カイエ

いつか自分が生きていると実感出来たときには間違いなく死が訪れるであろうし、今日もバルビツール系の睡眠薬を3錠飲む、寝れない、圧倒的な不眠或いは過眠、長い夜、苦し紛れにあなたが死んでしまったことを思い出す。微睡の中にいる幼子のような、この紛いものの世界に対する復讐心、神、後世、正義、自我、宇宙がその前に座っているが、何も存在していない、犠牲は下ごころの極限である。立証し得る言葉や観念、非真実なもの、意想外、そして虚偽、率直さは、それなくしては生きられぬものを殺す。不如意、不快、息詰まる不安、反射的でない行動、闘争、死の苦悩、だが、苦痛はいかなる意味ももたない。死んでしまえ、お前なんか死んでしまえ、ヴェール、戒律の小さな一覧表、状況への非常に速い感受性、何もかもが見える、この先の運命も恐らく不幸に間違いないと自分では分かりきっている、避けようもない、ローマ化した、コロッサス、洗礼を受けた、あるいはユダヤ化した、ギリシャ化した、ローマ、ロゴス、ギリシャ、ウェルギリウス、エウクリデース、ガイウス、アリストテレス、アクィナス、キリストのあるところ随所に、カトリック的性質、十字軍、インド或いは不純、混乱、イスラム、モーゼ、聖パウロ、形式尊重、エジプト的、機械信仰の宿命、サイクル的過程、完全な歴史、観察の保存、記録、詩句、略称、感動の保存、詩歌、そのものが「かれ」になり、そのものが「われ」になる


、無際限の仮設、「神たるものがいるとするならば、キリストでは断じてなく、外部にいる、よって神の証明は不可能であるし、この世界は地上でも地獄でも天空でもない、ただ眼前に存在しているだけ。」「あなただってこの血から生まれたのよ。あなた自身の血より綺麗なくらい。」私は怖かった、名前も知らないのっぺらぼうの群衆に囲まれて、私はただ黙っていた。夜の廊下で、虫の音色と足音だけが鳴り響く、点滴につながれ、ベッドに縛りつけられて、この残酷な夜はいつまで続くのだろうと胸が痛んだ。呼吸をおさえ、こもった叫び声をもらして、ああ、血で濡れている、表情のない医者が今日もまたやってくる、口を枕に押しつけて小さな叫びをもらす。一回だけ。長い叫び、この世界は私を救ってはくれない、それはどうやら確かなようだ、心を引き裂くような、そして動かずにいる、長い間、不安に、途轍もない恐怖に身震いする、誰か助けてくれと言おうものならたちまち私は殺される、突如、目が潰れるような閃光、爆発、轟音、心音、足音が地下に消える、もうこれ以上の苦しみはないと断言して頂けないでしょうか、何ももう感じない、ゆっくりと息をする、もうすぐ夜明けがくる、カーテンを半分開け、呻く、何にも反応しない、沈黙と無気力の中にすべてが沈みこむ、いつまでも続く地獄のような日々、もう何も、もう何もない、「一体何を言っているの?気でもおかしくなったの?どうしてそんなこと言うの?私はもう自分を抑えられないんです。めちゃくちゃなことを声に出しているんです。」定まらない目つきで、自分に何が起こっているのか分からないの、日に日に弱って力が抜けていく。信仰心と同じようなものだ。分かるでしょう?日が落ちる。この夜もまた、人を破壊し続ける。この夜もまた、人は殺しあう。雨が降っている。街と廃墟を包み込むように降る、雨は人の身体と傷の上に降る。「神は私をどうしたいの?」「どうして神はお寄越しになって、何もかも、すべて呑み込んで、私もあなたも一緒におしまいにしないのだろう」「神は私をどうしたい?」「神はおまえを罰そうとしているのだ、と私は感じるでしょうね。」誰も最期がどうなるかは知らない。最後が分かったものはあらゆる不幸を背負うかもしくは一生逃れられるのかもしれない。