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宝石の国 ー歪な愛の博物誌ー(ネタバレ感想)

 『宝石の国』を最終話まで読みましたので、感想を書きます。多大なネタバレを含みますので、未読の方はご注意を。

 まず、どんな作品であったか。
 一言で言えば、「人類の絶滅から無機生命の誕生へと至る、その過渡期のを描いた物語」です。また、「愛を求め、愛を得られず、愛から離れ、解脱に至るフォスフォフィライトの物語」でもあります。
 そして、「人間性=煩悩を焼き切り、人間を根絶すること」が作中で最終的に救いとして提示されます。
 仏教的な世界観が作品の根底にあります。凄まじい傑作だと思います。


あらすじ


 以下、簡単にあらすじ。ネタバレを含みます。
 遥か未来、人類が既に滅んだ後の地球。人間から派生した三種の生命が存在する世界が舞台です。鉱石生命である宝石たち、人間の魂のなれ果てである月人、人間の肉のなれ果てである貝・アドミラビリス族。
 宝石たちは、指導者である金剛先生とともに、月から襲来する目的不明の月人と戦いながら暮らしています。

 物語は、人造の菩薩機械である金剛先生をめぐり進んでいきます。
 金剛先生は、宝石を愛し執着したことで、菩薩としての資格を失い、救いの祈りを行えなくなります。月に住む月人たちは、金剛先生の祈りによって無に還るために、金剛先生の祈りを起動させるべく、彼の愛する宝石を破壊するという試みを続けていることがわかります。
 主人公である宝石フォスフォフィライトは、月人の目的を知り、人間へと進化することで金剛先生から祈りを引き出そうとするも失敗し、やがて、一万年の時を経て、自らが弥勒菩薩となります
 菩薩となったフォスは、あらゆる人間を無へと解き放ち、そしてはるか彼方の時代に生まれた無機生命たちとしばし幸福な時間を過ごします。
 そして、赤色巨星となって地球を飲み込む太陽から無機生命たちを逃がすため、太陽系から脱出させ、自らの内にある最後の人間性の残滓を消すために、地球とともに太陽に飲み込まれ、燃え尽きます


人間の根絶

 驚くべきは、作品の中で、「人間」を「根絶すべきもの」として描き切ったことだと思います。これは本当に衝撃的でした。例えば、『火の鳥』でさえ、人間の愚かさをこれでもかと描きながらも、その中にわずかにある善性を信じ、人間の歴史が繰り返し続いていくことを描いていました。
 過去の漫画作品を振り返って、人間の醜さ、愚かさを描き、人類の滅亡を描いた例はあると思います。(例えば、横山光輝の『マーズ』とか、永井豪の『デビルマン』とか。)あるいは、絶望のうちに人類が滅ぶような作品もあると思います。(ジョージ秋山の『ザ・ムーン』とか。)
 ですが、人間の善性や美しさ、愛情を認め、しっかりと描いたその上で、「人間」を「根絶する」という結論に至るのは、とても稀有なことではないでしょうか。

 作中において、「人間」とは、善悪を併せ持ち、自らの幸福を知らず、妬み、自分に満足できず、底なしの欲求を持ち、愛に捉われ、進化する存在です。
 そして、作中で最後に登場する無機生命たちは、ただ善であり、己の幸福は皆の幸福であり、比べず、自らに満足し、欲せず、執着せず、不変の存在です。
 そして「人間性」とは、愛であり、執着であり、欲望であり、憎悪です。つまり、煩悩です。

 「壊れやすく、変化する」という性質を持っていたがゆえに、宝石たちの中で、誰よりも「人間」に近かった主人公、フォスフォフィライトは、進化の果てに、自らの内にあった「人間=煩悩」の全てを焼き尽くすことで、あかるく透明な幸福を持った無機生命に至ります。

