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令和サラリーマンのリスクゲーム

あらすじ

八菱銀行の法人リテール・リスク統括部の黒川(女主人公)は、支店長と副支店長の不倫について、調査をすることになった。その支店では、かつて恋心を抱いていた部下:七瀬が働いていた。束の間の再会を喜んだ直後に、支店長らしき男性が首を吊っている姿が発見される。七瀬に協力してもらいながら調査を進めるが、彼からの誘惑や、趣味であるポルノ小説を書き進めていくうちに、調査は泥沼にはまっていき……。令和の時代についていけないサラリーマン女性の葛藤を描く、お仕事要素が強めのミステリー小説。

本文

 デスクに一枚の写真がある。ラブホテルから出てきた、八菱銀行目黒支店の支店長と副支店長らしい。二人の左手の薬指が、お互い不倫関係にあることを物語っている。どちらの顔も穏やかで、愛し合っていることは明らかだ。
 実に羨ましかった。私は一緒にホテルに行く彼氏がいない。三十年生きてきて、今までできたこともない。「彼氏ができた時のために、良さそうなラブホを見繕っておこう」と思い、過去に配属された名古屋や大阪で、感じのいいホテルを見つけてはいた。しかし、ホテル探しに夢中になるあまり、相手探しを怠っていた。いつだってそうだ。どこかでチューニングを怠り、不協和音が響き続ける人生を送ることになる。パパ活女子たちが一晩で何人ものオヤジに精子を履き出させている一方で、一度も生殖行為をしていない人間もいる。生物的に、私の方が弱者だ。もう死んだ方がいいのかもしれない。

「黒川調査役、いつまでその写真を眺めているつもりなん?」

 思考の海に溺れそうになると、隣に座る青木次長が助けてくれた。私は慌てて「黒川調査役」という、いかにも真面目そうな銀行員の顔を作った。傷つけやすいくせに、誰に助けを求める方法を知らない「黒川 礼子」の顔が残らないようにしながら。
 人は見た目が九割だ。牧師や司祭がコンビニで万引きを疑われることがないように、黒いパンツスーツに白いシャツ、黒色の女性が金を横領する役になることは少ない。

「すみません。彼らの不倫について、調査をするんですね?」

 私は写真を指さして言った。次長はうなずいたが、視線はどちらかというと私の顔よりも、私の指に向けられていた。ネイルのされていない、無骨な指だ。見る価値があると思えない。それは次長がきっと人の顔を見るよりも、床を眺めている方が好きな、引っ込み思案な幼少期を過ごしていた名残だろう。
 銀行員は、明るく見せておいて実は内気な人間が多い。商社やマスコミに行く根っからのパリピにも、ひとつの学問を突き詰める研究者やメーカー社員にもなれなかった、はみだし者たち。

「我らが八菱銀行では、店内恋愛および部内恋愛は禁止です。銀行に起きた不祥事は、私たち法人・リテール・リスク統括部が調査をするってわけですね」
「せやな。目黒支店の取引先第一課の課長に連絡してある。今から調査に行って欲しいんや」

 青木次長は痩せ型で、背が高い。ふちの細いメガネの奥では、長い切れ目が光る。繊細な顔立ちだが、肌はハリを失っていた。髪には何本か白髪が混じり、のびかけている。趣味は休日出勤である次長には、髪を切りに行く時間がないのだろう。入行年次から逆算して、年は四十歳か、院卒なら四十二歳か。一体、どんなセックスをするのだろう。
 またしても思考がそれそうになったので、次長から視線を逸らし、フロアにかけてある時計を眺めた。十三時。丸の内本部まで戻ってくるには、中途半端な時間に思えた。

「NR(ノーリターン・直行直帰の意)で良いですか?」
「ええよ」

 次長はメガネ拭きで、メガネを拭きながら答えた。必ず十三時になると、次長はメガネを拭く。それが時計のようなものだ。アスペルガー症候群なので、同じ習慣を決して崩さない。どうやら朝も昼も、同じものを食べているようだ。心の中で配偶者に合掌しながら、私はデスクに置かれたファイルを手渡した。

「持ち出し管理簿には『写真』を書いておきましたから」

 次長は無言で頷いた。ファイルをそのままにして、真剣な顔つきでパソコンを見つめている。その瞳は優しく、少しばかり悲しげだった。私は部屋を後にした。

「あ」

 廊下を出てエレベーターホールに着いた瞬間、あることに気がついた。印刷した写真は何枚か連なっていて、私はそれをハサミで切っていた。そしてスーツのポケットには、ハサミが入ったままだった。銀行では情報の持ち出しは、厳重に管理される。写真についての持ち出し管理簿は記載したが、ハサミについては記載していなかった。

「ま、いいか。ハサミくらい。帰る時にいくつあるかなんて、数えていないよね」

 妹の勤務する自動車会社じゃあるまいし、と呟いて、そのままエレベーターに乗り込んだ。うっかりポケットに手を入れて、切ってしまわないように気をつけなくてはならない。私は昔から器用な性格ではない。もし落とし穴を調査する仕事をしていたら、自分がいずれ穴に落ちるであろうことは、薄々感づいていた。

 目黒支店に入ると、背後から声をかけられた。日に焼けた健康的な肌と、赤みを帯びた茶髪の、端正な顔立ちの青年だった。七瀬だ。

「黒川さん、お久しぶりです。あ、今は黒川調整役に出世されたんでしたね」

 彼は外訪カバンを手に持っている。外回りから帰ってきたのだろう。彼と遭遇するなら、もっと洒落た服装しておけばよかったな。私の格好は、色を知らない世界で育った葬儀屋のようだ。

「今はどの部署にいるんでしたっけ?」
「法人リテール・リスク統括部だよ。本当はずっと営業店が良かったけど、出世と引き換えに本部に送還された」
「何をする部署ですか?」
「行員の不正を調査するところ。内部や外部からの通報をもとに、メールを見たり、聞き込み調査をしたり。人事部に処分の判断材料を提出する役でもある」
「探偵みたいですね。あの件で来たんですね?」

 七瀬は全てを理解したようだ。昔から察しのいい性格だった。私が案件に追われて昼食を食べていないと知ると、ふらっと外に出て、コンビニでおにぎりを買ってきてくれるような子だった。彼とのセックスに思考が及んでしまいそうだったので、私は仕事の話に戻った。

「今、ちょっと時間ある? 聞き込みに協力してくれない?」
「良いですよ。会議室は使いますか? 部屋を抑えておきますよ」
「ありがとう。できれば誰も入ってこないような場所だと助かる」

 彼は微笑んだ。それはごく自然な笑い方だった。彼の笑い方が好きだ。目も笑う。銀行にいながらにして、そんな顔の作り方を覚えている人間は少ない。

 私はあの日、彼に渡された、おにぎりの味を思い出した。他人と心が触れ合えることが、数少ない大企業で働くメリットだろう。SNSで威張っている起業家やフリーランス、離職率の高いベンチャー企業では、決して得ることができない。

「あと、ノートパソコンを一台用意してもらえる?」
「分かりました。会議室に置いておきますね」

 私はロビーを抜けて、支店長へ挨拶をしに行こうとして、思いとどまった。今、支店長と副支店長は自宅で謹慎中だ。通報を受けたのが昨日の番なので、今朝は家で人事部の裁きを、最後の審判を待っているのだろう。

「全く、バカバカしい」

 去っていく七瀬の背中を見送りながら呟いた。人事は神様ではない。それなのに行員の住むところや給料まで決めてしまう。もっと滑稽なのは、私はもっと末端の人事部の犬、権力の奴隷、法人リテール・リスク統括部の調査役ということだった。
 私は死んだ方がいいのかもしれない。そう思いながら、どうしてそうしようと思ったのかわからないが、私は本来挨拶をすべき課長が座っている営業フロアではなく、支店長室へ向かって行った。