何百万という巡礼者が石の廻りを旋回する、唇は悲しみのせいで灰色が買った」色になる、何世紀も前から巡礼者たちはメッカに行って、その石の回りを回っているのに、どうしてその石は砕けないのだろう、意志の交換、共有、認められた原則、常識、現実、あらゆる外的状況が襲いかかってくる、唯一の発展、唯一の理論、墓場の向こうから聞こえてくるような歌声で、あなたはその永遠性を通して存在したし、存在するし、かつても今も存在した、最初の人間において罪を犯した後、私の怠惰、この言葉の裏に隠したのは、嫌悪、軽蔑、侮辱、不信、恐怖、憎しみ、天地創造、善悪の別、贖罪、文学は現実になりうるし、現実以上に現実的になれる。すべてが幻のように去った後で、お前は私を呼んだ、どれほど前か云っておくれ、お前は眼が覚めていたのか、色を失った唇をひっこめる、「霊光」の動きは経巡るために、その総体に出くわさない「アゾト」の、すなわち磁気の放射は、すべてその出発点へと強い勢いで引き返す。これこそ「聖書」の中の最も奇妙な物語の一つ、修道士イラリオン・ティッソはなるほど、長い経験とキリスト教美徳の絶えざる実践を通じて、大勢の病人を癒すことに成功したようではあるが、彼はパラケルススの催眠術を実践していたわけだ。ほとんどの病、意志の混乱、外部意志の悪い影響に帰結する、キチガイ病院に送りこむのが正しい医者であると見做されると?聖ミカエルの稲妻も燃えたたせば、また同様に地獄の火炎も燃え立たせる。理知の光の実践、普遍的磁気の奔流、啓示者と呼ばれるものどもを復活させることは可能か?エゼキエルの預言、かつて訳されたことのないエノクの書、アレクサンドリア学派、ヘルメスの教義、オルフェウスのそれほど響きよく思えなかったグノーシス派の人間、三位一体の普遍的教義、
われあり、故に存在が存在す、存在する私が存在する、ピタゴラス派の無言の行とさまざまな禁制、現実と現実以外のものとの不一致。

良いでしょう。遠慮なくお話しましょう。君らの愚鈍は神がかっている、地理も歴史も経済も戦略、法の精神、社会契約、宗教、哲学、自然、何もご存じない。今よりはましな災難を想定して鎮痛剤のつもりだった本がまるで読めない、あまりに現実と乖離しすぎているから、絶望的に真似てついにすべてに降参する。これからこの先いかなる未来を想定しようとも繰り広げられる光景は鬱陶しい見世物にすぎないだろう。私は生まれ変わったのか?この悲劇、情熱、前代未聞に繰り広げられ、わたしは自尊心に負け、妬み、嫉妬、憎しみ、恐怖、暴挙に身を委ねた、何と愚かな、あれほどまでに根底からこの不条理な世界を変えたかった私はもうどこにもいない、私は消えた、そして惨めにもこの世界に負け、牙をぬかれ、屈辱的なまでに敗北し、何も感じないし、何も見ようともしなくなった、火花を散らし、否定され、殺され、恐れられ、評価されたことはない。私がしようとしていたことは誰にも理解されることはなかった。私は自分自身の薄汚れた様に呆れ果てている。おそらく、もう限界だろう。辛うじて僅かながらの純潔さが残されているというならば、作品を書くことだが、それすらもう機能していない。アングロサクソンが牛耳る浜辺で、孤立して、精彩さを失う思想を、高尚な仕事などもう出来やしない、私はもう疲れ果てた、なんと無様な有様であろうか、私は私自身を破滅させたがっているのではないかと日増しに確信している。私は究極的に何を目指すべきなのか?それさえもあやふやなままで、よく死に近づくため、彼方への覚悟を固めたところだ。あっけらかんと思考するのはもう無理だ、何も楽観的なことなどない、自分の立場は分かっている、ごまかされまいとし、納得づくで自分自身の精神の純潔さを屈服させた。文学の無力はもはや歴然としている。他にもっとすべきことはないのか。