 『宝石の国』が全108話なのは、当然、煩悩の数である108個に対照させたものでしょう。



歪な愛の博物誌

 愛とは何か。
 作中では、フォスフォフィライトは、万人から愛されることを望み、結局誰からも愛を得ることができず、絶望と憎悪の末に、すべてを失ってしまいます。フォスは愛に関して、最も劇的なドラマを持ったキャラクターです。彼の愛は、時に身勝手でエゴイスティックで残酷であり、コンプレックスまみれで破壊的です。ただしこれは、フォスフォフィライトの瑕疵というよりも、「人間の抱く愛とはそのような側面がある」という、仏教的な観念および、作者の信念によるものだと思います。というのも、フォス以外の他のキャラクターたちの抱いている「愛」も、多かれ少なかれ身勝手で、歪な部分を持つ愛だからです。
 作中で、キャラクターたちの抱く「愛」は煩悩であり、歪な愛です。
 例をいくつか挙げるとすれば、

・弟であるボルツを愛しながらも、その強さに嫉妬し、ついには破壊しようとするダイヤモンド
・コンビであったパパラチアを修復することに執着し、パパラチアが奪われると憎悪に狂うルチル
・相方を失い続けたことで精神の平衡を崩し、心神喪失と高所からの落下を繰り返すイエローダイヤモンド
・相棒であったラピスラズリの亡霊を追いかけ、フォスにその代理を求めるゴースト・クォーツ
・もう一人の自分であったゴーストの幻視に縛られ、フォスに尽くそうとするも、呪いが解けた後は、一転、フォスに対して冷酷になり、月人の王子エクメアに尽くし、ともに無になることを望むようになるカンゴーム
・月人に相棒のクリソベリルを連れ去られた憎悪により、月人を見ると狂暴化するアレキサンドライト
・互いに離れられず、頭をぶつけ合うことで周囲を怯えさせるアメシストの双子
・冬の間、金剛先生を独占しようとし、心の底ではフォスを許していなかったアンタークチサイト
・平気な顔で嘘をつき、自らの知的好奇心から、フォスを人間へと進化させてしまうラピスラズリ
・毒液を出すため仲間と行動できず、孤独の中でフォスと共感するものの、フォスとの戦闘で仲間に認められ、居場所を得ることでフォスを必要としなくなるシンシャ
・弟を助け出すために、フォスを騙し月人に差し出すウェントリコスス
・長年宝石たちを攫い、砕きながら、宝石であるカンゴームに一目惚れし、無性の彼を飾り立て、妻として手元に置くエクメア
・宝石を愛し執着したことで、祈ることができなくなった金剛先生
・生みの親の博士のために地球に隕石を降らせて嫌な上司を殺害しようとした兄機。(一番ヤバくないか?)
・金剛先生に「人間より無機生命を優先する」ことをプログラムしたため、後に金剛先生が鉱石生命である宝石に執着する事態を引き起こした博士

 
 さながら、「歪な愛の博物誌」です。ですが、これら歪んだ愛はつまるところ、彼らが人間に由来することから生まれた「煩悩」であり、人間の末裔であることから避けがたく生まれてくるものです。

 もっとも劇的な変化を辿ったがゆえに、作中で月人の王子、エクメアの陰謀によって「人間」に進化させられたのはフォスですが、おそらく、その次にエクメアが「人間候補」として考えていたのはカンゴームです。(「俺は人間になんかなんねーぞ!?」というエクメアとカンゴームの会話から、そのことが推察できます。)カンゴームは人間化していくフォスに呆れ、フォスの愛の残酷さを指摘し、エクメアに「人間なんか作らなくて正解」と語りますが、皮肉なことに、愛する対象以外への酷薄さを持ち、愛する対象には盲目的に服従する、フォスの次にもっとも人間に近い宝石は、間違いなくカンゴーム自身です