 第六感というものがある。これは当たった試しがない。しかし、自分に不利な状況になりそうな予感はだいたい当たる。この予感に従って生きていたら、早稲田に在学中に彼氏を作り、銀行でも順調に出世をして、船橋辺りに一軒家を建てて、息子の中学受験をどうするかということで夫と揉めて毎日を過ごしていたのだろう。
 しかし私は、そんな声に気づいていながら無視し続けていた。彼氏なんてできたことがないし、地方出身者の集まる女子寮で、下手くそなバンドを結成して、若さを浪費して過ごしていた。高円寺の地下スペースでのライブが、おそらく私の女としての盛りと、人生のピークだった。名古屋と大阪の配属を経て、三十歳になって東京に戻り、「さて、遊ぶか」と思った頃には、周りは結婚して落ち着いていた。

 私は支店長室の扉を開けた。そこには地獄絵図が広がっていた。本来、コートをかけるべきクローゼットに、コートはかかっていなかった。五月の中旬なので、当たり前だ。そこにぶら下がっていたのは、写真に写っていた、小太りの、少しハゲた男性だった。

「支店長!?」

 私は支店長らしき男性の首に巻き付いていた紐を、スーツのポケットに入っていたハサミで切った。彼は床にどさっと落ちて、咳き込み始めた。生きている。ぶら下がってから時間は経過していなかったのだろう。

「本来なら、自宅で謹慎中のはずですよ」

 彼は何も言わなかった。沈黙が重い雲のように、部屋にのしかかっていた。

「今から私は課長に挨拶をしに行きます。その後で、この部屋を調べることになります。私は法人リテール・リスク統括部で、銀行員の不祥事を調査するのが仕事ですからね」

 彼は軽くうめき声をあげた。私はそれを彼の返事として、言葉を続けた。

「私が戻ってくるまでに、都合が悪いものを持って、部屋から出て行ってください。次にあなたと鉢合わせしたら、さすがに言い訳ができませんから」

 彼は驚いて目を上げた。その瞳にはもう、絶望が浮かんでいなかった。彼はあの写真だけで、十分に裁きを受けることができる。後の問題は、知ったことじゃない。おそらく会社のメールにも、やり取りがたくさん残っているだろう。それらは削除しても、私たちは復元することができるのだ。

 支店長室を出ると、清掃員とすれ違った。黒縁のメガネをかけて、マスクをしている小柄な女性だ。ふんふんと鼻歌を歌っている。最後に鼻歌を歌ったのはいつだったっけ、と思い出そうとした。とっくの昔に埋もれて、思い出すことができなかった。

 課長へ挨拶を済ませると、「黒川さ……調査役、会議室の準備ができましたよ」と、七瀬が話しかけてきた。彼に案内されて、長い廊下を抜け、会議室へ通された。

「随分と小さいね、この店の会議室は」
「ええ。ここ、支店長と副支店長のお気に入りだったんですよ。よく二人きりで話し合いしていました。今思えば、話し合いじゃなかったのかもしれませんけど」

 私は彼を見つめた。かたちのいい鼻と、唇をしている。

「こんな狭い部屋で、行為はできないでしょ」
「試してみます?」
「は?」

 いい加減にしてくれ、と私は思った。頼むから静かにしてくれ。もう私を一人にさせてくれ。青木次長のやけに色気のある、セクシーな仕草。クローゼットで首を吊っていた支店長。異動して、やっとのことで諦められることができた、恋心を抱いていた部下。誰もが私を惑わせてくる。そのくせに誰も、私とセックスをしてくれるわけではないのだ。
「私の心をかき乱しておいて、責任とってよね」という言葉が喉まで出かかった。その言葉は舌の上で溶かしておいた。安っぽい恋愛小説のようなフレーズだし、誰かに弱みを見せてはならないからだ。弱みを見せるとその姿を写真に撮られてしまい、あとは落とし穴に落ちて、地獄への坂道を転がり続けるだけだ。
 七瀬はそんな私の心を知ってか知らずか、鼻で笑った。

「はは。耳まで赤くなっていますよ」
「うるさいな。お前もしょっぴくよ」
「僕は綺麗に遊んでいるので、タレコミなんてされません」

 彼のような慶応ボーイは、遊び方を知っている。女の子と気持ちいい一夜を過ごして、後には何も残らない。そんな、トーキョーな関係を結び続けている。彼はきっと人生というゲームにおいて、勝者なのだろう。ある程度の年齢で、銀行か商社で働く、細胞レベルで美しい一般職の女性と、幸せな結婚をするのだろう。

「また、一人で何か考えていますね」
「え、バレてる?」
「三年間、一緒に仕事したらわかりますよ」
「今の上司にはバレてないと思うんだけどな」
「僕の大学の先輩ですよね?」
「そうかも。でも七瀬は青木次長のこと、知らないと思う。四十歳くらいだよ」
「三田会の繋がりをなめないでください。今度、調べておきます。何か弱みを握れたら、黒川調査役の出世に有利になるかも」

 この青年は、かわいい顔してとんでもないことを言う。法人・リテール・リスク統括部に向いているかもしれない。彼をスカウトしようかと考えた。しかし人事部の犬である私に、そんな技はできい。せいぜいが「犬のおまわりさん」を歌って踊れる程度だ。

「じゃあ、ちょっと聞き込み開始するよ。そこに座ってもらえる?」

 彼は私の真向かいに座った。二人の間を挟むテーブルは小さく、お互いの距離は思ったよりも近かった。

「支店長と副支店長が、怪しい行動を見せた時はあった?」
「ありましたね。二人揃って飲み会に遅れてくることが多かったです」
「飲み会の日にちは分かる?」
「スケジューラーを見ればわかるので、あとで送りますね」
「いや、それは私も見れるから大丈夫。他には?」

 彼は遠くを見ながら、淡々と語ってくれた。支店長も副支店長も、夫婦関係が最悪だったらしい。癖がある配偶者に悩んでいるが、自分と同程度の学歴を付けさせるために教育費がかさむ。それで、なかなか離婚できないと悩んでいたようだ。

 彼の話が終わる頃には、部屋にはどんよりとした気が漂っていた。私もこんな仕事をしている自分が、心底好きというわけではない。早くオンラインサロンを主催したり、情報商材ビジネスで金を稼ぐくらい、自分が大好きでたまらない女性になりたいものだ。平凡な女の、どうでもいい日常。その手のエンタメが、疲れた世の中には求められている。

「他は怪しいところはあった?」
「この会議室によく二人で来ていたことくらいですね。ゴミ箱を漁って、DNA鑑定したらどうですか?」
「そこまではしないよ。殺人事件じゃないからね」
「殺人事件といえば……いや、何でもないです。これ、関係ないですね」
「何? 話してよ。何でもいいから」

 実際、彼が知っていることは大したことないだろう。飲み会と会議室、この情報が得られれば十分だ。しかし、私は彼との会話を引き延ばしたかった。秘密を共有することで、得られる親密な雰囲気を、もう少しだけ味わっていたかった。

「黒川調査役が今の部署に行く、少し前の話です。三田会の誰かが、莫大な遺言を相続したんですよ」
「銀行ではよくある話だよ。当行にはMビルの娘もいるし、N銀総裁の息子もいる」
「それくらい、四年目の僕でも知っています。そうじゃなくて、相続をしてくれた相手が、普通の人じゃなかったんです」
「反社会的勢力ってこと?」
「銀行の取引先です」

 私たちの会話を遮るかのように、会議室の内線が耳障りな音を立ててなり始めた。七瀬はやれやれと言った様子で立がり、ゆっくりと受話器を取った。

「はい。今ちょっと本部の対応をしていて……え、不備があった? 分かりました。すぐ行きますよ。大丈夫、十五時までには戻ります」

 私は彼に目で「行っていいよ」という合図をよこした。彼は小さく会釈をした。

「ちょっと緊急対応があって、抜けますね。他に誰か呼んできましょうか?」
「いや、ここで仕事するから大丈夫」

 彼は立ち去った。かつて共に仕事をした仲間として、三年間私のもとで働いてくれた部下に、ここで飲みに誘うべきだということは知っていた。しかし、できなかった。もし断られたりしたら、私はきっと立ち直れない。現実直視できるようになるには、私はあと何年生きればいいのだろうか。

