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#9 私が早実を辞めた理由 (上)

今回は私の高校時代、早稲田実業学校入学から辞めるまでのお話をします。

「なぜ早実に入学したのか」「なぜ早実を自主退学したのか」

自分のホンネを語りたいと思います。


なぜ早実を選んだのか

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「なぜ早実に進学したのか」はよく聞かれる質問の一つです。まず最初に言っておくと私は早稲田大学に入学したかったから早稲田実業学校を選んだ訳ではありません。(早稲田実業学校高等部:以下、早実と略します)まずこれがおかしな話なのです。早実は幼児舎、中学進学、高校進学(受験、スポーツ推薦)の入学者から構成されており、そのうちのほとんどが言わずもが早稲田大学を目標として入学してきます。現に私の高校時代の同期や友人も9割以上が早稲田大学に進学しています。しかし私は入学当初、全く興味がありませんでした。興味がないというより無知だったと言った方が正解かもしれません。今になって早稲田大学の偉大さを理解していますが、当時青森県から出てきたばかりの田舎の少年は「ホッケーが強い大学」としか思っていませんでした。

さて本題に戻りますが私が早実に入学を決めた理由は大きく二つあります。

・文武両道

・ジャイアントキリング精神

まず文武両道ですが幼少期から親の影響もあり「文武両道」の精神は徹底されてきたと思います。小学生、中学生時代は友達と遊びに行くことも少なくアイスホッケーか勉強かの生活でした。そのおかげで成績は常に優秀でしたし(後に挫折するので自画自賛させて下さい)、中学校では生徒会長も務めていました。母親が勉強熱心ということもありましたが、私の中には常に「アイスホッケーだけ極めても意味がない」という考えがありました。これはもし怪我をしたら将来を棒に振るという考えではなく、「学がある」人間にならなければいけないと思っていたからです。常に何かを学び続けることは生きていく上で人間の使命だと思います。学がある人間に近づく1番の方法が勉強なのです。もし自分が持っている何もかもを失っても、自分の頭の中にあるものは残り続けます。だからこそ早実に飛び込んでみようと決めました。

早実に決めたもう一つの理由がジャイアントキリングを起こしたいと思ったからです。ジャイアントキリングはスポーツにおいて明らかに格上の相手から(周囲の予想を覆して)勝利する、いわゆる大番狂わせを意味する表現です。中学卒業後、幸いな事に地元や北海道のアイスホッケー強豪校と呼ばれる高校からお声がけいただきましたが、強豪校に在学しながら勝利することは私にとって美しくありませんでした。ゴールキーパーというポディション上、明らかに格上の相手を完封して勝つことが当時の私にとっての美学でした。また格上の相手と試合をし、良い質のシュートを受けることが自分の成長につながると思っていました。


この二つの理由にハマったのが早実だったという訳です。入学理由にそれ以上も以下もありませんでした。しかし、私の高校生活は思っていたようには上手くいかなかったのです。



理想と現実

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(ここからは個人の意見です)


私は入学した途端、窮屈に感じました。

型にはめられている気がしたからです。


早実の教育方針は校是「去華就実」校訓の「三敬主義」の基、早稲田大学の中核を担う人材の育成を目指しています。早稲田大学の系属校である早実では伝統的な早稲田スピリット培われ、「早稲田らしさ」が求められます。古き良き伝統を受け継ぐのは素晴らしいことだと思いますが、私にはその「早稲田スピリット」は窮屈に感じました。私は決して早稲田の伝統を否定している訳ではありません。早稲田カラーの燕脂(エンジ)を身に纏って歌う紺碧の空は圧巻ですし、日本でトップクラスの伝統ある大学であることは間違いありません。ただ私の目指していることと合わなかっただけのことです。


