見出し画像

色々な生きかた

江戸時代の平均寿命は、44歳くらいだったそうです。
私がその時代に生きていたならば、人生を謳歌し、いつ死を迎えてもおかしくない時期と言えます。

歳を重ねるごとに、少しずつ自分が変わっていくのを感じます。
私という生き物の外見は、少しずつ年齢と共に老いていきますが、それ以上に内面の変化は凄まじいものがあります。

振り返ってみると、若い頃の私はもっとトゲトゲしていて、自己中心的でした。
思い出すと恥ずかしいほど、私は未熟でした。
そして、若い頃に漠然と描いていた未来の絵は、その通りにはなっていません。
私が欲しかったもの。
それは、自分の子供でした。

若い頃はどうしても叶えたい夢があり、働く事にも必死で、結婚を考える時間を持てなかったのです。
大好きな彼からプロポーズされて、あれほど嬉しかったのに、私は結局そのかたとは結婚しませんでした。

「結婚しないの?」と周りから聞かれても、私はまだまだ先の事だと、漠然と考えていたのでしょう。
しかし、歳を重ねるうちに次第に考えが変わり、温かい家庭を持ちたいと思うようになりました。
これも、内面の変化の一つでしょうか。

「結婚しないの?」という言葉には全く悪意を感じなかった私ですが、「子供はいつ頃を予定しているの?」という質問に、その後私は何度も傷付けられました。
言葉のナイフとは、私にとっては、まさにこれです。
私はあの頃きっと、ぎこちない笑顔を無理に浮かべていたでしょう。
そして、今まで自分が何気なく発していた言葉が、もしかしたら誰かを傷つけていたかもしれないと理解するようになりました。


ようやく今は、この質問を受ける歳ではなくなりましたが、長年の間この質問を受ける度に落ち込み、傷付きました。
声を出さないように、ひっそり泣く事を覚えたのも、この頃です。
大切な友人が子供に恵まれると、嬉しさと共に、憧れの気持ちが湧きます。
出産祝いを探してお店を見て回る度に、私達はいつ自分達の子供のために、ここに来られるのだろうかという考えが湧いてしまうのです。
私の手の中にある柔らかい産着や小さな靴下は、次第に私の視界の中で曇り始め、私は自分が泣いている事に気付き、慌てて商品を棚に戻し、トイレに駆け込みました。

そして、子育てが大変だという話を聞く度に、私もその大変さを味わってみたかったと、少しばかり卑屈になってしまう自分がいました。
それは決して自分には手の届かない、遠くにある幸せだったのです。

全く悪意のない友人とは違い、明らかに私を傷つけようとしたり、マウントを取ろうとする人にも大勢出会いました。
子供がいない私を半人前だと言い放ったり、女性は子供を育ててこそ本当の女性であると言う人もいました。
仕事なんか誰にでもできる、子育てに比べたら楽なものだと、高飛車に言い捨てる人もいました。
彼女たちの言う事は、本当なのかもしれません。
でも、私にはどうする事もできなかったのです。
妊娠中の苦しみも、出産の苦しみも、私には想像する事しかできません。
出産してからも、24時間365日、母親としての任務は決して途切れることはないのですから、私が想像する以上の責任を抱えているのだと思います。
何も言い返せない自分が悔しくて、私は女性としての役割を果たせない自分を酷く憎みました。
そして、生きている意味があるのかと、自分を恨み、自信を無くし、そして涙を流しました。

私は、今この歳になってようやく、色々な卑屈な思いや呪縛から解かれたような気がします。
夢や仕事に夢中だった時期も、独身時代も結婚生活も、パートナーも、子供に恵まれなかった私の人生も、これが私の人生なのだと受け入れられるのです。
誰のせいでもなく、これが私自身が選んだ人生なのだと。

自分の時間があっていいね、という言葉を、悪意の籠った言葉のように感じてしまっていた自分がいましたが、今になってようやく、その言葉を受け流す事ができるようになりました。
この考えは急に変わったわけではありませんが、この江戸時代の寿命を知った時、私はハッとしたのです。
もう充分生きたのだから、これからは生きているだけでありがたいのではないかと。
もちろん、今と江戸時代の栄養状態や環境は全く違いますし、安易に比較できる内容ではない事も分かっています。
しかし、今の年齢になり、納得できる人生の終着点に向けて、穏やかに生きていきたいと思うようになりました。

人には、色々な役割があります。
誰かの子供であること。
誰かの友人であること。
誰かの同僚であること。
誰かの部下であること。
誰かの上司であること。 
誰かのパートナーであること。
誰かの妻であること。
誰かの母であること。

でも、一番大切なのは、私が私の一番の理解者であるべきだという事でした。
誰かの母でない自分を、何か不足していると感じて生きてきましたが、私はその代わりにやりたい仕事を続けることができます。
仕事の遣り甲斐は、今の私に自信と活力を与えてくれています。
これは決して、子供がいないことへの代替物ではなく、自分の意思で続けている事なので、惨めに思う気持ちはありません。
そして、自由な時間を持つ事ができます。
自分の興味ある事に使える、贅沢な時間に恵まれています。
不足ばかりに目を向けてしまうのは、勿体ない事だと気付けました。

吾唯足知
龍安寺の蹲踞が、はっきりと私の脳裏に浮かびます。

人には、色々な生き方があっていいと思います。
自分の幸せは、自分で決める。
誰が決めるものでもなく、誰かと比較するべきものでもないと、ようやく理解しました。
私は今になってようやく、今までの事、そしてこれからの人生も、プラスに考えられるようになったのです。

最近は、過去を振り返る事が多くなりました。
今こうして、自分の状況を前向きに考えられることを、ありがたいと思います。
しかし、ここまで来るのは、決して簡単ではありませんでした。
何度も葛藤があり、自信を無くし、周りを羨み、長い月日を過ごしてしまいました。
歳を重ねるという事は、色々な生き方を知り、それを認め、静かに受け入れる事なのかもしれません。
自分自身も、そして周りにいる全ての人のこともです。
そして、同じ痛みを持つ人、様々な苦しみを持つ人と共感する事も、人生において大切な事だと学びました。
私には、得られないものがある代わりに、同じ痛みを持つ人の苦しみが理解できるからです。
そして、自分に与えられた自由な時間を、自分一人のためではなく、誰かのために使う事ができたら、それはとても幸せな事だと思うのです。

私は、歳を重ねても、まだ未熟者です。
それでも「人の痛みの分かる未熟者」になれた事は、私の一つの小さな成長かもしれません。
そして、こんな私を大切に思ってくれる人がいる事に対し、ただただ感謝しています。

できることなら、この穏やかな気持ちを、涙を流し続けた過去の自分に伝えてあげたいと、今はそう思うのです。

この記事が参加している募集

眠れない夜に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?