 私はメールボックスを開いた。青木次長からいくつかメールが転送されていた。転送に付随するメッセージは『fyi』という3文字だけ。For your Information、しかも大文字にする手間も省いている。 

 メールの内容は、正直よくある男女の会話だった。あまり真剣に読む気が起きず、流し読みをしていた。あくびが出そうだ。ここまでクロならもはや、彼らへの聞き込みは必要ないように思えた。私は先ほどの支店長の姿を思い出した。ストレス耐性だけが自慢の銀行員だが、全員が聞き込みに耐える精神力を持っているわけではない。途中で発狂したり、怒りのあまり部屋を出ていく者もいる。

 以前、こんなことがあった。客から金を借りて投資をしていた行員を、会議室で取り調べをしていた時のこと。彼は大声で叫び、会議を飛び出していった。
 会議室から出ると、サービス課長と二人で何かを話している。私を指をさして「この人です。この人にセクハラされました!」と声を荒げていた。彼が何を言っているのか、さっぱりわからなかった。どこか異国の地に来て、自分の知らない文化をもつ民族に囲まれているような気がした。
 幸い会議室には、監視カメラがあった。以来、私は絶対に扉と窓を開けて聞き込みをするようにしている。自分の身は自分で守らなくてはならない。ただし、七瀬は例外だ。彼は私が心を許した、数少ない人類だった。

「……そろそろ行ったかな」

 腰が重いが、支店長室へ行かなくてはならない。さすがに何もせずに本部へ戻ったのでは、職務放棄だろう。そうしたら青木次長は怒るのだろうか。次長が怒ったら、どんな様子なのかを想像してみた。飄々としている人間ほど、怒らせると怖い。私のようにすぐ怒りを爆発させる人間なんて、きっと目じゃない。私は興味本位で青木次長の名前をインターネットで検索してみた。下の名前も含め、よくある名前のせいか、明らかに違う検索結果が大量にヒットしていた。

「……こんなことして、時間を潰している場合じゃないよな」

 私は立ち上がり、支店長室へ向かうことにした。

 支店長室は、取ってつけたような静寂に包まれていた。先ほどまで誰かいたのに、慌てて部屋を出て行ってしまったような不自然さが残っていた。

 クローゼットを開けても誰もいない。私は安堵した。一日に二度も首吊りを見るのはごめんだった。クローゼットの中を見て、机の引き出しを開けてみたが、何も残されていなかった。当たり前だ。銀行員は私物をオフィスに置いていくことなんてほとんどない。

 このまま部屋を出るのも何なので、支店長室の椅子に座ってみた。ふかふかで座り心地がいい。そこかからは、部屋全体が見渡せた。趣味の良い飾り付けがされている。どっしりとしたソファーと机、アンティーク調のクローゼットと本棚。男がくつろげる全てのものが部屋には揃えられていた。ここでセックスをするのはどんな感じだろうな、と思った。

 扉に控えめなノックの音がして、開いた。そこには七瀬が立っていた。

「もう帰ってきたの? 早いね」
「営業課が間違えていたみたいです。そのままで処理してもらうことになりました」

 それが彼の交渉によるものだとわかった。お局様は、かわいい男の子に弱い。

「何か捜査に進捗はありましたか?」
「いいや、何も」

 ここで首を吊っていた支店長にあったとは、言えなかった。

「じゃあ、飲みに行きましょうよ。今日。そこで、良いこと教えてあげますよ」
「今ここで教えてよ」
「ダメですよ。僕、仕事中ですよ。店は取っておくので。十八時でいいですか?」

 十八時か、と私は思った。それまでにトリートメントをして、全身脱毛をして、イチからやり直したいものだ。その時間までに私が彼の理想とする女の子に変身することは無理だろう。早く彼がデブか貧乏になるなどして堕ちてきて、私レベルの女性を好きになってくれればいいのに。

 居酒屋では、QRコードでメニューが注文できるようになって、アルバイトの数が減らされたのは明らかだった。私はなんだかそわそわと落ち着かなかった。それは店員が忙しい素振りを見せながら「早く終わらないかな」という顔を隠そうともしていないからではない。七瀬から「少し遅れます。先に始めていてください」と連絡が来ていたからではない。一人でテーブル席に座っているからではない。何かが私の心に引っかかっていた。

「タイミングよくラブホから出てきた姿を激写された写真、匿名のタレコミ、支店長室での事件、七瀬だけが知っている『何か』……」

 私はビールを一杯注文した。その謎を解くには間違いなく、アルコールが必要だった。しかし、私は忘れていた。お酒は久しく飲まないと、とても弱くなってしまうのだということを。

「黒川調査役、飲み過ぎですよ」
「うるさいな。お前が飲まなさすぎるんだよ」
「噂には聞いていたけど、本部って本当に飲み会ないんですね」

 私は彼を見つめた。その真意がわからなかったからだ。

「前はこれくらいで、酔わなかったじゃないですか」
「年を取ると代謝が悪くなるんだよ。すぐに酔っ払うようになる」
「はいはい。じゃあ、真面目な話はしない方がいいですかね……仕事の話なんですが」

 私は無理やり、意識レベルが回復させた。ここ法人リテール・リスク管理部で成果を上げるということは、より多くの事件を解決するということだ。出世をすれば、七瀬がその地位に憧れるようになった時、もしかしたら結ばれることができるかもしれない。今まで全く出世欲がなかったくせに、不純な動機のお陰で、急にやる気になってきた。

「本題に入ってくれる?」
「なんだ、酔っていなかったんですね」
「殺人事件がどうとか、そういう話だっけ?」

 七瀬は手を挙げて、店員を読んだ。芋焼酎のロックを頼み、話を始めた。

「ある取引先の会長がなくなったんです。それで遺言には『お世話になった銀行員さんに財産を分与して欲しい』って書いてあったんです」
「金額は?」
「四十億円です」
「よんじゅうおく!?」

 私の声は想定より大きくなってしまい、周りの客がチラチラとこちらを見た。

「気をつけてくださいよ。お客さん、この辺にいるかもしれないんだから」
「ご、ごめん。それで、その行員はお金をもらったの?」
「そうです。法律上はおかしいことはないですからね。遺族はあんまり納得されてないようでしたけど」
「そりゃ、そうだよね。嫌な気持ちにもなるよ。でも、その銀行員って誰なの?」
「そこまで分かりません。でも三田会に、割と大きめの金額の寄付があったんですよ」
「だから、慶應の誰かだって話だったんだね」
「おじいちゃんの遺産を、若くてかわいい女性行員がいただいたんでしょうね」

 あるいは、若くてかわいい男性行員か。とは、言わないでおいた。彼はスマホを見始めた。アプリでデートの約束でもしているのかもしれない。その世界線に、私はいない。三十歳になると、一気に恋愛至上では需要は萎む。私が彼を繋ぎとめるには、突拍子もないことを言うしか道はない。私は切り出した。

「ねえ。これ、誰にも言わないで欲しいんだけど……」
「何ですか? 処女キャラだけど、実は経験済みとか?」
「違う」
「青木次長とデキてるとか?」
「絶対にない」

 次長は既婚者だ。不正を調査する部署で不正が起きているなんて、笑えない。そもそも生理的に、生物学的にも無理がある。

「支店長が、支店長室で首を吊ってた」
「はぁ!?」

 今度は先ほどの数の倍の取り巻きが、私たちの方をチラチラと見ていた。



「……その持っていたハサミで、人の命を救ったわけですね」

 七瀬は心を落ち着かせるためか、芋焼酎のロックのおかわりを頼んだ。これがカルーアミルクや、カシスオレンジでなくて良かった。男らしさという言葉は死語だが、それでも相手にこうなっていて欲しいという理想像くらい、女性は持つ権利がある。

