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1527年5月6日 


Sacco di Roma(ローマ劫掠)…1527年5月6日、神聖ローマ帝国の皇帝軍が、ローマの街を襲撃。無防備な一般市民や聖職者に対し殺戮、暴行(性的暴行含む)、強奪など、そして聖堂や教会に備えられていた聖具、聖遺物、芸術作品などの破壊や強奪などの犯罪行為を行った事件。皇帝軍は主にスペイン兵、ドイツの傭兵ランツクネヒトで構成されていたが、イタリア兵もいた。


今回の記事のタイトル日付にしましたが、上記のように歴史上ローマ劫掠サッコ・ディ・ローマと呼ばれる、ローマが襲撃された日のことです。
また石鍋真澄氏の『教皇たちのローマ』(平凡社 2020年)というサッコ・ディ・ローマに関する著書の中の1節でもあります。

『教皇たちのローマ』は、たまたま2カ月ほど前、三省堂書店の本棚で見つけました。日本人の著者の方だからかもしれませんが、参考図書としても比較的分かりやすく読みやすかったです。
タイトルからは、サッコ・ディ・ローマに関するものだとは気付かず、たまたまルネサンス期の美術書のコーナに置かれており、見つけられてラッキーでした。(最近ネットのおかげで、書籍探しで大きな書店に足を運ぶ機会も減りましたが、私の場合アナログ的というか、昔ながらのやり方の方が運気があるかも…)
この著書の後半はサッコ・ディ・ローマ後の、ローマの復興・再建や、バロック時代・美術の詳細や歴史が語られていますので、バロックに関心がある方にもお薦めです。前半はサッコ・ディ・ローマに関することで、辛辣な内容も多いのですが(辛いようでしたら前半は読み飛ばしてもよろしいかと)。

これまでミケランジェロのシナリオなど創作の記事を主に投稿し、noteを続けられまして、ローマ劫掠サッコ・ディ・ローマのことを、当初の予想以上に追うことになりました。
この劫掠の体験をしたのはミケランジェロではなく、友人の画家セバスティアーノ・デル・ピオンボだったので、さらっと終わらせるつもりでしたが、現在一般公開中の、ミケランジェロがメディチ家礼拝堂の地下室(隠れ部屋)に逃れた「フィレンツェ包囲戦」につながります。また調べていくうち、洋書のミケランジェロに関する美術書で、トマソ・カヴァリエリも体験者で、後の大作システィーナ礼拝堂の『最後の審判』を作成するきっかけにもなっているということも確認しましたので、やはり今後の自分の創作のストーリー展開に大いに関わることかと。
ミケランジェロ恋愛云々だけなら、少女漫画的?な自分の想像・発想だけで終えられたのかもしれませんが、人への暴力行為や聖具、聖遺物などの破壊などを表現するのであれば、そういうわけにはいかないので、史実を追わなければと思いました。

私が手にしたサッコ・ディ・ローマに関する、これまでの主な参考文献です。
『教皇たちのローマ』 石鍋真澄著 平凡社 2020年
『ローマ劫掠 1527年聖都の悲劇』 アンドレ・シャステル著 越川倫明他訳 筑摩書房 2006年
『ルネサンスの歴史(下)反宗教改革のイタリア』 I.モンタネッリ/R.ジェルヴァーゾ著 藤沢道郎訳 中公文庫 2016年
ローマ ある都市の伝記』クリストファー・ヒバート著 横山徳爾訳 朝日新聞社 1991年
メディチ家の盛衰 (下)』クリストファー・ヒバート著 遠藤利国他訳 東洋書林 1986年
イタリア史 Ⅸ』F.グイッチャルディーニ著 川本英明訳 太陽出版 2007年

上記の中には私は読解だけで難儀したものもありますので、質問ツールとして、ChatGPT3.5など対話型Aiを活用しました。(今ではCopilotも使ってますが、昨年までCopilotの存在すら知りませんでした💦)
PCやスマホに打ち込むだけで、回答してくれるとは、便利になったと思いましたが…他の方の記事では、対話型Aiは間違っている回答も多いとか?
それは問題かもしれませんが、たいがい私の質問では、Ai君たちの返ってくる答えは下記のごとくでした。

……すべての出来事についての詳細が完全に正確であるかどうかは、他の史料と照らし合わせて検証することが重要です。

特に混乱した時代や出来事に関する情報は慎重に取り扱う必要があります。各著者が異なる視点から事象を捉えている可能性があり、その文脈を理解した上で情報を検証することが重要です。

