小刻みに震えている。資料に目を落とし思考を整理していると、その男性が突然口を開いた。
「まあ、なにぶん新人なもんで、自分の見せ方っていうのがまだあんまり解っていないものですから」
 口調こそ柔らかいが、目を見開くようにして話すその表情はどこか高圧的なものを感じさせる。女性マネージャーは我関せずといった顔で、ノートパソコンをいじり続けている。
 確かに、今回のアルバムに通ずる音楽的ルーツとしてそのR&Bシンガーの名前が上がる事はごく自然に思えるのだが、しかし事前に読んだルイのインタビュー記事には、井上陽水の名前が上がっていたはずだ。ルイが幼少の頃からあらゆるジャンルの音楽に興味を持ち、それらに精通していたとしても不思議ではないが、デビュー作や彼の発言から鑑みるに、私の中でどこか腑に落ちない部分があった。その違和感を払拭するための質問に、ルイは、誰もが思いもよらなかった返答をした。
 一つだけ私が確信したのは、デビュー作から今作へのルイの大幅な変化は、意図的に作られたものだという事だ。この音楽性の変化を、ルイの内面から自然発生したストーリーとして上手く繋げるために、あらゆる設定が外部から施されている。そして恐らく、ルイ自身はそれを無意識に拒否している。先程の発言は告発といった意図ではなく、外部と内部の丁度中間にいる私のような人間に対して、作り上げられた『ルイ』という役を演じ切るほどの折り合いが、まだ付いていない事の現れのように思えた。
 それらが分かった上では、インタビュアーとしても質問の角度を変えなければならない。プロデューサーは先程とは違った視線を私に投げかけている。残された時間で今私に出来るのは、次の質問に移ることだけだった。

 「こういう質問てほんとくだらねえよなー」
 どこからともなく蒼介の声が聞こえてくる。
「伝えたいことはー、とかさ、この歌詞は実体験ですかーとかさ、どうでもいいっつうの」
「歌なんて恥ずかしい日記みたいなもんでさ、なんか上手く説明できないことだから歌に書いてんのに、説明しろって言われても笑うよなー。だから売れないって?わかってるわかってる。でもさ、マーシーだってきっと思ってるよ。道徳の教科書じゃねえよって」
 これは蒼介が言ったのか、ルイが言った事だっただろうか。
「もしインタビュー受けることがあったらさ、まあとことん適当なこと答えてやろうと思って。でもそれって嘘じゃないんだよ。そう思うっしょ?むしろそっちの方がほんとだもんな。それらしい大げさな話こじつけたらそれこそ嘘だよな。でもさ、いざとなったらなんかうまいこと答えちゃうのかなー、まあそれはそれでいいか」
 蒼介、音楽はそんなに純粋なものじゃなかったよ。
「俺な、金のためだけに音楽やってる奴は嫌いやけど、売れんでも、全然金にならんでもええみたいな奴は、もっと嫌いやねん」
 和田。和田は今何を思いながらバンドを続けているのだろう。
「俺嘘ばっかりだからさ、自分の歌にはせめて本当のこと書きたいんだよね。誰か励ましたいとかそんなサムいこと一ミリも思ってねえけど、勝手に誰かが励まされてくれるならそれは最高じゃん?」
「人間の感情って本当は言葉で表せるほど単純じゃねえもん。だから歌詞があるんだもんなー。聴くときによって悲しいようにも嬉しいようにも、色んな風に感じられてさ、玉虫色っていうの?そう、玉虫色の歌詞。いいよな、ロックの歌詞って」
 そういう話を、蒼介は何よりも楽しそうに繰り返し聞かせてくれた。そして、マーシーの『地球の一番はげた場所』という曲をいつも口ずさんだ。私は、音楽を聴かなくなった今でも、その曲だけは飽きもせずに聴いている。「まあこれはマーシーの歌詞じゃないんだけどね」と笑う蒼介の顔を思い出しながら。

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 「ええと、では、ニューアルバムについて色々とお訊きしたいのですが」
 蒼介、私は今からくだらない質問をしようとしているよ。そういうものなのかもしれない。でもルイは、きっとくだらなくない答えを返す。くだらない質問かどうかなんて、どうだっていい。アーティストには、それに抗う権利も、適当なことを答える権利もある。自分の歌を守る権利がある。
 蒼介はあの日、自分の歌を守った。
 それに引き換え私は、何かを守っているような振りをして、結局怪我をしないように安全な道を選んでいるだけだ。私がルイに何を訊けるというのだろう。もしも相手が和田だったら、私は何を訊くのだろう。もしも蒼介だったら。傷だらけになりながら歩いてきた蒼介に、無傷の私が訊けることなどない。だから精一杯考えて、きっとくだらない質問をするのだ。
 
 鮮明に浮かんでくる、蒼介とこの場所に来た日。あのエントランスから出て来た蒼介の顔。頬を撫でる生温かく湿った風。
 目の前のルイの顔が、白くぼんやりと霞んで遠ざかるように見えていた。

読んで下さってありがとうございます。思考のかけらが少しでも何かの役に立ったなら幸いです。