あまりにも惨めで無力な自分に苛立ち、何かしらの使命感を欲したがる自分がいる、だがそれはまやかしにすぎない、異才などどこにもいない、同じような文章を書く、同じような顔の人間がうろついているだけだ、だが詩には見るべきものがある、ランボーやロートレアモンの可能性を私は捨てきれない、すべての感覚の乱調によって未知なるものに到達すること、その魂が鳴りやまない、死期を睨んだ、楽しげとはもうお世辞にも言えない、私は自分を見つめている、同じことを性懲りもなく繰り返し、何者かに永遠の祈りを捧げ、だが何に向かって歩むべきなのだろうか、例えば真理というものが仮に存在すると仮定するならば、すべてこの現実は無意味なものとなる、もう今更脱出しても手遅れだろう、私はあまりにも多くのことを知りすぎたし、あまりにも多くのことを知らなすぎた、私の理想と現実はあまりにも遠い、あまりにもこの現実は息苦しい、寒くもなく暑くもなく、凍えてはいるけれど、誰もそれには気づかない。さして気にもとめない姿で悪魔どもは表出し、我先へと地獄へ誘い、永劫の苦しみは、私自身の苦しみと同化して、肉片はバラバラになり、器官はどこにも見当たらない。一体何が人体を構成するものであるのか?つまり、この肉体はひとつのアウラによって、包み込まれ、そのアウラは全身を覆い包んでおり、精神性と共に同列に連なっている、アウラを犯すこと、西洋医学では当然解明出来ないことが、このアウラには秘められている、私は何も言わないし、何も言いたくなかったし、常に恐れつつも、ひれ伏し、すべての外部の世界から構成されるこの肉体は常に別のものとしてここにある、7人の子供が、和泉の中で遊び、溺れ苦しむ有様は、なるほど、ある隠された聖書に出てくるような話でもあるが、その子供の中の一人はアウラの存在に気づいたために、泉の中から出てくることもなかった、潜ったままで俗世間と乖離した場所に存在し、その子供はその子供のままでいられた、いかなるものであっても接触を認めないからである、すなわちその子供のもつ意識は極めて研ぎ澄まされた精神であると言うことも出来るし、僅かな光を導き出すための訓示ともなり得る、ああ、そうか、「私」は「私」を忘れていたんだと覚醒し、本来の自分に気づく、その純粋性を保ったまま、接触を拒み、その子供は煩わしいものすべてを排他した特異な例である、何たる懐かしさ!何たる輝き!このまなこは宙を舞い、誰だか分からぬ視点で、気づくこと、恐れること、感情のままに身を任せること、つまり本来の意味で生きることを熟知している賢者となり得る、愚かにも火を盗んだものがすべての罪を背負うことになり、そこから今の人間は歩行することを覚え悪魔たちによる社会が構成された、この元凶をまずは破壊すべきである、早く、早く、急がなければ、早く照明しなければ、光差す夕闇、新しい人類の歩行、時が止まってしまうような口づけ、永遠のじくじたる想い、儚き黄昏の臓器、何も知らないから思い込む自分が優秀であるに違いないと実にこの人間はあまりにも無力で浅はかだ可能性を狭めた肉片が時に閃きのように空中に放たれるがそれを掴むものは殆どいない稀に奇蹟的にその存在に気づくがその存在と接触してはならないそれは悲しみでもあり空虚でもあり夢幻でもありすべての存在へと繋がれるその子供を決して犯すべからず自らの信念や聖域を守ることこれは非常に厄介であらゆる悪魔どもの勧誘があるがすべて無視をきめこまねばならないあらゆるもののすべての愛おしき仕草私は言ったそして放たれたそして世界を嫌悪する。何もかも新鮮だったと思えるような時期があったように思う。その新鮮さも、情熱も、誠実さも今はどこにもない。自分という人間はもはや消え失せた。「書かれたものはすべて豚のように不潔だ。」(アルトー)自分自身の肉体を通した言葉が、私自身の磁場が、エクリチュールの重力を、言葉の本来的な意味も無意味も兼ねた両義性を生みだし、そこに見えない文字がある、そして、想像上の錯乱をもって血をもって洗礼を受ける。