ChatGPT3.5

史実ですか?の質問に、まずYes, Noが明確な返答がないので、自分で徹底的に検証して、判断しろってことですかね。
私の創作の参考で、ミケランジェロが誰に惚れた腫れたとか、晩年ローマが再びスペイン軍に襲撃されそうになった時、逃げた道のりなどの質問には「可能性あり 」「可能性高い」という回答もありましたが。
国、宗派、派閥絡みの戦争犯罪の具体的な事例に関しては、ChatGPTの場合、それすらもなかったです(有料にでもすれば、違う回答を返してくれるのか、わかりませんが)。
どこまで徹底的に出来るかわかりませんが、事例が史実かどうかの確認は、Aiに訊く前に、著書の引用文献も追っていかねばと考えましたが、著書によっては記載のないものもあり、また一番詳細な著書『ローマ劫掠 1527年聖都の悲劇』でも、人名か引用文献かも判断が難しかったり、略されたりしていました。
最近になって手にした『教皇たちのローマ』で確認し、またローマ劫掠 1527年聖都の悲劇を読み直し、参考書の多くは、下記から引用されていることがわかりました。

『ローマ教皇史』ルートヴィヒ・フォン・パストール(Ludwig von Pastor)著 1886-1907年
『ローマ劫掠 1527年』ジュディス・フック(Judith Hook) 1972年

ルートヴィヒ・フォン・パストール(Ludwig von Pastor)の著書は、Aiに確認したところ、かなり評価が高くて信憑性があるという回答でしたが、『ローマ劫掠 1527年』ジュディス・フック(J. Hook)に関しては、当初著者の存在を検索したりAiに確認してもわからず、ようやく判明しても、ChatGPT3.5では「あまり一般的ではない」という回答でした。
どちらも日本語の翻訳本は出版されておらず、Aiの示すように、これらまで検証することは難しいのですが…ここまでの引用の所在だけは追えました。

以下からは対話型Aiとのやり取りになります。

私:1527年のSacco di Romaでは、たくさんのローマ市民が殺されたということですが、それをしたのは主に、神聖ローマ帝国のルター派の兵士ですか?

1527年のSacco di Roma(ローマ略奪)は、神聖ローマ帝国のカール5世の軍隊によって行われました。これに含まれる兵士の中にはルター派の信者も含まれていましたが、略奪や暴力行為を行った兵士は様々な出自や宗派を持つ者で構成されていました。そのため、彼らを単にルター派の兵士として特定することは難しいです。
Sacco di Romaは、当時の複雑な政治的状況や宗教的対立が絡んだ出来事であり、カトリック教会と神聖ローマ帝国の対立が影響しています。兵士たちは戦利品を求めてローマを略奪し、市内で暴力や略奪を働きました。この事件によって多くの市民が死傷し、ローマは大きな被害を受けました。
要するに、Sacco di Romaの兵士たちは様々な背景と宗派を持つ者で構成されており、特定の宗派や信仰だけで説明することは難しいです。彼らは戦争と略奪の中で行動していました。

ChatGPT3.5

正確な責任者や主導者は特定されておらず、複数の勢力が関与していたとされています。神聖ローマ帝国のルター派の兵士が主に関与していたことは事実ですが、スペイン、フランス、イタリアの軍勢も参加していたとされています。また、ローマ教皇クレメンス7世も、戦争の余波で兵員不足となったスイス傭兵を雇用していたため、彼らも事件に関与していた可能性があります。したがって、この事件の責任は単一のグループに帰せられるものではありません。

LINE Aiチャット君

日本のサッコ・ディ・ローマに関する著書だと、皇帝軍ランツクネヒト部隊がローマで残虐行為を行ったとなっています。
この部隊は主にルター派だったのでしょうか? 