学業において初めて挫折を味わったのも早実に入ってからでした。早実の学力レベルは非常に高く、関東の優秀な生徒が入学してきます。私の周りにいた高校受験組、東京で受験を勝ち抜いてきたの生徒とは今まで勉強してきた量が違い、正直歯が立たないといった感じでした。特に英語系は中学の時とは遥かにレベルが上でスタートから完全に出遅れました(後に海外留学を目指します)また早実では暗記系や小テストなどが多くエスカレーター式で、大学受験を目指す生徒は少ないのでモチベーションを維持するのは難しく、「早稲田大学に進学するための勉強」に焦点を当てているように思えました。大学進学を考えていなかった私は、「やらされている」とういう意識が大きく、何の為に勉強しているのか分かりませんでした。ゴールがない道のりは果てしなく遠く感じ、文武両道を目標に入って来たのに対し学業への意識は曖昧になっていたように思います。


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さて、間違いなく1番の挫折はアイスホッケーでした。まず驚いたのは早実アイスホッケー部の練習量です。当時、ホッケー部は月曜日と金曜日の朝六時から一時間、週二時間の氷上練習のみでした。小中と地元青森で週に十時間以上練習していた頃と比べると圧倒的に少なく感じました。また早実ではテスト期間二週間前からの部活動を全面禁止されています。「アイスホッケーをしたくても出来ない」都内でアイスホッケーをする難しさに戸惑い、自分がいかに恵まれた環境で育って来たかを実感しました。校内ではホッケー用具を用いての練習は禁止、陸上かウエイトトレーニングしか出来ない部活の毎日に不安や焦り、周りとの温度差も生まれ、何のためにここに来たのかわからなくなっていた時期もありました。環境のせいにしてはいけないのは分かっていましたがこればかりは自分がどうにか出来る問題ではありませんでした。地元の社会人チームやホッケータイムにも積極的に参加しましたが数にも限りがあり、防具を背負って電車を乗り継ぐのはかなり大変でしたし、日付を超えるのは当たり前の毎日でした。

競技自体も見事に上手くいきませんでした。強豪校に勝つために入学したのに上位チームとの対戦の殆どは大きく点差が離れた一方的な試合。平均被シュート数は1試合40本から60本のゲームが続き、自分のホッケー人生の中で間違いなく一番失点した事でしょう。かつての同期や代表でプレーしたチームメイトと離れていくスキルの差。当時はかなり葛藤していたと思います。

一年生全国選抜vs清水 2-3 負
二年生インターハイvs釧路江南 1-2 負
三年生全国選抜vs日光明峰 4-5 負

ことごとく全ての重要な局面は一点差で敗れ、結局一度も強豪校に勝つという私の夢は達成できませんでした。この負けた全て試合の一点差は「たかが一点」ではなく、この一点に圧倒的な差がありました。野村克也さんの言葉を借りるのであれば「負けに不思議の負けなし」という事です。この近いようで果てしなく遠い一点の重みは早実で学びました。

早実在学中は自分が描いた理想とはかけ離れていました。改めてアイスホッケーを不自由なく出来るのは恵まれていると実感しましたし、自分の実力を再確認できた時期でした。良くも悪くもこの時期は間違いなく「一番アイスホッケーから離れた時期」だったと思います。

私は早稲田実業学校が嫌いだから中退した訳でも、その選択を後悔している訳でもありません(ココ大事)。事実、早実では多くの事を学ぶ事ができました。(後編では早実で学んだ大切な事について書こうと思っています)


”私が目指していたものはそこにはなかった”

それだけの話です。


これは余談ですが、決して携帯持ち込み禁止、バイト禁止、正門でマフラーを取らなければいけない、などの細かすぎる校則は窮屈に感じた原因の一つではありません(ハンブンウソハンブンホント)。特に迷路のような東京の駅を携帯なしで乗り継ぐのは当時の田舎出身少年からしたら絶望でしたし、いつの時代やねんって感じでしたが文句ではありません(文句)。




感じた世界の壁

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私が海外挑戦を決断したきっかけの一つは高校三年生の春にスロベニアで行われたU18の世界大会でした。U16代表時代にロシア遠征を経験したことはありましたが、公式戦として日の丸を背負うのは初めてでどこまで自分が世界でどこまで通用するのかワクワクしていました。私たちは大会の二週間前にイタリアに入り合宿を行い、イタリアとのプレゲームを通し動きもかなり良く、かなり良いところまでいけるのじゃないか、そう思っていました。そして迎えた初戦、対スロベニア。