「そうとも言えるけど、救った方が良かったのかな」
「亡くなった方がいい命なんて、一つもないですよ」

 彼にしては珍しい、しんみりとした声だった。私は彼を見つめた。父親に出て行かれた子ども時代の顔に、一瞬だけ戻っていた。

 私は彼と寝ることができるのだろうか。もうあと十年若ければ、それは叶ったのかもしれない。彼は焼酎で喉を潤してから、言った。

「副支店長とは連絡を取れているんですか?」
「いや、まだだよ。面談は次長が担当するってさ。本部に来てもらう流れになってる」
「本当に大丈夫なんですか? そんな仕事をして」
「どうしたの? いきなり」

 彼は私を頭のてっぺんから、つま先まで見つめた。ここまで人の全身をゆっくりと見ることのできる人間も珍しい。だいたいは途中で目をそらすか、逃げ出してしまうことが多い。

「心配なんですよ。どこでも突っ込んでいくし。前の店でも、新規開拓って言って、反社会勢力っぽいとこに乗り込んで行ったじゃないですか」
「あのレンタルビデオ屋か、びっくりしたよね。監禁されかけてさ」
「僕、あの後、取引先に行ったんです。占いができる社長がいて、見てもらったんですよ。そしたら『あんたの上司、やばいぞ。一緒にいると、とんでもないことに巻き込まれるぞ』って言われました」
「なんで、その時に言ってくれなかったの?」
「格付が下がるのが、嫌だったんです。スピリチュアル系の社長って、経営者リスクがあるから、格付を落とされるじゃないですか。それで心配になって飲みに誘ってみたんですけど、元気そうですね」

 彼は微笑んだ。歯並びが見事だった。

「うん、元気だよ」

 ちっとも元気じゃないくせに。違う職場になったから、会いたくてたまらなかった。そんなことが言えるはずもない。その日はそれでお開きになったかと思われた。しかし、店を出る時に、私は名案がひらめいた。

「ちょっと、ホテルに行かない?」

 彼の瞳は、大きく見開かれた。

「この先が例の支店長と副支店長が出てきた、ラブホテルなんだよ。偵察しに行きたいから、付いてきて欲しい」

 彼と寝たいから誘ったというわけではなくて、あくまで業務として、彼とラブホテルへ向かっていた。人生経験として、ラブホテルには行ってみたいと思っていた。ネットでの知識は仕入れてある。ホテル業界の取引先を担当したこともある。

「ラブホって、女性一人で入れないんでしたっけ?」
「ダメなんだよ。女性二人は良いんだけどね。事件性があるから、女性が一人で部屋にいるのはダメなことになってるんだ」
「じゃあ女の人を部屋に呼んだりするのも、できなくないですか?」
「女性が先に入って男性が一人になるのは良いみたい。ホテルの治安が乱れるから、嫌うホテルも多いけどね」

 私は一体、何をしているんだろう。本当は今すぐに、彼から好感を持たれるようなことを言うべきなのだ。ラブホに詳しい女なんて、モテるわけがない。酔っ払った彼にボディタッチをしたり、お世辞を言ったりするべきなのだろう。

 しかし、そんなかわいい生き方を、私は知らなかった。もっと早く知っていたら、かわいく生きることができたのかもしれない。勉強もそこそこに大学に入り、彼氏を作り、料理教室に通い、他の男の子とも夜は遊ぶことができたのかもしれない。しかし、軌道修正するには年をとりすぎていた。それに、そんな人生は、何だか薄っぺらい気がした。

「支店長たち、どの部屋を選んだんでしょうね」

 七瀬はタッチパネルの前で、どの部屋にするか悩んでいた。せっかくの初めてのラブホテルだ。景気よく行こう。そう思って、一番高い部屋を選ぶことにした。

 部屋に入ると、私は嫉妬した。そこは銀行の独身寮よりも五倍は広く、快適な空間が広がっていたからだ。こんなところで夜を明かせることができれば、毎日ご機嫌で過ごすことができるに違いない。

 私は靴を脱いで中へ入り、いかにも部屋を偵察しているようなふりをした。七瀬に「ルームサービスで好きなもの、頼んでいいよ」と言うと、彼は「分かりました」と言い、靴を脱いで揃えていた。

 私は中に入り、あちこちを見まわした。入った時は快適な空間だと思ったのだが、なんだか空気がよどんでいる。その正体は窓がないからだということがすぐにわかった。理想の物件なんて、この世の中にはないのだろう。

 七瀬がどこに行ったかわからなくなったから探してみると、浴室から水音が聞こえてきた。きっとシャワーを浴びているのだろう。これから女の子と会うから、そのために身を清めているのかもしれない。私は彼の体を想像してみた。シャツの上からでも、彼の肉体が悪くはないことはわかる。筋肉質ではないにせよ、引き締まっているだろう。重力はまだ、彼の腹の上では、抵抗を続けているに違いない。

 水温が止み、彼がシャワーを終えたことがわかった。シャワーの音を聞いていると、私もシャワーを浴びたくなってきた。私も次に入ろうと思って、ベッドで待つことにした。シャワーを浴びたら、退出すればいい。終電には十分間に合う時間だ。だから、彼がシャワー室からバスタオルを腰に巻いて出てきた時は、彼の考えていることが私の想定の域を超えていると感じた。

 私は彼の体を見た。筋肉はあまりついていないが、そちらの方が好みだ。健康的な食事をして、相手にもそれを強いる男性は苦手だ。地球上の男性が全員、菜食主義者の会計士になってしまってはいただけない。そして銀行員という人種は、最もそれに近いタイプの人間が集まっている劣悪な職場環境だった。

「服、着ないの?」
「どうして着る必要があるんですか?」

 沈黙。私はふさわしい言葉を探したが、どれも場違いに思えた。私は彼を見つめた。こげ茶色の瞳は知的で、それは青木次長を思い起こさせた。改めて見ると、彼は魅力的だった。年を取っても、ちっとも衰えない類の豊かさを備えていた。

 彼に返す言葉は、語彙力をかき集めても思い浮かばなかった。銀行のどんな手続きを思い出しても、それは載っていないように思えた。

「早くシャワー浴びてきてくださいよ」
「わ、分かった」

 彼の言葉を好意的に解釈すれば、私とセックスをしようとしているようだ。もし悲観的に捉えるとするならば、このホテルに別の女の子を呼ぼうとしている。

「別の女の子なんて、呼ぶわけがないよね」

 私はシャワーを浴びながら考えた。夢にまで見た、七瀬とのセックスが始まろうとしている。いくらかお金を渡した方がいいのだろうか。それでは売春だ。未成年ではないから違法ではないが、なんだか気が引ける。しかも、私の求めていたものはこれではなかった。しかし期待という上昇と、絶望いう下降の、際限のない繰り返しに疲れていた。考えても仕方ないことは、考えなくても良いのではないぁ。もう場に流されてしまって、良いのかもしれない。

 体を丁寧に洗い終わって脱衣所に行くと、ガウンが目に入った。それは手触りが良く、薔薇の花びらのような着心地が約束されているように見えた。また葬儀屋のスーツに身を包むのは、もう少し後でいい。私はガウンを着て、七瀬の待つベッドへ向かった。彼はまっすぐに私を見つめた。この青年は、思ったほど弱くもないみたいだ。

「あのさ……」

 全てを言い終わる前に、彼は腕を私の体に回した。そして、キスをした。初めてのキスは、芋焼酎の味がした。彼がキスのために飴をなめておくような小賢しい男じゃなくてよかったな、と思った。そんな冴えない男だったら、股間を蹴り上げてしまいそうだ。

 行為を終えると、マッサージを一時間受けた後よりも調子が良いことに気が付いた。身まるで空中を漂っているかのような、素晴らしい体験だった。「今日はありがとう、これで続きも楽しんで」と言って彼に三万円を渡した。彼は呆れた様子でお札を眺めていたが、ありがたくもらうことにしたらしい。

 だから行為を終えて、ホテルを出た時に、誰かに写真を撮られていることなんて、ちっとも気が付かなかった。

 翌朝、出社すると、青木次長から会議室に呼ばれた。異動かと思ったが、この部署に来てまだ半年だ。やけに早すぎる。次長は私と向かい合い、じっと二人の間にある机を見つめていた。その机を見つめたまま、口を開いた。