美しい眼差し、直線ではっきりと見えるような、何もかもを今は拒んでいるように思う、視界の切れかかった境目に、肩幅だけが広い後ろ姿だけをもった忌まわしい何かがいる、何かの痕跡がある、それは或いは自分自身の姿なのかもしれないと思う刹那、宗教画と俺の忌まわしい夢の後味として残ったのだった、ところで、さて、もういいかな、確かに見知っている死者たちの顔のほかに、どう見ても知らない顔もいる、全くもって無表情な顔だ、お前を激しく弾劾したあの書物をもしかして読んだのかね?革命の歴史に現れる革命家のすべては革命への自らの利用者にすぎぬと、どこへ?向こうへ?さあ、もう確かめようじゃないか、お前自身が実に下らない人間で、浅はかで、もう何も生きる手段もないと認めようじゃないか、この俺が覗きにきたもの、見知らぬ死者たちとは全く異なった種類の何らかの誰か、光と陰の境の向こう、よるすべもない、吐きそうだ、否応なくすべて掴んでしまう自分自身の感覚を呪いたい、これは到底人としてやっていく資格を得ない、恐らく普通は遮断しているものを何らかの知覚が触発されて、たとえば体温が43度のまま、白昼夢と現実の見境がつかず、朧気に、気儘に、何かに情熱を捧げ、それは何であったのか、私は確かにこの先もこんな世界が続いていくだろうとは思わなかったし、それを認めたくはなかったのだが、どうやらその思惑はそろそろ途切れてしまうようだ。社会革命なるものが無論血の通った人間の間で浸透するとは私も思っては当然いなかったが、本質的に人間を変えると決断したとき、何やらそんなことが出来そうな気がしなくもないと愚かにも思っていたのは事実だ、一人一人を下らない銭勘定や家族、病気、社会生活あらゆるつまらない事柄から脱出しようと試みれば、普通に、当然に、あらゆるこういった呪いから解き放たれれば、人はどうやら「健全に」生きるはずだと思ったのはあまりに浅はかだったか純粋だったと言えるのか、さあ、分からない、真っ逆さまに降りてきて、啓蒙する何かが、存在への従属の完璧なる転覆、実に見事だ、不可能で最初で最も恐ろしいこの課題を自分でも恐ろしくなるほどのめり込んだときに、不意にいきなり遠くから呼び出されて、他ならぬこの私自身が夢想の状態にいたということはあっさりと認めようじゃないか、この時に恐らくこの駄文は遺書となる、その敗北をはっきりと認めてしまえば、楽にはなれるだろうか、生と存在の革命が、人間そのものの革命が、情熱的に私はその目的にすべてを注いだときに、いったい何が変わると思う?あまりにも惨めな結果が見えてくるとはいえようが、実は何も諦めていないし、諦めたくはない、発端と終末の中間あたりに冷静な観察力だとぶら下がっているとは言えそうだ、驚くべきことに休息はない、また耳鳴りがする、厄介な夜だ、存在と非在の麗しめ、過言、脆くも崩れ去るような言葉と終焉とその間へと継承される、あの真っ白な顔たち、すべてが完全に窶れきっていて、身動きもしない、低く低く唱え続ける言葉、呪詛、思想にお前が耐えられるかな、この不可解で奇妙な現実にお前が耐えられるか、隙間をもった空間すべてが襲いかかってきて、一種恐ろしいほどの透明な秘密だ、考えてもみろよ、血の通った人間がいるかよ、事物生成の歴史の圧縮、発端から究極までに及ぶ、お前が夢想し続けた革命はこの俺のところでしか成し遂げられなかった、どいつもこいつも薄汚れている、さあ、お前さえ、時間が幸せな瞬間で止まるように祈ろうとも、地べたで這いつくばるウジ虫は耳の穴から出てくるって有様、意識がただ無意識だけに支えられて、崇高性のまぎれもない証明(照明)者はいずこへと、自足する淡い光の透明さへ、お前自身がお前を照らす光へと、そう信じても俺は確かに不服だぜ、自在の世界とまったく似てしまってはないかい?