10-0

試合後のスコアボードに表示された数字は考えられないものでした。「歯が立たない」とはまさにこのことだと思いました。正直ここまで内容を覚えていないゲームはありません。それほど自分にとって屈辱的な経験でした。自分は世界で通用するかもしれないと淡い期待があったからこそ心をバッキリ折られたのです。勿論、10-0で負けるような試合はシステムどうこうでは埋めることができない圧倒的な実力差があり、どう足掻いても勝てないのでしょうがキーパーにとってこれほど屈辱的なことはないでしょう。現に相手のポイントゲッターはNHLのピッツバーグペンギンズにドラフトされており、彼を含めプロでプレイしている選手が3人もいました。スロベニアは現地開催だったので失点するたびにスロベニアの国歌を謳われ、アウェイの洗礼も受けました。


何が悪かったのか、これからどうすれば良いかも分からなくなるくらい圧倒的な差を見せつけられた私は、日本に帰っても一週間は抜け殻のようになっていたと思います。


正直、今まで(当時18歳)のアイスホッケー人生は自分の過去の栄光に頼ってホッケーをした部分がありました。県選抜や世代別の代表に選ばれた事で「自分は世界でも通用するのではないか」と。しかし現実はそう甘くないのです。

そこで決めたのです。今まで自分が積み上げてきた何もかもを捨て、全てを失う覚悟を持って、また一から新たなアイスホッケー人生を歩もうと。それが自分が好きなアイスホッケーに真摯に向き合える行動だと思ったからです。私は決して「自分は世界で通用するんだ」夢や希望を持った、みんなが描くようなカッコいい挑戦をした訳ではありません。


「もしダメだったら高校中退を後悔するかも」

「大学に進学してからでも良いのではないか」


周りからはそう言われることも少なくなかったです。

それでも私は何も成し遂げないまま終わるのは嫌でした。


これがとりあえず私が海外挑戦を決めた

きっかけ

というところでしょうか。


「決心のきっかけは理屈ではなくて、いつだってこの胸の衝動から始まる」


秋元康先生もそう言ってました。



最後まで読んでいただきありがとうございます。後日、後編をアップします。後編では「なぜ高校からの海外挑戦は遅いと言われるのか」そして「早実時代の詳しいお話」をするつもりです。後半をアップしていないのにいうのも変ですが、後半の方が面白いので是非読んでください。因みに後編の書き出しは

「18歳で海外に出るのは遅すぎる」

これが海外挑戦を決めて最初に言われた言葉でした。



に決めています。小説でも書くのでしょうか。
それでは雪と白とアーサーでお別れです。

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それでは! See you later!! #9





冨田開(とみたかい  1999年5月23日)は青森県三沢市に長男として生まれ、6歳の時に友達から誘われホッケーを始める。小学校三年生の時に試合前ゴールキーパーが不在だった際、ジャンケンに敗北した事をきっかけにゴールキーパーを始めさせられる。小学生は三沢ジュニアアイスホッケークラブ、中学生では三沢中学合同(三沢市立堀口中学校)でプレーする。U16日本代表に選出されロシア遠征に参加、青森県選抜チームに選出され全国大会3位、三沢中学合同チームでは全国4位となる。その後、東京都国分寺市の早稲田実業学校に進学。高校3年時にU18日本代表としてスロベニアの世界大会に参加。高校3年夏に早実を自主退学しカナダオンタリオ州にあるOntario Hockey Academy(オンタリオホッケーアカデミー)ホッケー学校に転学。卒業後は2年間アメリカのジュニアリーグ(20歳以下の育成リーグ)3部でプレーする。
2018-2019 North Iowa Bulls(NA3HL)- Wisconsin Whalers(NA3HL)2019-2020 Pittsburgh Vengeance(USPHL Premier)
今秋からNCAA Div3 New England College(ニューイングランドカレッジ、ニューハンプシャー州) 北米大学ホッケーリーグ2部に挑戦。





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