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ここにいない誰か

 ビリーの死因は急性心不全だと聞かされているが、実際のところ本当の死因は良く分からない、と正人は言った。
 正人と組んでいたバンドが解散して以来、ビリーはまた別のバンドに加入し、あるインディーズレーベルと契約を交わしたのだが、結局そのバンドも解散して、ビリーは実家のある長野に帰った。その後、連絡を取ることはなかったそうだ。
「そっか、知らないっすよね」
 正人は静かに言った。
 私達は、フロアをすり抜けて狭い階段を上がり、池袋の地上に出た。隣にあったラーメン屋はチェーンの中華料理店に替わっていたが、相変わらず換気扇から油臭い湯気を吐き出している。
「俺、最後のバンドでいい感じにやってると思ってたよ」
 ラブが呟く。
「CD出して、ライブも頑張ってたんすけどね」
 私は、アフロヘアを揺らしながらギターを掻き鳴らすビリーの姿を思い出していた。蒼介の後ろを付いて歩く人懐っこい姿や、キャロッツが売れていくのを自分の事のように喜ぶ姿を。
 「スタジオの整理してたら、ビリーが昔使ってたエレキが一本出てきて。俺ビリーの実家に電話して、それ送ったんすよ」
 正人が電子タバコの煙を吐きながら言う。
「お母さん、泣いてました。東京でどうしてたのか全然知らなかったから、お友達がいてくれてよかったって」
 先程演奏していたバンドの出番が終わったらしく、若い女性客達がぞろぞろと階段を上がって外に出てきた。みんな髪を明るく染め、細い手脚を露出している。まだ顔にあどけなさの残る少女が、小さなショルダーバッグからおもむろに煙草を取り出し、火を付けた。
「チヒロは」
 私は少女の姿を見つめたまま、ずっと気に掛かっていた事を口に出した。少女が私の視線に気付き、こちらをちらりと一瞥してまたすぐに目を逸らした。
「チヒロって、あ、あの彼女ですかね?俺とバンド組んだ時には、多分もう別れてたと思います」
「そっか」
「そう言えば、キャロッツが解散して以来、ちーも全然見なくなったな」
 流れてくる煙に顔をしかめるようにしてラブが言う。
「ここしかいるところない、って言ってたのに」
「きっと大丈夫だよあいつは。また新しい居場所見つけてるよ」 
 そうだといい、と思った。視線を戻した時には、少女の姿はもうそこにはなく、数人の男の子達がビールの缶を片手に笑っているのだった。
「誰かがいなくなったあとって、いっつもこうだよな。色々考えるんだけどさ、きっと本人からしたらみんなトンチンカンなことばっか言ってて。俺ら、結局何にも知らねーの」
 ラブが自嘲するように小さく笑った。
「で、繰り返すんだよ」
「そっすね」
「会えるうちに会いもしなかったくせにな」
「だから、今日会いに来たんだよ、ラブに」
「はは、俺も死期が近いか」
「シャレんなんねーっすよ」
「会ったところで何にもできないんだけどさ。でもいいんだよねそれで、きっと」
 私達はしばらく黙り込んでいた。ニュースで見た誰かの死が数日で風化していくように、誰かが生きているという事実もまた、私達は忘れている。

 「あ、俺、次のバンド観に来たんで、そろそろ戻りますわ」
 そう言って正人が地下へ降りて行った。
 こんな時に抱かなければいけない感情や、人間としての正しい行動や、この後ラブに言うべき気の利いた言葉や、そういうものが、頭の中を行ったり来たりする。原稿を書いては消す事を繰り返すのと同じように、沢山の空虚な言葉が浮かんでは消え、それらしいセリフを思い付いては頭の中のメモに残す。
 どうにかして、自分や、目の前の誰かを納得させるために、この途方もない事実に名前を付けようと足掻くのだが、いつも結局どこにも辿り着けずに最初の場所に戻ってくる。そして、私は考えるのをやめた。ラブが真っ赤な瞳でこちらを見つめていたから。
 それに気が付いた瞬間、私は私の七年間が、そういうくだらない強迫観念に縛られ続けていたという事実を知った。蒼介がここで教えてくれた事が私の中からすっぽり抜け落ちて、代わりに、鉛のような鈍い感情だけが、体の奥深くに沈んでいた。
 音楽が欲しいと思った。この、薄汚れた階段を降りた先にある地下の密室で、息苦しいほどに音楽を浴びたいと思った。ラブもきっと、同じ気持ちだった。私達は黙ったまま階段を降り、赤く重たい防音扉を開いてフロアへ入った。もわっとした熱気と轟音が身体を包み、上気した人々の顔が艶々と光って見えた。吐き出されたあらゆる感情がフロアの上空でぶつかり合って靄がかり、照明がそれら全てを赤や青に染めながらステージへと真っ直ぐ伸びていた。
 温かな光が、フロントマンの顔を照らす。頬の汗がそれを反射して光る。細い身体から絞り出す生々しい声。客でも後ろの壁でもなく、遥か遠くの何かを見据える目。動く度に揺れる無造作な髪。
 私はそこに蒼介の姿を見ていた。蒼介の歌を聴いていた。実際は少しも似ていなかったかもしれない。でも私にとって音楽とは、ここにいない誰かの姿を見せる、そういうものだった。
 すぐ近くで、先程の少女が一心にステージを見つめながら身体を揺らしていた。全ての人を包みながら、音楽が鳴り続けていた。


読んで下さってありがとうございます。思考のかけらが少しでも何かの役に立ったなら幸いです。