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Happy Women's Map 熊本県上益城郡益城町 廃娼・禁酒運動の草分け 矢嶋 楫子 女史 / Mother of Women's Suffrage Movement, Ms. Kajiko Yajima

-四賢婦人記念館 / Shiken Fujin Memoria Museum

「自分の心の舵をしっかり保っていこう!」
"Steer your heart!"

矢嶋 楫子 女史
Ms. Kajiko Yajima
1833 - 1925 
熊本県上益城郡益城町 生誕
Born in Masuki-cho, Kamimasuki-gun, Kumamoto-ken

矢嶋楫子女史は廃娼運動・禁酒運動の草分けです。米国宣教師マリア・ツルー女史とともに新栄女学校・桜井女学校・女子学院の運営に従事。日本キリスト教婦人矯風会を組織。公娼制を讃美する政府のもとで「一夫一婦制」「男子の姦通罪」「海外醜業婦(からゆきさん)の取締・防止」「国会女子傍聴席」の国会誓願、女性のシェルター創設、からゆきさんの現地調査、婦人の職業斡旋など、日米の女性の架け橋として婦人福祉ならびに女性の地位向上に奔走しました。
Ms. Yajima Kaiko was a pioneer in prostitution and alcohol repeal movement. She worked alongside American missionary Miss Maria True in the operation of Shin'ei Girls' School, Sakurai Girls' School, and Women's College. She organized the Japan Christian Women's Organizationn. Under the government's praise of the licensed prostitution system, she pledged to the Diet for "Monogamy," "Criminalization of Adultery by Men," "Prevention and Regulation of Overseas prostitution", and "Women's Auditorium in Diet". She also founded shelters for Women, conducted on-site investigations with "Karayuki-san", and Job support for conscripted husbands' wives, among other efforts in women's welfare, serving as a bridge between women in Japan and the United States.

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「仏頂面の渋柿」
 
近海にイギリス船があらわれはじめ、連年続く凶作で百姓一揆が頻発する中で、総庄屋と代官を兼ねた地方役人である父・矢嶋忠左衛門直明と、惣庄屋の娘である母・鶴子の間に、5人続く姉の後に、男いばりとはばのきかない女の熊本に勝子は生まれます。1週間過ぎても名前も授けられない「余り者」とされ、早くから負けじ魂と根性を身に付け、いつもむっつりとしながらも、みんなが嫌がる種痘の実験台に進み出たり、姉妹と競って綿をつむぎ機を織り、手習い稽古に励みます。3つ上の姉・つせ子は、兄が師事する横井小楠の後妻として結婚させられるも、封建制度の強い熊本にあって身分は妾、女中あがりの別の妾と同居を強いられます。6つ上の姉・久子は、男児を産めない理由で離縁話が上がる中大きなお腹を抱えたまま実家に戻され、男児が生まれると復縁され婚家に凱旋します。ショックを受ける勝子に母は「しょうがなか。女じゃもん」。やがて、勝子も横井小楠の弟子で妻に先立たれて3人の子供を抱える武士・林七郎と結婚させられます。すぐに2人の子供をもうけると、酒を飲むと白刃を抜いて暴れ狂う夫から度々実家に逃げ帰りながらも、子どもの養育に家事労働に忙しくします。やがて心労でボロボロになった勝子は離婚を決意。髪をバッサリ切って離縁状代わりに差し出します。周囲の冷たい批判を受けつつ妹たちの間を転々とすると、まもなく東京で新政府の官吏となっていた兄・直方の看病のために子供達を置いて上京。旅中に大きな船も小さな楫で動く様子を見て、「自分も今後この楫を以って我が生活の羅針としよう」という決意のもと、「勝子」から「楫子」へ改名。40歳の再出発を決意します。