 最終的に、宝石たちもアドミラビリス族も、皆月人化し、一万年の享楽の生を送るように見えます。しかしいかに幸福そうに見えても、実際には、そこに待ち受けているのは忘却と飽きであり、一万年後、彼ら全てが、無に還ることを望み、フォスに救いを求めます。結局のところ、人間の愛が煩悩にすぎないかぎり、幸福は飽きから絶望へと変化していく。そして、人間の飽くなき欲望が最後に求めるのは無という救済である、ということになるのでしょう。

『虚航船団』を連想する

 筒井康隆に『虚航船団』という作品があります。全員が狂気に冒された宇宙船の乗組員である文房具たちが、イタチ族との絶滅戦争に赴き、ついには全員が死に絶える、という物語です。
 前半は個性様々、狂気も様々な文房具たちが紹介されます。「まずコンパスが登場する。彼は気がくるっていた」という印象的なフレーズで描写される多種多様な登場人物たちの描写は、さながら、「カリカチュア化された狂気のカタログ」とでも言いたくなようなものです。

 実際のところ、『宝石の国』が『虚航船団』の影響を受けているかはわかりませんが、片や宝石の擬人化、片や文房具の擬人化であり、両者ともに異質な存在との戦争に突入する、という共通点があります。
 私が『宝石の国』を「歪な愛の博物誌」と呼んだのは、『虚航船団』を「狂気のカタログ」と考えていたところから連想したものです。
 もし、『宝石の国』が『虚航船団』の文体で書かれていたら…

「まずフォスフォフィライトが登場する。彼は気がくるっていた。宝石でありながら強度に欠け、生来の不器用と飽きっぽさから、何をするにも向かなかったが、彼は自分を特別であると信じ、皆に愛されるべき存在だと思っていた。 宝石たちの指導者金剛先生が、彼にどんな仕事を与えても分厚い不器用の層に阻まれ投げ出してしまうが、彼はそれを、自分に割り当てられる、地味で退屈な仕事のせいだと思っていた。彼は愛らしい自分にはもっと華やかで素晴らしい仕事があるべきだと、金剛先生にたびたび抗議した。金剛先生は眉間にしわを寄せ、ため息を一つつくと、ついには博物誌を編纂する仕事を彼女に与えた。ただ周囲見て回り、記録すればよい仕事である。強度3.5のフォスフォフィライトにもこれならば務まるであろう。危険もなく、重要な仕事である。しかし、それすらまた、彼はすぐに投げ出してしまった…」

 とかなんとか。


もっとも人間に近い宝石、フォスフォフィライト

 主人公、フォスフォフィライトについて。
 なぜ、フォスが物語の中で、(エクメアにより)人間化され、さらには菩薩に至る役割を負わされたのか。
 フォスが、もっとも人間的な性質を持った宝石であったから、ということになると思います。

・他の宝石や鉱物を取り込み、変化=進化していく宝石としての特異な性質。
・万人に愛されたいと願いながらも、強度が低いことにコンプレックスを持つ心情。
・脆さと不器用により、どんな仕事にも向かず、その上にすぐ投げ出してしまう怠惰のくせに、特別でありたいと望む。
・金剛先生を機械と知り、失望しながらも、金剛先生の愛にすがる他力本願。
・遠くの仲間を助けるという目的のために近くの仲間を犠牲にしようとする酷薄さ。

 フォスは仲間の宝石たちに愛されたいと願い、仲間を救おうとするがゆえに、仲間の宝石たちと対立してしまい、狂っていきます。ただし、決して、フォスは一面的に悪人などではありません。
 善悪の二面を持ち、愛し、愛が返されないことに失望し、自分の幸福が何かわからず、混乱し、悲しみ、憎み、もがいている存在です。つまりは、人間とはそのようなものであるがゆえに、もっとも人間らしい存在です。