やたらめったら詩的な言葉遣いをするのはどうなんだい?お前の悪い癖だとは言えないか?何かを言いくるめようとするならば、不在を不在のまま置いたらそれでいいわけだからな、存在の苦悩だとか苦痛だとか夜に怯え夜に愉悦し朝はお前が目覚めぬまま何もせず空虚な日々をやり過ごすために薬をつかいお前がよしとするものをすべてお前が受け入れるとは限らないだろうぜ、それが本当にお前のやりたかったことなのか?12、まだ夢をみる、俺は夢をみるんだ、こんなにも苦しい処刑をお前自身が叱責するときに何か煌めくようなものがあるとするならば、お前のやっていることもまるで無駄ではないようだが、よく憶えておくといいだろうよ、お前の理想が理想でなくなったときに華やかに散れ、お前自身の狂気と正気はさして違いがない。自分を屈服させること恐ろしいまでに、空は鮮やかでペンキで塗りたくったような鮮血が、ここにあなたはもういない、愛の深い心の一片ではなく、無自覚に劣らず、またこの長きにわたる耐えがたい拷問は一体誰に向けられているのか。

狂人の言葉を発したまえ。すべて見えるわたし記憶違いのわたし何かに向けられてそう脆くも崩れ去った生霊のように暗い小道を徘徊しすべてが終わって日の中に沈んでいてくれさえしてくれればいいと思ったのでしょうとにかくこの世界は私にはあまりにも厳しすぎる二つの証明、文字通りこの世界から飛び出して外部へと到達すること生命を通じた有機体とアメーバ、バロック建築、苦しい、このような感情は別にめずらしいことでもない、人間存在、種の永遠?そんなものあるか、例えばアリストテレスの場合だったら人間を自由に選びうる生活とは、自分は創り出した諸関係と生活の必要にまったく関係なく自由に選びえる生活のことであったが、生命を維持すること、強制される奴隷の労働、運動と自由、活力とその生活様式、ああうんざりだ、とにかくとにかくもっと像を広げるんだ美しいものへと接近し、ギリシア人のポリスの生活が観点になると?あるいは、ストア派、カタリ派、いくつもの流儀、アイスキュロス、ソポクロス、エウリピデス、つまり空間を創り出し、自らの身をそこに埋もれること、そこはきっと世界の外部だ、超越論的思考によって、さまざまないろ、かたちが彩り、踊り狂い、ヒエラルキーもカーストも肥溜めの中へと、ああ、美しきゾフィー・ショルよ、ドイツ赤軍、バーダーマインホフ、何か、何か、何か、根幹に触れるもの、気を触れさすもの、askholia momo
Vita active bios 昔から言われている、それだったら私が私の足を引っ張り地獄へと導いてあげましょう、ヒジャーブから虚ろなまなこ、くっきりとした、古代的真理であろうと、キリスト的真理だろうと、イデアだろうと、実はそんなものはない、大洪水が始まりすべて洗い流したあとで、キリスト前、キリスト後との丁度中間地点の存在するが見えない場所へと辿り着く、不易の永遠の最中、斜視のまま泳ぐ、或いは精神自体になりすまして、死せざる死の術を心得て、ひっそりと静まりかえった気配を漂わせ、今日も眠ろうという野心、すべてちりじりに、虚空へ飛び立っていく見えぬ風、どういう壊れ方をしているのか、違う壊れ方をしているのか、分からない。それから、不安、いっときの平穏さえもない。何の脈絡もなく、前にも増して狂奔し、誰も何も、いかなるものでさえも遮ることもなく、何の意味もない思念と強迫観念が散り散りになりながら襲ってくる。無音。

あまりにも状態が酷い。医学、病理上の、水星軌道上の、心底憎むあれらの詩においての、便宜的、不可思議に、通信柱、衛星、不可侵、

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