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雨が降り始める前に

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 七年前の六月、空気が湿度を帯び始めた金曜日だった。

 その年、キャロッツはやっと新作アルバムをリリースした。レコーディングもミックスも馴染みのリハーサルスタジオに頼み、販売はライブ会場とネット通販のみというささやかなものではあったが、前作に比べ、蒼介自身のソングライティングも、バンド全体の技術としても、顕著に飛躍した事が伺えるアルバムになっていた。
 和田の言葉によって、蒼介はライブのやり方を変えたりはしなかった。しかし、彼の中で変化した部分がある事は確かだった。
 アルバムの発売に伴ってライブの本数は増え、『Parade』以外の場所でもキャロッツの名前を目にする事が多くなった。講義が忙しくなった事と、一応形ばかりの就職活動が始まった事もあり、私は以前に比べてライブに足を運ぶ回数は少なくなっていたが、たまに顔を出すと、その度にステージの熱量が上がっていっている事を実感できた。

 「あれ、由梨さん久しぶりー。最近あんま来てくんないじゃん」
 その日『Parade』に顔を出すと、入り口でチヒロに声を掛けられた。
「来てくんないって、店員じゃないでしょ。ちーが居過ぎなんだよ」
「だって他に行くとこないもん」
「まあ確かになさそう」
「うわあ、ひどー」チヒロはオーバーに顔を歪めている。
「なんか雨降りそうだから入ろっか」
「ねー。梅雨やだねー。私髪うねうねになるんだよねー」
 二人で階段を降りると、前回来たライブよりも明らかに客が増えている。満員と言うには程遠いものの、全員の顔を覚えられる程に常連しかいなかったフロアが、新しい客でざわざわと賑わっていた。
「なんか今日すごいね」
「うん。でも最近、結構こんな感じだよ。アルバム効果だよねきっと」
「良かったもんね、アルバム」
「めっちゃ良かった!このまま売れてくれたらいいなー」
 もちろん私もそうなることを願っていた。
「今日、ビリーは?」
「遅れるけど、観に来るって」
 ビリーは『Parade』に出入りしていたギタリストで、蒼介を慕ってくれている後輩の一人だった。そのギターの腕前はこの界隈でも有名だったのだが、中々バンドメンバーに恵まれず、色々なバンドを転々としているらしかった。最近になってチヒロとビリーが付き合い始めた事を、私は蒼介から聞いていた。
 
 予定の時間を少し過ぎてから、照明とBGMがフェードアウトし、騒ついていたフロアが静まり返る。いつも通りステージ上にふらっと姿を見せた蒼介は、ギターを肩に掛けると客席を一瞥し、拍手が鳴り止むのを待ってゆっくりと演奏を始めた。
 私が初めてキャロッツのライブを観た日に聴いた、あの曲だった。ドラムとベースが加わり、コーラスのかかったエレキギターが重なり合うと、『Parade』は徐々に四人の音で満たされていく。フロアの人影が波打つように揺れ、音量と共に室内の温度が上がる。オレンジ色の照明に照らされた蒼介の細い首筋に汗が一筋流れた。
 私はステージで歌っている蒼介が一番好きだった。ある朝急に、どこかへ消えてしまいそうな危うさを孕んだ蒼介が、ステージに立ち続けている限りは私と一緒に生きていてくれるような気がした。
 その日キャロッツは、新しいアルバムを中心に全部で六曲披露した。彼の歌は、やはり、聴く度にその凄みを増しているように思えた。

 演奏の間にも客は少しずつ増えていき、ライブが終わる頃には人の間をすり抜けるのに苦労する程の密度になっていた。チヒロと共に何とか後方のドリンクカウンターまで辿り着くと、瓶ビールを飲んでいるビリーの姿があった。
「今日も良かったっすね、蒼介さん」
 ビリーはそう言いながら、嬉しそうにビールを呷っている。彼のボリュームのあるアフロヘアは、パーマではなく天然の癖毛らしい。
「良かったよね。ビリーいつの間に来てたの?」
「多分、三曲めくらいすかね。人多くて声掛けられなくて。て言うか、それより」
 ビリーはそう言うと、私達の斜め後ろに向かって小さく顎をしゃくった。チヒロと私がさり気なくそちらを確認すると、そこには、フロアで一人だけあきらかに異質な雰囲気を纏った大柄の男が、携帯をいじりながら立っていた。
「なんか、怪しくないっすか?普通の客じゃないっすよね多分」
 ビリーが声を潜める。
「確かに。キャロッツのお客さんにあんなおじさんいないよね」
 チヒロがそう答えたが、私は、あれくらいの年齢の客がいても別におかしくはないよな、とぼんやり思っていた。確かにキャロッツの客層は十代後半から二十代がほとんどで、その多くが女性だったのだが、その日は『Parade』の周年イベントで、トリは店長のバンドが務めることになっていたからだ。
 しかし、私のその予想は見事に裏切られる。
「まあ、店長の昔の友達とかじゃない?」
 そう私が言うのが早いか、不意に男が歩き出し、撤収を終えて楽屋から出て来たばかりの蒼介に近付いた。それを見ていたビリーが、
「ほら!やっぱり、どっかのなんかの人っすよ、あれ」
 そう興奮気味に阿保みたいな発言をしたが、それはあながち、間違いではなさそうだった。
 横山と名乗るその男は、蒼介と、後から周りに集まってきたメンバーに挨拶をし、大手事務所の名前が書かれた名刺を差し出した。ライブを終えたばかりで状況の把握できていない蒼介は、差し出された名刺と髭を蓄えた男の顔面を交互に見た後、訝しげにぺこりと頭を下げた。
 横山は自己紹介もそこそこに、呆気にとられている蒼介達に向かって、「来週会社に来て欲しい」と告げた。そして、荷物を持ち直すと一瞬にこやかな表情を浮かべ、店長のバンドが登場するのを待たずしてそそくさとフロアを後にした。
 それは紛れもなく、キャロッツが掴んだ初めての大きなチャンスだった。
 一部始終を見ていた私達は誰からともなく顔を見合わせ、蒼介達に近付こうとしたが、その瞬間BGMの音量が上がっていき、フロアの照明が落ちて互いの顔が見えなくなってしまった。ステージではさっきよりもだいぶ客が少なくなったフロアに向かって、店長が演奏を始めようとしていた。

 
 

読んで下さってありがとうございます。思考のかけらが少しでも何かの役に立ったなら幸いです。