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悲田処考

 多摩と入間の境に悲田処があったという。
 どこにあったのか?というのが「悲田処考」の論点だそうだ。

 武蔵野台地は、むかし、多摩川が作った扇状地であったものが、立川断層が動いて、川筋が変り、干上がった川筋・堤防などの上に数十メートルもの火山灰(浅間山・富士山発)が積もって(モットかも?雨に流され、圧縮されて今の厚さになったそうだ)できた。
 川筋が変っても、台地は水を含むから、そんなに極端に乾かなかったと思うのだが、古代にはもう、砂漠のようだった、らしい。砂漠ほどではないか、だが、豊かな扇状地が背の低い菅の原にかわったのは確かだ。
 当時、武蔵野に雑木林はない。雑木林は人が営々と植えたものだ。生きて行くために。けっこう屋敷林がベースだったりする。

 朝廷は、八王子・府中のあたりに大きな寺を作り(国分寺)、行政府を作って武蔵の國を治めていた。
 不思議なことに、朝廷は海からではなく、陸からそこへ行ったのだ(東山道武蔵路、という)。
 富士山が噴火していたからかもしれないし、川を渡れなかったせいかもしれないし、親潮の動きが大きくて、舟が太平洋に流されがちだったのかもしれない。そのころは、温暖化で今より海面が1mも高かったというから、今までの海岸プチの道が沈んでいたかもしれない、とにかく、海路はあったが(東海道)、そっちからではなく、群馬から南下する道を作った。
 (ちなみに、時代が下がると、東海道側からの道が機能するようになり、付け替えられ、東海道側へ)

 それは、砂漠のような武蔵野台地をキッカリ(なんといっても、武蔵路は直線だからね!)横切り、壮麗な仏都に続いていた。道幅12m、道の両側には清水のながれる堀があり、それを支えるために堀兼の井戸が掘られた。
 堀兼の井戸は、崩れないように石を張った、ゆるやかに傾斜する直径十数メートルの大きさの人工クレーター。底には井戸があって、その井戸まで、ねじねじと渦巻き道を歩いて行くのだ。まいまい(かたつむりのこと)ず、ともよばれていた。今に残る遺蹟よりだいぶん大きかったのではないかと人の言う(あれは崩れているからね)。

 というのが背景である。

<悲田処には「どこにあったか論争」があって、今日はそのお話をご一緒したいと思って記事を書いています。長い前置きでごめんなさい>

  論争、とは、「悲田処のあった位置」について。
  柳瀬川を挟んで何カ所か候補があるのです。
  多摩のこの辺か、入間のここか。

 私は悲田処は、大きな荘園だったと思う。「ここ」というのではなく、柳瀬川の両岸、田圃のできそうなところは全部、悲田処にしてそのあがり(収穫物)を経営に当てたのだと思う。たくさんの旅人(その半分は官僚たち、僧侶も)。そして、武蔵路の堀を維持する、水を流す(全部ではなかったにしろ)ための人員配置。これは、井戸の周りに畑を作っての、定住作戦(その集落が管理する形)しかないだろう。その村が難儀していないかどうかの見回りもいるよね・・・。

 では、その中心はどこにあったのか?

 そうか、そうしたらやっぱり、面でなく点が争点になるのか。

 私が思うに、管理棟(+病棟)は武蔵路のどこかにあったと思う。それも、悲田処というがごとく、バタリと倒れちゃう旅人を助けられる場所。熱中症やお腹がすきすぎての貧血、冷えてしまっての体力消耗。
 けっこう大きな建物で、後ろに施設の長い列。そこに働く医師・看護師たちが食べて行けるだけの背景も必要だ。食料を作る人々も族ごと養わなければならない。食料備蓄もさせてたであろうし。
 救急病院だとしたら、砂漠である武蔵野台地(オアシスである田圃地帯でなく)側にあったろう。多摩と入間の両方に必要かもしれない。
 だけどそう・・・田圃の真ん中、ちょっと高い、洪水に見舞われない場所に、いつも見ている場所が必要かもしれない。今の将軍塚のような。旅人が遠くからも見えて『あそこまで、あそこまで行けば、助かる!』と思えることはとても大切だ。

 やっぱり論争になるんだなー。

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