ランツクネヒト(Landsknecht)は、16世紀のヨーロッパにおいて主に傭兵として雇われた兵士の部隊です。ランツクネヒトは、ドイツ圏を中心に多くの兵士が所属していました。彼らの特徴的な服装や武装が知られており、その出自や信仰は多様でした。したがって、特定の宗派に帰属するものではなく、異なる信仰や出自の兵士が混在していました。

ランツクネヒト部隊がローマでのサッコ・ディ・ローマの際に残虐行為を行ったとする報告は、その時の混乱と暴力の中で発生した出来事を示すものです。特定の宗教的な背景に帰せるかどうかは明確ではなく、ランツクネヒト部隊にはカトリック教徒やプロテスタント(ルター派を含む)を含むさまざまな信仰を持つ兵士がいました。したがって、特定の宗派による行動とは限らないでしょう。

歴史的な出来事については、複数の情報源を総合的に検討し、事実として確認するために注意が必要です。また、サッコ・ディ・ローマにおける出来事は非常に複雑で混乱したものであり、異なる視点からの情報が存在することも考慮に入れるべきです。

ChatGPT3.5

対話型Aiを使い始めた当初は、参考文献を熟読していなかったこともありますが、キーワードのランツクネヒトですが、参考著書ではF.グイッチャルディーニ(当時の教皇側の政治家)の『イタリア史』以外、『教皇たちのローマ』をはじめランツクネヒトは全て、あるいは大半がルター派だったと記載されていました。
手にした現代の著書が、全てそういう見解ということで、ChatGPTと相違しています。対話型Aiの回答は、必ずしも正確ではないととらえてしまえばそれまでですが、私の場合はこの相違が、参考になりました。

ランツクネヒトだけでなく、スペイン兵による卑劣な事例も数多くあります。
トスカーナのプラートという、フィリッポ・リッピ親子縁の地で、私の大好きな街なのですが、1512年にスペイン兵によって襲撃、強奪されています。
別の記事で取り上げさせていただきましたが、リッピと息子の母親、ルクレツィアとの縁の「聖帯祭」というお祭りが現代でも行われてましたので、昔ですが観光しました。
「聖母の帯」という聖遺物は残存し、大聖堂で祀られお祭りの日に一般公開されています。
サッコ・ディ・ローマのことを追っていた中でこの歴史を知り、略奪されなくて良かったと改めて感じました。

ただ『教皇たちのローマ』の中で、石鍋氏はこのプラートの事件以上に悲惨だったとし、下記のように述べています。

——サッコ・ディ・ローマを悲惨なものにした最大の要因は、ランツクネヒトの大半がルター派であったことだった。彼らは教皇とカトリック教会に鉄槌を加えようという、いわば『宗教的復讐ヴェンデッタ』の念にかられていた

教皇たちのローマ

「宗教的ヴェンデッタ」という言葉は、この著書で認識したのですが、こちらを手にする前、他の参考著書複数に目を通し、そういった念があったのだろうと解釈はできました。
その一つを抜粋いたします。
以下著書からの抜粋の中で、過激な文言、内容が含まれています。
不快に感じられるかもしれませんので、ご心配でしたら残念ですが、ここで終えていただく、よろしくお願いいたします。



ランツクネヒト軍団は復讐の刃を一般住民に向け、無差別殺戮に至る。たちまち一万を超す死体が舗道に折り重なり、テヴェレ川にも三千の死体が浮かんだ。最大の目当てはサンピエトロ大聖堂とバチカン宮殿である。その中に積まれた富はみな、教皇とか枢機卿と称する盗賊によって祖国から盗み取られたものだと、ルターの言ったとおりに強奪者たちは確信している。持ち出せないものはすべて、偶像破壊の信念に基づいて破壊してしまう。聖庁尚書院に避難していたコロンナ一族は、五万ドゥカーティの身代金を払って安全を買ったが、バチカン宮のそのほかの棟はすべて劫掠され、中にいた高僧、君侯、従者はつぎつぎ惨殺される。聖堂は軍営と売春宿に変じ、ラファエロの壁画のある部屋部屋は厩舎に使われた。スペイン系、ドイツ系の枢機卿たちは、皇帝の臣下だから、乱暴はされぬだろうと思っていたのに、暴力は仮借なく彼らをも襲った。こうした兇暴さを生み出したのは、破壊衝動と動物的欲望だけではなかった。これら野生に戻った蛮人たちも、祭壇を壊し、彫像や壁画を汚損し、図書館に火をつけ、修道女を犯しつつ、これが神への奉仕だと彼らなりに信じていたのだ。歓呼の声を上げてルターを教皇に推戴し、ルターの名において、殺人と破壊の狂宴を祝福したのだ。

ルネサンスの歴史(下)反宗教改革のイタリア
44 ローマ劫掠 章より

上記「宗教的ヴェンデッタ」を表している内容で、この中の具体的な事例は、他の著書でも取り上げられている箇所もありますが、引用文献の記載がなく、著者の解釈や感情論がどこまでなのかの判断が難しいです。
「ルネサンスの歴史(下)反宗教改革のイタリア」は翻訳物としては読みやすく、宗教改革など、イタリア以外の歴史も要約されていますので、全般的なことを辿る参考にはなりました。