「昨晩は、ずいぶんとお楽しみだったようやね」

 私が答えあぐねていると、次長は社用スマホを私に見せて来た。

「こんなものが送られてきたよ」

 それは見なくても分かっていた。七瀬と二人でホテルを出て来た時の写真だ。

「この銀行には、ラブホテル専門の探偵が雇われているんですかね?」
「皮肉を言っている場合やない」

 青木次長の声は、氷のように冷たかった。

「どうしてですか? 店内恋愛、部内恋愛は禁止です。でも私と七瀬は、かつての上司と部下です。今は関係ないじゃないですか」

 次長はやれやれと言った様子で、ため息をついた。その様子はセクシーだった。

「法リ統には、裏ルールがある。調査をしている店の行員とは、関係を持ってはならないんや」
「そんなルール、お初にお目にかかりますね」
「黒川さんには言っていなかったからな。縁がないと思っていたし」
「失礼ですね。私、そんなに魅力ないですかね? それにきちんとお金は払っています」
「どういう意味?」
「セックスの対価に金銭を渡したという意味ですよ」

 次長は頭を抱えた。まさか部下が男を買っているなんて、思ってもいなかったのだろう。しかし、ひとまず横に置いておくことにしたようだ。賢明な判断だ。日々、様々なトラブルが襲い掛かってくる銀行員をやっていれば、息を吸って吐くように、困った人の対応ができるようになる。

「この写真を送って来た奴は、匿名でな。ある時間に、ある場所に来いと言われている。そうすれば、銀行に送らないでおいてやる、と言う話や」
「あれ、銀行の通報窓口に送られてきたわけじゃないんですか?」
「私の個人のメールアドレスに来たよ」

 私は驚いた。次長が個人のメールアドレスを持っていたことに対してだ。この上司は会社に住んで、会社で寝泊まりをしていて、プライベートなんて一切ないと思っていた。それくらい仕事一徹の人間だった。
 私の驚きを無視して、次長は一枚のメモをよこしてきた。まるでこの話を早く切り上げたいと言わんばかりだった。

「これが指定された場所や」
「ここに来なさいという命令ですよね?」
「私からは命令できない。あくまで君の判断や。でもこの一枚の写真がなければ、来期には昇格できる。海外赴任の話も来ている。くだらない雑用にまみれる人生と、少しの間だけおさらばできるかもしれない」

 またにしても驚かされるはめになった。本日の次長は、私の意表を突く発言を数秒おきにしてくる。

「どうして、カスみたいな仕事だと思っていることがばれたんですか?」
「銀行員の、いや、会社員の誰もが、そう思っているよ。経営者の作ったくだらないルールに則って、月極めで給料をもらいながら働く。そのゲームに一生をかけたいと思っている奴なんていない。そのふりをしているだけや」
「そのふりをし続ける対価として、私たちは報酬をもらうわけですね」
「給料と呼ぼうや、せめて」

 便利な言葉だ。次長は私の胸に写真を追いやった。そこは昨晩、七瀬に触れられた場所で、私は昨晩のことを思い出して少し頭がぼーっとしてしまった。そのせいかもしれない。次長が何かを口にしたのを聞き逃していた。

「……話は以上や。もう行くわ」

 次長は立ち上がり、部屋を出て行った。私は彼に渡されたメモを、もう一度まじまじと見た。

『今夜二十時に、八菱銀行目黒支店のATMで』

 几帳面な字だ。上司の字を見る機会はあまりないが、いかにも次長らしい字だと思った。私は思った。昨晩の七瀬とした行為を、青木次長としてみたらどうなんだろうか? きめ細やかで、優しいセックスをするのだろうか。それとも獰猛で、荒々しい行為を好むのだろうか。

 私はデスクに戻り、「目黒支店に調査へ行ってきます。直行直帰します」と青木次長へ行った。次長は私を見た。私は微かにうなずき、次長も同じ仕草を見せた。上司に嘘をついて後ろめたい気持ちもあったが、やらずにはいられなかったのだ。

 目黒支店に行くと、七瀬が声をかけてきてくれた。

「また、同じ部屋を準備しておきますね」
「ありがとう。パソコンもお願いできる?」

 彼は親指を立てた。夜の間にホテルで起きたことについては、二人とも何も言わなかった。彼のそんなところも好きだった。私は会議室に入った。そこでパソコンを開き、Wordファイルを開いた。そうして、次のように文章を打っていった。

・・・

 私が仕事を終える頃に、青木次長は立ち上がった。廊下ですれ違う時に、小指を触れ合わせる。それは「今夜、あのホテルで集合」という合図だった。私は息を呑んだ。これから彼に抱かれるのだ。今日は初めてではない。二回目だ。容姿の点からは、彼には不倫相手としての完璧な条件が揃っていた。

 動物的でもあり、悪魔的でもある美しさ。銀行員にしては長く、豊かな黒髪、深い漆黒の瞳。退屈な女房と、冴えない子どもだと愚痴っているのを耳にしたことがあった。恐るべき平静さで、彼は帰宅準備を始めていた。

「お先に失礼します」

 青木次長に声をかけると、彼はかすかに頷いた。優しい瞳の奥で、欲深い光が宿った。

 彼が指定したホテルは、趣味の良い飾り付けがされていた。月が綺麗だ。ホテルの前で待っていると、彼が現れた。二人とも無言で中へ入っていく。タッチパネルの前で、彼は口を開いた。

「悪いね。カップルなら、外で飯でも食うべきなんやろうけど……」
「構いませんよ。カップルじゃないんですから」

 彼は少し傷ついたような顔をした。私は独身で、彼は既婚者だった。このくらいの意地悪はしてもいいだろう。「ルームサービスがここは充実しているから」と言い訳がましく言う彼と、エレベーターに乗った。今日の彼はやけに弱気だ。おそらく私が先週、かつての部下と寝ていたことを知っているからだろう。 

・・・

 ここまで書いたところで、会議室のドアが開いた。私は慌ててWordファイルを閉じた。業務中に官能小説を書いているなんてバレたら、かつての部下に金を渡して寝るよりもマズい。

「黒川調査役、何か足りないものありますか?」

 それは七瀬、君だけだ。君への屈折した思いを抱えるがあまり、上司とのポルノ小説を書いてしまっている。そう言いかけて、私は微笑んだ。

「いや、大丈夫。今のところは。ありがとうね」

 彼は私の前に座り、囁くように言った。

「支店長と副支店長の不倫を通報したの、誰か分かったかもしれません」
「え?」
「目黒支店の誰かだろうなと思ったんです。彼らの行動パターンを把握しているのって、同じ店の人間くらいしかいないじゃないですか」
「まあそうだけど、なんでわかったの?」
「支店長と副支店長が降格して得をする人間は、この店で三人います」

 彼はメモ帳を取り出して、スラスラと文字を書き始めた。男の子らしい大胆な、汚くもないけれどきれいでもない字だった。

「その三人なら、調査で洗い出したよ。彼らのスケジュールもメールも見たけど、特に不審な点はなかった」

 彼は少しだけ肩を落とした。

「何か役に立てればと思ったんですけど」

 君みたいな人間は、生きているだけで役に立っているよ。口に出そうとして、やめておいた。あまりにも寒々しい気がしたし、それを言う権利は私にないと思ったからだ。

「いつでも必要だったら言ってくださいね」

 彼はにっこりと笑った。この年でそんな笑い方ができるなんて、きっと過去に家族を惨殺されたとか、親が出て行ったとか、そのようなトラウマを抱えているに違いない。確か彼の父親は西麻布の不動産を所有していて、滅多に家に帰ってこなかったという。「西麻布は目を閉じてでも歩ける」と豪語していたんだとか。彼もいずれそうなるのだろうか。そうしたらもう私とは、セックスしてくれないんだろう。