 物語の前半は、誰よりも脆く、弱かったフォスが、身体を変化させながら、金剛先生を愛し、正体不明の月人と戦う物語です。やがて、ラピスラズリの頭を移植されたことで知恵を得たフォスは、金剛先生への疑いを募らせていきます。自らを変えていくことで愛を得ようと努力するフォスの苦闘と、宝石たちに平等に愛を与える金剛先生への失望が、前半に描かれます。(フォスの振る舞いは、まるで、整形手術を繰り替えすことで、仲間や金剛先生の愛を得ようとしているかのようです。)
 物語の後半、仲間の宝石を攫う月人の目的を知るために月に赴いたフォスは、そこで月人の真実を知ります。月人は人間の魂のなれ果てであり、無に還ることを願っている。無に還るには、人造の菩薩である、金剛先生が月人のために祈らなくてはならない。しかし、宝石を愛してしまった金剛先生は祈ることができなくなってしまった…。フォスの目的は、宝石たちを再生させるために、金剛先生を祈らせることに変わります。そして、そのことを邪魔する宝石たちと対立し、やがては、宝石を破壊し、金剛先生をも破壊してしまう。愛を得るためにフォスがなしたことは全て裏目に出てしまい、誰からの愛も得られず、金剛先生すら、フォスのために祈ることをしない。フォスの愛の渇望は憎悪と破壊に向かいます。助けを求めるユークレースをあざ笑い、理解できなかったことを詫びるジェードを壊し、かつて自分と孤独を分け合った、最低の硬度2のシンシャをバラバラにする。ついには、自分のために祈ることをしない金剛先生すら壊してしまう…。

 フォスは、愛を求め、愛を得られず、絶望の一万年の果てに、愛という執着から離れます。そして、執着ではなく、憐憫から、すべての人間(月人、宝石、アドミラビリス族)のために祈り、彼らを無に帰します。つまりは、フォスは人間の煩悩である、執着の「餓鬼愛」から、菩薩の愛である、憐憫の「法愛」に達した、ということになります。

 そして、さらに長い長い年月の果てに、無機生命体たちを見出し、彼らの持つ「人間性を内包しない、そのままのあり方による愛」に触れます。それは、誰かを羨むことも、妬むことも、比べることも、固執することもなく、ただ自分のあるがままに満足し、過去の人間を、善なる人間も悪なる人間も哀れみ、すべての存在の幸福を自らの幸福とする、真に無垢なる愛、はじめから法愛に達した、無機物たちの愛です。

 フォスの最後の望みは、この無機生命体たちを生かすこと、なにより、自分の中にあるかもしれない「人間」によって、無機生命体たちを汚染しないことです。それゆえ、フォスは赤色巨星になった太陽が地球を飲み込むとき、無機生命体を太陽系から逃がす際に自分は地球に残り、自分の中に最後に残った「人間」の残滓とともに、滅びを迎えるのです。

 これほどまでに、「愛」という人間の原罪に苦しみ、「愛」に執着した罰を受け、最後の一人の「人間」として、自らの滅びを選んだキャラクターは、フォスフォフィライト以外、私は知りません。
 最後に、フォスフォフィライトのわずかな欠片が、無機生命体の一員となり、安寧を得たことが、小さな救いです。


まとめ

 『宝石の国』は、「宇宙的なスケールでの星の滅びと新たな知的種族の誕生」と、「フォスフォルフィライトという主人公の進化と一生」と、「仏教的な、執着としての愛から、憐憫としての愛に至る救済」を、わずか108話という短さの中で描き切った、極めて稀有な、素晴らしい作品だと思います。「人間の根絶」という強烈な結論にたどり着く一方、その人間性に発する愛に捉われた様々なキャラクターたちが、まさしく宝石のように魅力的に描かれています。
 愛に苦しみもがくフォスフォルフィライトの姿は人間そのものの姿であり、自らと共に人間を燃やし尽くし、根絶することを選ぶフォスの姿は、胸を締め付けます。

 最後の「人間」がフォスとともに燃え尽き、人類の全てが根絶された後にたどり着いた、無機生命たちの楽園の中で、フォスの小さな欠片がただフォスであることを受け入れ、誰かの気分を明るくする幸福な永遠を得たことを、ただ嬉しく思います。


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