小さなおうち
おいでませ。玻璃です。
思い出溢れた大きな我が家から離れる事になった私たち家族は、バラバラで暮らす事になった。
祖母トメは息子、博正が市内で営む牛舎の離れに暮らすこととなった。
博正はトメが旅館を始める際に分けた土地で酪農業と牛乳加工業を継ぎ、市内の学校への牛乳も代替わりをして納品していた。
牛舎の離れは、こじんまりとした日本間二間の休憩室のようなところだった。
トメは、牛舎へ仕事に来る息子の博正と昼食を共にしていたようだ。
夕食は母が毎日届けていた。
この敷地内には、牛舎で働く夫婦が住む寮のような建物もあり、夜間でも無人になることはないので、トメも安心だ。
さゆり姉さんはいろいろと準備をしてタカシ兄さんと東京に出る事にした。
月子姉さんはタカシ兄さんに短大の学費を借り、そのまま東京の短大を続けた。
バイトに次ぐバイトで学費の返済をしたという。
高校生だった舞姉さんと小学3年生になったばかりの私は父と母と共に新しい借家へと移り住んだ。
走り回れば息が切れるほどの大きな我が家から移った先は、田んぼの側の平屋3DK。
そんなに古い住宅ではなかったが、とても狭く感じた。
三部屋のうち、ひとつは居間として使い、もうひとつは父母の寝室。
そして残るもうひとつの部屋は舞姉さんと私の部屋。
この頃、父は以前勤めていた鮮魚を運ぶ長距離トラックに乗っていた。
母は、兄の博正が経営する牛乳加工場で社員として働いていた。
父は時間が不規則だったが、母は朝早くに出勤して夕方に祖母のところに夕食を届けて帰ってくる。
旅館業の時は、家の中で母の姿を探すのが大変だった。
だが今は、
「お母さん。」
大きな声でなく、普通に呼びかけるだけで、
「はーい、玻璃ちゃんどうしたん?」
と返ってくる。
狭い居間だったが、父が非番の日などは家族4人で小さな食卓を囲んだ。
料理好きの母が作るお鍋や煮魚、煮物、揚げ物などをわいわいテレビを観ながら口いっぱいに頬張る。
そんな毎日を過ごしていると・・・。
私が毎朝使っていたイチゴ柄のガラスのティーカップに、お砂糖たっぷりの甘いミルクティーを注ぐように、私の心にも甘くて温かいミルクティーが注ぎ込まれていくようだった。
トメおばあちゃんの寂しさ、父母の屈辱感、姉たちの頑張り・・・。
確かに大人たちは、このとき辛抱の時でとても不安で大変な時だったのかもしれない。
ただ、小学3年生になった私にとっては、ずっと欲しかった甘い時間が手に入った。
そしてまた、ここから新しいエピソードが生まれる。
では、またお会いしましょう。
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