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語り継ぐための修学旅行

おいでませ。玻璃です。

6年生の春、待ちに待った修学旅行。
行き先は隣の県の広島。

さすがに40年以上前なので、コースなどはハッキリ覚えていない。

まず観光地として思い出すのは厳島神社。
その荘厳な雰囲気は小学生の私でも身が引き締まるような心持ちだった。
海の向こう側に見える鳥居の立ち姿は見たことのない美しさだった。

宮島の公園で鹿と戯れて、お土産には定番のもみじまんじゅうを買う。
土産物屋の前では、当時お笑いで流行したB&Bのネタ「もみじまんじゅう!!」を必ずやる。

そして、広島と言えば原爆についての平和学習。
友人の中には

「原爆の話は怖いから嫌やなぁ」

と、資料館に行くのが憂鬱で仕方ない様子の子が何人かいた。
でも、私は幼い頃から戦争にまつわる話を聞く機会が多かったので、怖いという感情はあまりない。

母のいとこが広島に住んでいた。
いとこのお姉さんは、とても綺麗な方だったという。
原爆病で美しい黒髪が全部抜け、身体中から出血し亡くなった。

そのお姉さんの弟さんは小学生の活発でお茶目な男の子。
いつものように学校に出かけて、作業をしていたところ原爆にあった。
そこは爆心地だったためにご両親が後に探してに行かれたようだが、作業していた生徒たちは跡形もなく、遺体は見つからなかったという。

こうして身近な方の被爆体験を聞く機会があったので、私は幼い頃から8月になるとNHKの戦争特集番組をよく観ていた。
そのためか、修学旅行の中で一番行きたかった場所は平和記念公園と原爆資料館だった。

平和記念公園に向かうバスの中、バスガイドさんが被爆した小学生の体験記や手紙などを朗読してくれた。
自分と同じ年頃の子がどんな思いで被曝したのだろうと思うと胸が張り裂けそうになる。

重い空気の中、平和記念公園に到着。
バスから降りて外の空気を吸った瞬間、重い空気から解放され、何人かの生徒は公園に向けて駆け出した。

「こら!走ったらダメ!!」

担任の西島先生が走る生徒に叫んだ。

「この辺りの地面にはね、たくさんの命が眠っとるんよ。そうやってバタバタと走ったらいけん。」

その後、私たちは静かに地面を踏みしめながら平和記念公園でみんなで折った千羽鶴と共に祈りを捧げ、原爆資料館へと進んだ。

現在の資料館は新しくなり、展示のコンセプトが変わったらしい。
でも、私たちが行った頃は、まだ生々しい展示が多かった。
被爆再現の蝋人形に、小学生の私たちはみな驚き恐怖を感じずにはいられなかった。
被爆者の方々から体験談を聞きながら資料を見る。
今でもその光景と感情は目と心に残っている。

この修学旅行以来、広島には行っていない。
何度ももう一度訪ねたいと思っているのに、なかなか機会がない。
大人になった今、新しい資料館に行ってみたいと思う。

ちなみに中学の修学旅行では長崎の原爆資料館にも行った。
子供の頃と思春期の頃に原爆について触れる機会をもらえて感謝している。

その経験から、私の子供たちにも小さい頃から原爆について話をしてきた。
月日が流れ、体験された方は亡くなっていかれても、私たちなりに語り継いでいかなければならないことだと思う。

ではまたお会いしましょう。


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