ばあちゃんとりんごの皮むき
夕方、料理に使うりんご剥いてたらばあちゃんのことを思い出した
今じゃ慣れたすっかりりんごの皮むき
思えば教えてくれたのは、ずっと一緒に住んでたばあちゃんだった
両親が共働きで、学校から帰るといつもじいちゃんとばあちゃんが家にいた。当時は私のとってそれが当たり前。両親を家で一人で待つ、なんて経験はほとんどしたことがない。必ず誰かが帰りを待っててくれた。
ばあちゃんはよく果物をおやつに出してくれた
りんごもその一つ
小さい頃はりんごの皮が綺麗に剥けていく、それが本当にすごいことに思えてずっとばあちゃんがりんごを剥いてくれるのを見ていた。それは魔法のように思えて何度見ていても飽きなかったんだと思う。
ばあちゃんが笑いながら、「やってみるかい?」って言って果物ナイフを貸してくれたのを覚えてる。
そこからはしばらくりんごの皮むきに夢中になって、何個も何個も剥いたっけ
でも、やっぱりばあちゃんみたいに上手くは剥けなくて途中で投げ出して結局ばあちゃんに剥いてもらっていたような気がする。
そんなことを、ふと、思い出した
本を読む楽しさも、ご飯が食べられないときは味噌汁だけでも飲んでいきなさいって教えてくれたのも、いつも作ってくれる晩御飯も、
たくさんたくさん教えてくれたのは、ばあちゃんだった
そして、いつも一緒にいるじいちゃんも。ばあちゃんに内緒でおやつくれたり、家の周りを綺麗にしてくれたり、いつも私たち兄弟を「かわいい、かわいい」って言ってくれたりしていたことも。
中・高は生意気で口が悪くて、いつもじいちゃんとばあちゃんにきつい言葉を投げつけていた。ひどい態度をたくさんとった。
二人がいなくなったのは、本当に突然だった。
反抗期も終わり、やっと二人にも優しくなることができてきたときだった。
ありがとうもごめんなさいも何も伝えることができないまま、二人は遠くに旅立ってしまった。
二人が亡くなって、初めて実家に帰ったときの家の暗さが今でも忘れられない。
家に帰ると、必ず付いていた明かりが、ついていない。
いつも帰りを待っててくれた人が、いない。
それがどんなに尊いことだったのか、気づいたときにはもう二人はいなかった。
ばあちゃんの葬式の日、孫を代表して最後の言葉をかけてって言われたとき出た言葉は、「一人で家に帰るさみしさを感じてこなかったのは二人がいたから」っていう感じだったと思う。もうなんて言ったかなんて覚えてないけど、それがすごく残っている。
久しぶりに思い出しても、涙が溢れてきてしまう。
自分でもびっくりしてしまうけど。
でも、同時に二人が残してくれたものがあるんだということをふとした瞬間に思い出すことがあって。例えば、今日のりんごの皮むきとか。まだ私の中にいるんだなって、感じることがあって。
物を買ってくれたとか好きなものを与えてくれた、とかじゃなくて、生きていく上で大事なことを教えてくれたじいちゃん、ばあちゃんだった。
二人には何も伝えることも何もしてあげることもできなかったけど、今いる大切な人たちには自分のできることを、していきたいなって思う。
ああすればよかった、こうすればよかった・・・はもうなし。
たくさんの人に優しく!なんてできそうにないけど、せめて大好きな人たちにはね。
次また会えるかなんてわからない。自分も大好きな人たちも。
忘れてしまいそうだけど、忘れないようにしたいなぁ。
なんだか今日はぶわーって色々溢れてしまった。
ま、そんな日もあるよね。
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