最後になりますが、下記は引用文献が判明した事例なので、Aiにぶつけました。

「ローマ ある都市の伝記」クリストファー・ヒバート著の中のサッコ・ディ・ローマの章の中で、「ある聖職者は騾馬に聖餐式を取り行うことを拒否して、ルター派の兵士たちに殺害された」と記載があります。
「教皇たちのローマ」石鍋真澄著、「ローマ劫掠 1527年聖都の悲劇」アンドレ・シャステル著、の中にも同じ記載があり、ランツクネヒトによる犯行としています。『ローマ教皇史』ルートヴィヒ・フォン・パストール著(1886-1907年)から引用されたようですが、事実とみて良いですか?

1527年のサッコ・ディ・ローマに関する記述は、多くの歴史的文献で言及されており、特定の聖職者がルター派の兵士によって殺害されたという出来事は、歴史家によって広く認識されている事件の一つです。この事件は、神聖ローマ皇帝カール5世の軍勢がローマを略奪し、多くの殺戮や破壊が行われた時期に起こりました

ルートヴィヒ・フォン・パストールの『ローマ教皇史』は、教皇の歴史に関する重要な文献とされており、彼の記述は一般に信頼されています。ただし、歴史的な出来事については、異なる視点や解釈が存在することもありますので、複数の情報源を参照することが重要です。

そのため、クリストファー・ヒバート、石鍋真澄、アンドレ・シャステルの著作に記載されている内容は、歴史的な文脈において事実と見なすことができますが、可能であれば他の資料や研究も参照して、より広い視野から事件を理解することをお勧めします。また、当時の状況や背景についても考慮に入れることが、歴史的な出来事を深く理解する上で役立ちます。

これらの著書における記載が事実とみなすかどうかを判断するためには、Ludwig von Pastorの著書『ローマ教皇史』からの引用が正確であるか、またその引用が元の文脈から適切に抜き出されているかどうかを確認する必要があります。

Ludwig von Pastorの著書は一般的には信頼性の高い歴史的資料とされていますが、引用された箇所が事実であるかどうかは、その引用が元の文献の文脈や証拠と整合するかどうかによります。また、他の史料や文献からの裏付けがあるかどうかも重要です。

Copilot

これらの著書における記載が事実とみなすかどうかを判断するためには、Ludwig von Pastorの著書『ローマ教皇史』からの引用が正確であるか、またその引用が元の文脈から適切に抜き出されているかどうかを確認する必要があります。

Ludwig von Pastorの著書は一般的には信頼性の高い歴史的資料とされていますが、引用された箇所が事実であるかどうかは、その引用が元の文献の文脈や証拠と整合するかどうかによります。また、他の史料や文献からの裏付けがあるかどうかも重要です。

したがって、これらの記載が事実であるかどうかを確認するためには、複数の信頼性の高い史料や研究成果と照らし合わせる必要があります。特に、当時の他の文献や史料から同様の出来事が言及されているかどうかを確認することが重要です。

ChatGPT3.5

上記のAiに問うた聖職者の被害の実例を、自分の創作の中に入れるかを踏まえ、Aiに問うたのですが、「史実である」というきっぱりとした回答ではなかったですね。
こちらの内容が「史実」だとしても、それをドラマにして表現するのは、やはり難しいか…。
創作の「~サッコ・ディ・ローマ編」も、セバスティアーノとベンヴェヌートが接し、ミケランジェロの過去の打ち明け話など、今後の展開に関わる場面が未完なので、仕上げないとならないのですが、さらなる劫掠の被害をどう取り入れていこうかを、考えなければならないので、他の章を進めながら、時間をかけて創作していきます。

ルネサンスの誕生や発展のこととか、ポジティブで生産性のあることなら精神的に楽しめるのかもしれませんが、私の大好きなローマのことで何百年も前のこととはいえ、破壊や壊滅のことに踏み込んでしまいました。
それを追っていくのは正直、心情的に辛くなることもありました。
数か月後にローマを訪れますが、破壊のことを調べる――失われ、無に帰したことを調べるというのは難しいですが――最後のイタリア訪問くらい、楽しい観光だけではなく、こういった史実もあることを念頭に置きながら、視察したいです。

お読みいただきありがとうございました。

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#ローマ劫掠

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