 彼は出て行き、私はノートパソコンに向き直った。そして青木次長との一夜の続きを書くことにした。

・・・

 私たちはベッドへ行った。彼は私に覆いかぶさっており、よく見ることができた。私は男性の白髪が好きだ。床屋に行くのができないくらいに忙しくて、だらしなく伸びてしまっている髪の毛が好きだ。チリチリにパーマされた髪の毛や、整髪料でオールバックにされた髪の毛なんて、吐き気がする。そんなものは雑誌やインターネットだけでいい。実際の人間には、どこか抜けていて欲しいのだ。そうでないと疲れてしまうし、同じ空間にいて、息が集まってしまう。

 彼は両手で私の小さな丸い胸を包んだ。乳首が固くなっていくまで、長い時間は要しなかった。

「声、我慢しないで」と彼は言った。「今まで散々、我慢してきたんやろ。そのままの君を見せてほしい」

 なんだか宗教の勧誘のようだと思った。実際、彼の黒い瞳は、狂信家のように光っていた。ほのかに甘いアロマの匂いが漂ってきた。私の問いかけるような瞳に気付いたのか、「感度を上げるオイルや」と彼は説明してくれた。

「若さでは、あの部下にはかなわない。でも、こういった小細工を使うような経験と知識は持ち合わせているからね」

 私は自分が自分でなくなっていくように感じていた。目の前の男性がこれまでに見た、誰よりも美しいとすら覚えていた。四十歳のくせに、肌はなめらかで、魅力的だった。私は手を伸ばして、彼に触れた。それが合図のようなものだった。

・・・

 書いていて吐き気がする。三流アイドルが出す、下手くそなエッセイよりひどい。でも今の私が求めていたものは、これだった。現実を直視して現実だけを見つめていたら、とてもではないが生きていけない。現実では不可能なことも、頭の中でなら、何だってできる。脳内は治外法権なのだ。それを脳内に留めておく限りならば。

 ふと廊下から、掃除機の音が聞こえてきた。ドアからのぞくと、清掃員が掃除をしている様子が見えた。彼女はまたもや鼻歌を歌いながら、掃除機をかけている。彼女のような若い女性が、清掃員という職を選ぶことは難しい。だいたい華やかな仕事をしたがるからだ。子どもがいるのかもしれない。午前中で仕事を終えて、十四時には家に戻り、子どもの帰りを待つのだろう。それはとても幸せな人生のように思えた。

 人間は他者のためにしか、結局は生きることができない。彼女は仕事にそれほど精力を入れてない分、家庭に使っているのだろう。エネルギーを他者のためでなく、自分のために使っていると、かなり危険だ。自己実現の化け物みたいになった同級生たちを、何人か見てきた。

 男性はまだいい。それでも女性がついてきて、子どもが生まれて、何とか軌道修正を図れるからだ。女性でそうなってしまうと、目も当てられない。「私は一人で生きていく」なんてとんでもない思い違いをしてしまう。

 彼女たちは言うのだ。「でも私には仕事があるから」。その「仕事」は、彼女たちがする必要は全くない。イラストは他の誰かが書けばいいし、文章を書きたい奴はいくらでもいる。それに気づいた頃には、すでに手遅れなのだろう。

 彼女の鼻歌は、私の心を和らげて言った。あんなふうに鼻歌を歌える日が、私もいつか来るんだろうか。私はポケットに入ったメモを、もう一度見直してみた。「二十時に、目黒支店の前で」。なんだか怖くなってきた。ミステリー小説なら、真っ先に殺されるフラグではないか。私は七瀬に頼むことにした。

 立ち上がり、部屋を出た。ちょうど廊下にいた掃除のおばちゃんから「この部屋、掃除してもいい?」と声をかけられた。初対面でもタメ口を使うタイプの人間らしい。お気楽な人生を送っていそうで何よりだ。私は無言で頷いた。彼女は部屋に入り、私は部屋を出た。ノートパソコンは部屋に残しておくことにした。またすぐに戻ってくるから、そのままで良いと考えたのだった。

 私は廊下へ行き、お手洗いを済ませ、会議室でなく、フロアへ行くことにした。そこで七瀬が女性行員と談笑をしている姿が見えた。灰色のオフィスの中で、そこだけが陽だまりのようだった。女性行員は、唖然とするほど美しい女性だった。歳はまだ二十か、せいぜい二十二というところだろう。彼は私の視線に気づくと、軽く手を挙げた。その合図を元に、女性行員は、彼の元から去っていった。

「今の、誰?」
「取引先第一課のレオさんです」
「え、女性だよね?」
「はい。ご両親が男の子が生まれて欲しくて、その名前にしたみたいです。ライオンのように気高くて雄々しい人間になるように、って」

 そこまで知っているなんて、よほど親しいのだろう。無粋なことはしなかった。なんだか嫉妬しているように思えたし、それを聞く権利は私にはない。彼女にどこか既視感を覚えて、記憶をたどっていると、七瀬から朗らかに言われた。

「黒川調査役、メシ行きません? 昼、まだですよね」

 ちょうどいいや、と私は思った。二十時に付き合ってもらうことを頼める。ここで奢っておけば、ある程度の借りができる。部下に金を払わせる気持ちなんてないのだが、なんとなく断りづらい雰囲気に持っていくことはできそうだ。

「良いよ、行こう」
「何、食べたいですか?」
「丸の内に無さそうな店がいいな。あの辺にいると、なんだかどれも似たような店で嫌になってくるんだよ」
「大してうまくもないのに、高いですしね。中華はどうですか?」
「いいよ」

 私たちは店を出て、二人で坂を降りていった。こうして二人で歩くのは、かつて店で働いていた時以来だった。

 あの時にどうして、彼と結ばれておかなかったんだろう、と今でも思う。でも、きっと、そういうものなのだ。自分の人生を全てコントロールできるなんて、大間違いだ。しかるべきタイミングがあって、ある程度それに身を委ねるしかない。

 私はあの小説の中に書いた、スピリチュアルのことを思い出した。スピリチュアルな人たちも、ある意味ではコントロールしようとしている点では一緒なのかもしれない。全てをそのまま受け止める。そう慣れればきっと悟りの境地にたどり着くのだろう。

「……ってくださいよ」
「え? ごめん、今なんて言った?」

 私は考え事をしていて七瀬が行った言葉を聞き逃していた。

「だから、僕、あの夜のことが忘れられないんです。今まで年下しかダメだと思っていたのに、年上もいけたなんて。ていうか、年上でしか抜けなくなっちゃったんですよ。僕の性癖を歪めた責任、とってくださいよ」

 実は彼はとんでもないことを言っていたようだった。そしてその中華料理屋と彼が言っていたところは、向かいにラブホテルがあったのだった。

「い、今から行くの?」
「ラブホテルには休憩っていうコースがあるので、時間的には問題ないです」
「時間の問題じゃなくて、倫理的に……」

 彼は可愛らしく首を稼げた。たしか次男か三男だった。このようなあざとい処世術を身につけるのは、第二子以降だ。私は彼に飲まれそうになったが、そこで、あのことを打ち明けるのには格好なタイミングであることに気がついた。

「あのさ、ちょっと言わなきゃいけないことがあって」
「何ですか、生理とか?」
「違うよ。昨晩、私たちがラブホテルに行ったでしょ。あのホテルから出てきた写真が撮られたんだよ」
「それって何か問題あるんですか?」
「法リ統では、調査中の店の人間と関係を持っちゃいけないって言う暗黙のルールがあるんだってさ」

 彼は肩を軽くすくめた。それは私と行為ができないからなのか、タレコミがあったからなのか、どちらか分からなかった。私は彼を見つめて、本題に入った。

「でもね、今日の二十時に目黒支店に来て欲しいって連絡を受けたんだ。この写真は青木次長に送られたもので、そうすれば銀行に送るのは勘弁してやるって話だった」
「ははあ、なるほど。相手は支店長ですか? それとも副支店長?」
「どうしてそう思うの?」
「自分たちの罪を軽くしてほしいから、黒川調査の役のことをつけて、弱みを握ろうとしていたんじゃないですか」

