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適当な嘘をついてくれ

 ライブの翌日、早速横山との約束の日取りが翌週の火曜日に決まった。
 あの夜、チヒロとビリーはメンバー以上に喜び、頼まれてもいないのに四人全員にビールを振舞った。
 蒼介以外のメンバーは突然訪れたビッグチャンスに浮かれているようだったが、蒼介はどこか実感が湧かない様子で、何となくふわふわしたまま週末を迎えていた。

 日曜日の午後、夜勤明けの蒼介が起き出すタイミングを見計らって、私は蒼介の家へ向かった。部屋の隅には、新しいアルバムの在庫と、今回初めてグッズとして作ったTシャツの在庫が積み重なっている。
 東京は数日前に梅雨入りが宣言されていて、今日も天気予報には十六時頃から雨マークが付いていた。窓の外は薄灰色の分厚い雲で覆われ、湿気を吸ったカーテンはしっとりと重く垂れ下がっている。私は数枚だけ外に干されたままになっている洗濯物を取り込み、浴室に干し直して換気扇を回した。
「あれ、いつの間に来てたの」
 冷蔵庫からペットボトルの緑茶を取り出していると、物音で蒼介が目を覚まし、ゆっくりと身体を起こした。
「ごめん、起こしちゃった?」
「ううん、どっちにしろもうそろそろ起きなきゃだし」
 蒼介は網戸越しに灰色の空を眺め、うわー降りそう、とあくび混じりに呟いた。私は二つのグラスに緑茶を注ぎ、蒼介の隣に腰を下ろして同じように窓から外を覗いた。
 「でもさ、」
 煙草に火を付けながら、寝起きの蒼介が言う。
「雨の日の方が、名曲が生まれると思わない?」
「んー、そうかも」
 私は、洗濯物が生乾きになったら嫌だな、とぼーっと考えながら、彼のその言葉に相槌を打った。
「やっぱりさ、雨の日に、晴れの日を思って歌うっていうのが、好きなんだよな」
 蒼介はそう言って立ち上がると、床に積まれたCDの山から一枚を選び、プレイヤーに入れて再生ボタンを押した。
 ざらりとした歌声がアコースティックギターに重なって流れ始める。飾り気の無い、丸裸という言葉がぴったりと当てはまるような声。それは、友部正人の『にんじん』というアルバムだった。スピーカーから聴こえてくる生々しいその声は、確かに、今にも雨が降り出しそうな灰色の空に良く似合うのだった。
 黙って煙を吐き出しながら、蒼介はその歌に聴き入っている。鋭さと穏やかさ、激しさと静けさ、怒りと慈しみ、そういう相反する要素が、お互いを許し合うでもなく打ち消し合うでもなく、ただひっそりと一人の男の歌声に宿っているようだった。

 蒼介の横顔を眺めながらふと、私はある事に気が付いた。
 「ねえ、もしかしてキャロッツって名前ってさ」
「ああ、そうだよ。このアルバムからもらったの」
「知らなかった。今気付いた」
「はは、そっか。話してなかったっけ」
 煙草を揉み消しながら、蒼介は続ける。
「あの曲も、友部さんだよ」
「あの曲って?」
「地球の一番はげた場所」
「え、マーシーの」
「そうそう。だから好きなんだよね」
 スピーカーから流れるハーモニカの音に、いつの間にか降り出していた雨の音が混ざり合い、アルバムの中の世界と現実の世界の境目が無くなっていくように思える。蒼介が思い出したように部屋の隅のライトを付けると、薄暗い室内がオレンジ色の光でぼんやりと照らされた。
 しばらく黙って曲を聴いた後、私はバッグから小さな紙袋を取り出し、蒼介に手渡した。それは、昨日の土曜日に新宿のデパートへ出掛け、彼の為に選んだTシャツだった。
 「これ、ちょっと早いけど誕生日プレゼント。て言うか、事務所に呼ばれたお祝いかな」
「え、まじ?」
 蒼介の表情が、ぱっと明るくなる。
「着ていく服ないかなと思って」
 手渡された袋をしばらく見つめてから、彼はそれを丁寧に開け、取り出したTシャツにすぐに袖を通した。新しい服を着た蒼介を見るのは、かなり久しぶりの事だった。メンズのMサイズは彼の薄い身体には余るくらいだったが、ハリのある真っ白い生地は細い手脚に良く似合っていた。
 「わ、やっぱり似合う。良かったー」
 姿見の前で嬉しそうに自分の姿を確認していた蒼介は、にこにこしながらこちらへ振り向き、
「今日これ着たまま寝るわ」と言った。
「せっかく綺麗なの買ったのにそれじゃ意味ないじゃん」
「そうかあ、汗かくもんなあ。じゃあ、ハンガーにかけて、吊るしとくわ!」
 当たり前の事を画期的な閃きかのように話す蒼介を見て、私は笑いながら、どうしてだか涙が出そうな気持ちになっていた。
「由梨ちゃんありがとう。俺火曜日、頑張るわ」
 感情表現が不器用な彼なりに、横山との約束に心を踊らせている事が十分伝わってきた。
「うん。でも頑張らなくていいよ、普通で」
「そうだ、一緒に来てよ」
「え、私が?」
「うん。駅までさ。で、終わったらどっかで飯でも食って、帰ろう」
「まあ、いいけど」
「火曜も雨かなあ」
 そう言いながら、蒼介はまだ姿見の前でTシャツを着た自分を眺めている。考えてみれば、彼が自分の為に買う物と言えば本かCDくらいで、この部屋も初めて来た日から物が増えた形跡は無い。もう少し高価な物をプレゼントしてあげても良かっただろうか、そんな事を考えていた時、蒼介が呟いた。
 「俺さ、」
「うん」
「由梨ちゃんを武道館に連れてくから」
 私をまっすぐ見つめながら、彼はかすかに微笑んでいる。
「うん」私も微笑みながら答えた。
「ありがとう」
「招待するから」
「うん」
「このTシャツ着てライブするわ」
「そっか」
 蒼介と幸せな話をする時、決まって泣きたくなるのは何故だろう。
「ありがとう」
 人参をぶら下げて一人ぼっちだった、あの心細さを思い出すのは何故だろう。
「楽しみにしてる」
 あの日、唯一の話し相手だった檻の中のうさぎを、抱き締める事が出来なかった自分を思い出すのは何故だろう。泣いてはいけない。蒼介は、ただ澄んだ瞳で未来を見つめている。蒼介の歌には、必ず人の心に届くべき何かがある。分厚い雲に覆われたこんな日を、救ってくれる何かがある。私はそれだけを信じて止まなかった。
 根拠の無い、無責任な、いつもの適当な冗談を、今すぐに聞きたいと思った。

読んで下さってありがとうございます。思考のかけらが少しでも何かの役に立ったなら幸いです。