「我弱ければ」
 楫子は、兄の看病と放漫財政を正すかたわら、築地にある小学校教員伝道所に通い、兄の家に出入りする書生たちに地誌・数学を学びます。髪も伸び揃ったころ、芝の桜川小学校(現・港区立御成門小学校)に教員として採用されます。そんな中、ところが、楫子は妻子持ちの書生・鈴木要介と愛に落ちて子供を身ごもります。きょうだいは堕胎を迫り、書生は妾の戸籍登録を迫りますが、楫子はひそかに女児を出産、女児に妙子(後の湯浅清子の母)と名付けて練馬の農家に預け独り教師生活に戻ります。「女は何て弱いのだろう」。まもなく楫子は米国宣教師で炎の教育者・マリア・ツルーに見込まれ、築地居留地にある新栄女学校の校長に就任。楫子は校長室におさまると、煙草盆に火を入れ真鍮の長キセルで煙草を吸い始め、他の宣教師から非難されるのを取り合わずにボヤ騒ぎを起こします。それでも自分の全幅の信頼を寄せ聖書の組を預けるツルー婦人に、楫子はすっかり感化され正式に洗礼を受けクリスチャンとなり、孤児として妙子を連れてきて自分の養女とします。同じころ、夫と北海道へ伝道に向かう桜井チカと知り合い、ツルー婦人とともに麹町の桜井女学校の経営を引き継ぎます。校舎を新築、幼稚園を拡張、新潟県・栃木県に分校を開校、日本初の看護婦養成所を設立。両校を合併して女子学院として発足させます。院長に就任した楫子は、「あなた方は聖書を持っています。自分で自分で治めなさい。」外国教師と英語と西洋の学問・生活様式の中にあって、禅僧・高津柏樹を国語・漢文の教師として迎えたり、皇后誕生日を地久節の祝日とします。

「天国は日本からでも、アメリカからでも、距離は同じでしょう」
 51歳の楫子は、「万国の婦人よ協力せよ」とスローガンを掲げる万国婦人矯風会本部から日本に派遣された英国人レビット夫人の演説を聞いて感動します。「女性を解放する戦いはまず男性を酒毒から解放することから始めねばならない」。楫子は翌日にレビット夫人と懇談、婦人矯風会日本支部の設立を決意します。潮田千勢子・佐々木豊寿・浅井杵子・本田貞子・蛯名みや子・湯浅初子はじめ新進女性50名を集めると会長に就任すると、売春・飲酒・喫煙の廃止を掲げて東京キリスト教婦人矯風会を組織。公娼制讃美論者の伊藤博文総理大臣のもと海外に売り飛ばされる女性が急増する中(明治年間だけで数十万人、東南アジア・欧米・ロシア・インド・オーストラリア・アフリカに及ぶ)、楫子は国会開設と共に「女子傍聴席の設置」「一夫一婦制の確立」「海外醜業婦(からゆきさん)の取締・防止」「男子の姦通罪」を国会に誓願。林歌子をウラジオストック・ハルビン・プサンに、市川静淵を天草・島原に派遣して現地調査を行い、大久保に「慈愛館」を設立して廃業娼婦はじめ女性のシェルターとします。大阪の北新地が火事で全焼すると焼失遊郭の復活阻止運動を展開するも敗北。「敗北の原因は我々に婦人参政権がないからです!」足尾銅山のに救護班を送って惨状を世に訴えたり、日清・日露戦争下で夫を徴兵された妻を教育し職業を斡旋したりしながら、北海道から九州ならびに大連・旅順・奉天・京城・仁川・平壌など次々と矯風会支部を設立。楫子90歳のときに日本婦人平和協会(現在の婦人国際平和自由連盟日本支部)理事長の井上秀女史とともにワシントン軍縮会議に出席、ハーディング大統領と面会します。平和を祈る日本のキリスト女性信者1万人が署名した嘆願書を手渡し、翌年、アメリカ女性宣教団体「戦争の原因究明と解決策創出のための全国委員会NCCCW」から日米相互理解について一致して努力することを誓う電報を日本女性代表として受け取ります。「婦人参政権獲得期成同盟」の設立に歓喜して会員となった翌年に93歳で逝去。「老いたる馬は厩に伏していても志は千里の外に在る」

-日本キリスト教婦人矯風会 KYOHUKAI
-四賢婦人記念館 Shiken Fujin Memoria Museum
-アメリカ大使館 U.S. Embasssy Japan
-婦人国際平和自由連盟(WILPF) Women's  International League for Peace and Freedom JAPAN Section

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