 そんなことをするかな、と思った。しかし、人間は追い詰められると、何をするかわからない。食べ物がなくなれば、人間を食べる。相手の土地が欲しければ、戦争だってする。だから組織は、人をそこまで追い詰めるような状況を作ってはいけないのだ。

「まあ仮にそれが支店長だったにしろ、副支店長だったにしろ同じことだよ。でもそうじゃなかった場合に怖いから一緒に来てくれない?」
「今日の二十時ですか。女の子と会う約束してるんですよね」

 彼の目線がスマホに行ったところから察するに、どうやらマッチングアプリで出会った子なのだろう。昼に私としておいて、夜には別の女の子とするつもりなのか。彼は何人、子孫を残すつもりなのだろう。サッカーチームでも作るつもりなのだろうか。

「分かったよ、じゃあ一人で行くよ」
「青木次長に頼むのはダメなんですか?」
「……なんだか気まずいな」

 かつての部下を買春したり、上司を性転換させてエロ小説を書いたり、私は何をやっているのだろう。やっぱり死んだ方が良いのかもしれない。

「まあ確かに、女性の方が察してくれますよね。男は鈍いですから」
「いや、青木次長は女性だよ」
「え? そうなんですか?」
「あの人は、男以上に男だよ。アスペだから、共感性も皆無だし。言ってなかったっけ?」

 その日は普通にお昼ご飯を食べて、七瀬は自分の仕事に戻って行った。十九時に支店が閉まるので、私は二十時まで時間を潰すために、どこかへ立ち寄らなくてはならなかった。そこで昨日、写真が撮られたであろう場所に行ってみることにした。私たちが取られた場所と、支店長たちが取られた場所は、おそらく撮影地だ。

 本当は本屋に寄って、自己啓発本の一つや二つでも読んだ方がいいのだろう。足りないものを教えてくれて、幸せな人生はどうしたら送れるか教えてくれる。今日の献立から、一週間で着る服まで教えてくれる。とにかくみんな、何もかもを教えたがる。そしていつの間にかそれが、自分の意見であるかのように勘違いしてしまう。

 撮影場所は、案外すぐに見つかった。ロケーションから、喫茶店だと割り出せたからだ。私は店内に入り、窓際の席に座ろうとした。しかし、そこには先客がいた。青木次長だった。

「ああ、お疲れ様。黒川さん」
「お疲れ様です。美味しそうですね、そのサンドイッチ」
「ひとつ食べる?」

 私は耳を疑った。青木次長はそんなことを言えるタイプではない。もしかして、夜には人格が変わるのだろうか。私が疑っていると、次長は先に口を開いた。

「読んだよ、あれ」
「は?」
「黒川さんが私のことを、あんな風に思っているなんて、知らんかったわ」

 意味が分からなかった。どうして私の小説を読んだのだろうか。私はあの後で会議室に戻り、メールやスケジューラーの詮索を続けていた。その間、誰かが勝手にパソコンいじるなんて考えにくい。そんなことをしても、何も得をしない。むしろリスクの方が大きい。私が黙っていると、次長は言葉を続けた。

「席を離れる時は、パソコンを閉じる。銀行員の基本や」
「……あの清掃員ですか?」
「さすがやね。あの店には私の息のかかった行員がいてな、清掃員さんが休みの日に、彼女に変装してもらって探りを入れてもらってたんや」

 私は思い出した。支店で働いていた頃、清掃員も休みを取る日があった。そもそも、いつもと違う人が掃除をしていても、行員は気にも止めない。行員も私のような人間には警戒するが、清掃員には警戒をしない。

「でもそれは、不倫の調査のためでしょう。どうして私の小説を、次長に送る必要があったんですか?」
「業務中に小説を書くのは、褒められた行為じゃない。リスクだと判断して、私に送ったんだろう。たいして中身は読んじゃいないと思う。中身を読んでいる間に、黒川さんが戻ってくる可能性もあったしな」

 あの時、私は七瀬と昼食を食べに行く話をしていた。しばらくは戻ってこないことは分かっていたのだろう。

 私は次長の前に置かれたサンドイッチを見つめた。しなびたレタスが、もの悲しそうに卵に挟まれていた。それに私を重ねていると、次長は口を開いた。

「七瀬くんとの一件は銀行に通報されていないから、何とかできるかもしれない。でも、小説の件は難しいと思う」
「次長の性別を、男性に変換していたからですか?」
「それは別に。女子校の時、私のファンクラブがあって、何人かに同じような小説を書かれていたからね。問題は私がどう思うかじゃなくて、銀行がどう思うかや」

 私は次長を見つめた。先程の七瀬とのやり取りもあり、目線は胸にいった。呼吸にあわせて、かすかに小ぶりな胸が上下している。胸は小さいけれど、かたちはきれいだし、感じやすそうだ。胸の前では両手が組まれていて、その左手の薬指にはしっかりと指輪がつけられていた。最近は年収が高い女性がモテるらしい。次長みいな優良物件を、世の中の男性は放っておくわけがない。

「はあ。もう、転職しようかな……」

 私がため息まじりに言うと、次長は鼻で笑った。

「会社でもおこしたら? 投資するよ」
「そんな柄じゃないです。銀行に入ってすぐに、自己肯定感はズタズタにされましたから。だいたい次長、そんなに金ないでしょう」

 銀行員といっても会社員だ。支店長クラスで年収一三〇〇万円で、そこから税金が抜かれるし、定年が早いので、知れている。

次長は不敵な笑みを浮かべた。

「私には四十億の遺産がある」
「は?」
「税金で一割くらいは持って行かれたけど、それでも三十八億程度は残っている」
「どういうことですか? 次長の実家、関西の個人商店でしたよね?」
「過去に担当していた会長、あのエロジジイが『お世話になった銀行員さんに』って四十億を相続してくれたんや。それが私やった」

あの噂は、青木次長だったのだ。

「でも次長には、ご家族がいるじゃないですか。私より、彼らに使うべきでしょう」
「大金を手に入れると、何もかもが狂い出す」

 次長はうつろな視線で外を見た。そこには全て持っているはずの者の、虚しさと、やるせなさが漂っていた。

「夫は私が大金を手に入れたと知って、まず何をしたと思う?」
「不動産投資ですか? 次長の旦那さんも銀行員ですし」
「違うよ。美容整形だ。あいつは顔をいじって、俗に言うイケメンになった。私は滅多に家に帰ってこない。あいつは私の分のベッドを、『俺の隣にいるべき誰かのベッド』として、使い始めたんや」

 正直、自業自得のような気もしていた。ほったらかしにされたパートナーが、美貌を手に入れたら、やることなんて一つだ。ましてやアスペルガー症候群の配偶者なんていたら、家にいても気が休まらない。共感をしてもらえず、常に気を張って生きることになるからだ。誰もが溺愛されたいと思っている。それが手に入れることができないなら、他に行くのが道理だ。
 次長は窓の外を見た。天気予報は外れ、雨が降り始めていた。

「ただの不倫ならまだ良かった。でも、あいつは他にも色々なものを欲しがり始めた。銀行の現金を数えるクソみたいなジョブじゃなくて、もっと承認欲求を満たされるワークをしたがった」
「賄賂を使って、出世したんですか?」
「あぁ。そして、副支店まで上り詰めた。あと一歩で支店長やったのに、ポカしたんや。支店長と不倫した」

 次長は一枚の写真を私によこした。それは見覚えのある男女が、ラブホテルから出てくる写真だった。

「初めに支店長室で男性が首を吊っているの見たとき、彼が支店長だと思いました」
「ダイバーシティやからね、今は女性の支店長も増えてきてる。二人とも中性的な名前やから、分かりにくいけどな。私の旦那は副支店長の方や」

 次長曰く、旦那さんは昇格したことを喜んでくれていたのに、いつしか自分も出世してモテたいと思うようになったらしい。遺言が入ったので、子どもに寄付金を積んで、実力ではまず受かりそうにない中学にねじ込もうとしているとのことだった。

