『ムラブリ』を読んで辺境を思う。

これは『ムラブリ~文字も暦も持たない狩猟採集民から言語学者が教わったこと~』(伊藤雄馬 著)の感想文を含みます。書籍以外からの情報も含むため、読書感想文というより、個人の雑記です。
https://www.shueisha-int.co.jp/publish/%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%83%96%E3%83%AA

ムラブリはタイとラオスの国境沿い周辺に住む狩猟採集民で、ムラブリ語を話す。ムラブリ語は文字を持たない音声言語である(世界の言語の3分の1は音声言語で文字を持たない)。ムラブリ語は消滅(つまり話者がいなくなる)の危機に瀕する危機言語であり、筆者の伊藤さんは消えゆくムラブリ語を調査すべく、ムラブリの民に会いに行き、村に滞在し、ムラブリの文化に感化されていく(感化、という表現を使うのは伊藤さんの意に反してしまうかもしれないけど、他にリーズナブルな言葉が思いつかなかった)。
本書はムラブリ語を紹介する本のようであって、そうでない。言語学者による書籍…というほど専門的でもなく、伊藤さんがムラブリと接する過程で自身が何を感じ、どのように変化していったのかを記録した日記のような本である。

ちょうど本書を読み始めた時期に、母校の公開講座でケニアの女性割礼の講義を受けていて、私は辺境との付き合い方…のようなテーマに思いを馳せずにはいられなかった。
というのも私は大学時代の専攻が多文化共生だから(ポストコロニアル、カルチュラルスタディーズが流行ったころだったんです。ネオリベ批判が盛り上がったころでもありましたね…)。

「辺境」という呼び方もどうかと思うけど、先進国中心で世界を見たときに、メジャーな文化と辺境の文化はどう共存していくのが良いだろうか。今、その答えはない。正解、みたいな考えを当てはめること自体がナンセンスなんだと思う。

例えば女性割礼(FGMないしFC)は、ケニアをはじめアフリカでは長く風習として行われてきたが、アメリカを中心とした先進国の運動家が反対運動を行って廃止させてきた(完全に廃止されているかは私にはわからない)。
女性割礼は男性による支配のあらわれであり、女性の自立を奪う。そして医学的にもリスクを伴う。女児は男児と同様に教育を受ける権利があり、自立した個として生きていくべきである、というのが運動家の主張である(要はアフリカの蛮行だ!と言うことなんだろう)。
ケニアは元々は自国の文化にアメリカが口を出すな!の態度だったらしいのですが、女性割礼を禁止にしないと援助を打ち切るぞ!とプレッシャーをかけられて引き下がったそう(又聞きなので曖昧ですみません)。そしてケニアでは若い女性への割礼は禁止になったらしい。とはいえ完全に文化として消滅したわけでもなく、また既に割礼を受けた女性たちは多数いるため、ケニアにおいて女性割礼はまだ昔のこととは言い切れない。
女性割礼が公的にはなくなった今、ケニアの若い女性は教育を受け、自立に向かっている。従来のように年頃になったら割礼を受けて早く結婚する、というレールを外れる人も増えてきているらしい。

日本で暮らす私には女性割礼はとても受け入れられない。自分は受けたくないし、娘にも絶対受けさせたくない。10代で割礼して結婚?ふざけるなよ!と思う。それは、私はその文化の中で生きていないから。男女の隔てなく高等教育を受け、社会に出て、自立して、その先で自由恋愛による結婚をしても良し、しなくても良し、という社会の中で生きている私には、女性割礼は完全にありえない。
でも自分がありえない!と思っていても他人の文化に口を出していいものか?というと、私の尺度ではそれはNGである(母校でみっちり叩き込まれたから)。先進国の眼鏡で見たケニアの女性割礼を受ける女性たちは「可哀そう」で「被害者」なのかもしれないが、それは眼差している側の価値観であって、当の本人たちはそう思っていないかもしれない。彼女たちを可哀そうな存在に貶めているのは女性割礼をするケニアの大人たちではなく、外から眺めている私たちかもしれない。

ユニセフのチラシに載っている『全ての子どもに教育を!』というスローガンも80%くらいで賛成で、20%くらいは懐疑的な気持ちで眺めている。それって先進国(という表現自体がおこがましいよね?)の価値観ですよね?もっというと先進国が作っている資本主義のゲームルールの中で生きていくために必要なものであって、その民族が生きていくために本質的に必要なことかは定かではないのでは?とすら思ってしまう。
いまは資本主義が世界の中心にあり、その中で国を超えるネットワークを構成しながらビジネスをして外貨を得ていかないと相対的貧困が待っているのだけど。そのひずみによって起きている争いごとも少なくないよね、と。(某ひろゆきみたいなレトリックになっちゃった)

都会も辺境も、等しく価値観や文化を尊重されるべき、だと思う。お互いに卑しく思えることもあるだろうけれど、他人の領分には立ち入らない。というのは難しいのだろうか。児童労働やレイプなど虐げられている人がそこにいる以上、助けないわけにはいかないのかもしれないけど。うーん。。。
このテーマを考え始めるといつも思考は泥沼化して答えが出ない、のだけど、そもそも答えがある類の問いではない。そして泥沼化するということは、そこに知識が圧倒的に足りていないわけで、勉強せねば…という焦燥感に襲われてしまう。

国際開発の果てに世界平和は訪れるのだろうか。私が生きている間にその答えって出るのだろうか。私は自分の中でその答えを見つけられるのだろうか。うーん。これは本格的に学ばなくてはいけない。大学院行こう。

ムラブリから始まって全然違うところに着地してしまった。ムラブリは私の学びのドアを開く鍵だったのかもしれない。

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