 お金で解決できるものに、怖いものはない。そうして悲しいかな、この資本主義社会では、お金を手にしていれば、大体のことは解決できるのだ。しかし、たった一つ手にできないもの。それは愛だった。

「二人の写真を撮ったのは、次長だったんですね」
「あぁ。二人で駆け落ちしようなんて話が始まったからね。私をモラハラで訴えるつもりらしい。どうして人間って際限なく物を欲しがるんだろうな」
「私と七瀬のホテルの写真を撮ったのも、次長ですか?」
「それは違う。たぶん夫やろ。私の撮った写真と、交換条件にするつもりなんやと思う」

 時刻を見ると、二十時を十分過ぎていた。「黒川さんと話してたから、遅刻やな」と苦笑いしながら、席を立った。

「じゃ、行ってくるわ」
「私は行かなくて良いんですか?」
「必要ない。ホテルで話そうかと思ったけど、もう話せたし。黒川さんを呼んだのは、そうすれば私が断りにくいと思ったからやろ」

 私が無言でいると、彼はやれやれと言った様子で首を振り、テーブルに五千円札を置いた。明らかにもらいすぎだ。しかし私が言う前に、次長は足早に店を出て行った。

 人は最善の道を選ぶことができない。それでも何とかしてマシな道へ、チューニングしていくしかない。私は店からホテルを眺めた。道路を挟んで裏側に入口があるため、入っていく様子は見えない。雨音は強く、ただでさえ視界が悪い。その時、スマホの着信がなった。七瀬だ。

「黒川調査役、今から飲みません?」
「女の子といたんじゃなかったの?」
「ちょっと違ったんですよね。加工しすぎて、実物は全く違いましたよ。僕も名前も職業も変えてるから、他人のことを言えませんが……」

 彼の言葉はほとんど耳に入ってこなかった。ラブホテルが爆発したのだ。

 轟音とともに、火の手が上がっている。外は騒がしく、非常階段から次々と人が下りてきていた。意外にもカップルだけではなくて、女性同士や、いかにも観光客と言った外国人たちもいた。

 彼らの中から次長と支店長と副支店長を探そうと凝視していると、思いもよらない人物が見えた。彼女はゆったりを歩き、なんと銀行で着ていたのと同じ清掃員の服を着ていた。彼女は私と目が遭った。気のせいかもしれないが、あの時のように、鼻歌を歌っている気がした。

 七瀬はまだ電話越しに何かを話している。ねえ、と私は言った。

「待ち合わせ場所だったホテルが爆発した」
「はぁ!?」
「いいよ、飲もう。目黒駅に来てくれない? 今日は一人で過ごすの、きついんだ」

 電話の向こうから、息を飲む音が聞こえた。

「珍しいですね。黒川調査役がそんな弱音を吐くなんて」

 私は別に、強いわけじゃない。そう見せているだけだ。しかし、そうやって鎧をまとい続けていると、どっちが本体だかわからなくなる。

 七瀬と合流したのは、爆発の起きたホテルから少し離れた、坂の中腹にある、隠れ家のような居酒屋だった。そこで次長と連絡がつくまで待ち、一部始終を聞かされた頃には、日付が変わっていた。
 次長との通話を切ると、向かいに座る七瀬は、待ち切れないといった様子で私を見ていた。

「次長も旦那さんも、不倫相手の副支店長も、みんな無事だって。次長が彼らを救出したらしいよ」
「あの爆発を起こしたの、青木次長だったんですか?」
「いや。支店長だったらしい。首を吊っても死ねなかったから、心中するつもりだったんだってさ」

 喫茶店から見えた清掃員のことは、話さないでおいた。世の中には知らなくても良いことの方が多い。彼には素敵な思い出で頭を一杯にして欲しかった。小さい頃に、もう充分に辛い思いはしたはずだから。私は言った。

 次長は旦那さんと、仲直りをしたらしい。『死ぬことを考えたら、もう二度と会えないと考えたら、私はあの人に何も優しくしてあげられなかったことに気が付いた』と言っていた。雨降って、地固まったわけだ。

 金は生きていくのに必要だ。でも、それだけが人生じゃない。金は人を狂わせる。地に足をつけて、美味しいパン屋を見つけたとか、いいマッサージを見つけたとか、小さな幸せを拾っていく方が、身の丈に合っているのかもしれない。

 私は「ちょっとトイレ」と断り、席を立った。七瀬はスマホを見ていることを確認して、店の外に出た。そこには、ハッとするほど美しい女性が立っていた。勤務中と違い、私服だった。ギャルのような服装をしているが、若さもあいまって似合っている。彼女に声をかけると、うんざりした様子で言った。

「何? 人と待ち合わせしてるから、話しかけてこないで」
「彼は来ませんよ。私と飲んでいるから」
「はぁ?」
「彼にはマッチングアプリを使って、貴女を呼び出してもらったんです」
「あんた、誰? こんな時間に呼び出して、何様のつもり?」
「法人リテール・リスク統括部様ですよ。清掃員でない姿で会うのは、二度目ですね。職権を乱用して、貴女の個人情報と電話番号を調べさせてもらいました。大丈夫、すぐに終わります」

 彼女は私を見つめた。腕を組み、ため息をついた。しかし先ほどまでのトゲトゲしい雰囲気は、幾分か和らいでいた。

「あそこの部署にいるなら、分かってるでしょ。あたしは青木さん……今は青木次長か、とにかく彼女に言われてやっただけよ」
「店の調査と、私とパソコンの調査ですね」
「そう。あんたが副支店長、つまり青木さんの旦那さんに買収されてないか、気にしてたからね」

 次長は二重でリスクを管理していたわけだ。金があれば、行員を買収して、清掃員の格好をさせて、調査をさせるなんて、容易いことなのだろう。

「支店長を自殺に見せかけて、クローゼットに釣りしたのも貴女ですか?」
「そんなこと、するわけないでしょ。あの人が自分でやったのよ」
「ラブホテルの爆発は?」
「支店長は爆弾を前から仕込んでいたみたいだから、あたしも知らなかったわ。あたしは次長から二人を監視するように言われて、中にいただけ。青木さんが二人を助けたから、彼女に華を持たせて、あたしは退散したの」

 彼女は「もう話は終わった」と言わんばかりに、スマホを見始めた。こちらとしても、これ以上引き止める理由はない。別れの言葉を口にして店に戻ろうとすると、「あ、そうそう」と彼女に言われた。

「あの小説、青木さん以外にもう一人、送っておいたから。楽しみにしてて。そろそろ彼も読んでいるはずよ」

 最悪だ。「真夜中に呼び出されたんだから、これくらい遊んでもいいわよね?」という声を最後まで聞かず、私は店に飛び込んだ。

 テーブルでは、七瀬がお会計を頼んでいた。

「遅かったですね。そのまま帰っちゃったのかと思いましたよ」
「そんなわけないよ。あと、おとり捜査ありがとうね。うまくいったよ」

 タイミング良く、店員が伝票を持ってきて「テーブル会計です」と告げた。私はカードを出しながら、言った。

「……お願いだから、ぜんぶ忘れて。じゃあ、帰ろうか。タクシー代、出すよ」

 ちょうど次長からもらった五千円札のことを思い出していた。すると、彼が制してきた。

「お会計、僕が持ちますよ」
「いや、良いよ。ここまで突き合せちゃったし」
「あんなの読んだら、払わないわけいかないじゃないですか」
「どんなの?」

 これですよ、と彼は小説を見せてきた。紛れもない、私の書いた、カスみたいなエロ小説だ。しかし、相手の名前だけが変換されていた。それは青木次長ではなく、七瀬になっていた。

 結果として彼が支払い、二人で居酒屋をあとにした。

「小指を絡めるのが合図、でしたっけ?」
「ごめん、嫌な思いさせたよね」

 彼の小指が私の小指に、少しだけ触れた。彼は笑っていた。次長からもらった五千円札を、別の用途で使うことになりそうだ。深夜の目黒では、土砂降りの雨はあがり、黒曜石のように澄んだ空が広がっていた。

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