子どもと引き離された親たちの手記#02

以下はTwitter名papi-bushi(@bushi-papi)さんの離婚から連れ去りまでのエピソードです。
このエピソードの詳細や、この後更に元妻が強行した「子の連れ去り」、それにまつわる訴訟記録は彼のnoteをご覧ください。


私は、1976年生まれの46歳です。
埼玉県出身で、所沢市の県立高校に通い、都内の大学を卒業しました。

卒業後は国の独立行政法人に就職しました。受験戦争、就職氷河期と言われた時代でした。
私が就職した職場での仕事は、多業種に渡る仕事がありました。もともと3つの法人が一つに合併し、さらにそこに新規事業も立ち上げているものですから仕事は本当に多岐に渡りました。部署間の人事異動があるとまるで転職したぐらい仕事内容が変わるので苦労をした覚えがあります。

妻との出会いは職場でした。といっても職場内恋愛ではありません。職場に来ていた生命保険の営業さんでした。慣れない営業先で困っている彼女に総務担当だった私が声を掛けたのがきっかけだったと思います。私は生命保険には用がありませんでしたが、ちょうど自動車の買い替えを予定していた事から車の任意保険について彼女にお願いをしました。そのうち仲良くなって結婚となりました。彼女はシングルマザーで男の子がいたのですが、その子に気に入って貰えたことから結婚の話になるようになりました。結婚後はさらに2人の子をもうけました。

仕事が非常に忙しく、残業や休日出勤が多かったです。都内で暮らしていたころはまだ早く帰れたのですが、埼玉の実家近くに引っ越してからは、家に帰っても家族はもう寝ており、朝起きて仕事に行くときも家族はまだ寝ているというのが常でした。

離婚は妻からの要望が一番の大きな理由でした。結婚は平成15年でしたが、2008年(平成20年)に「別居」「離婚」という言葉が彼女の口から出るようになりました。当時私は2008年北京五輪のサポートをしていましたから非常に多忙で、その中で言われたので非常に記憶に残っています。
「離婚の原因、主たる動機は何か?」
私は不思議に思いました。もともと結婚当初は東京都北区に住んでいたのですが、私の仕事が忙しい事を承知で私の通勤事情を悪くするような引っ越し(東京都北区から埼玉県入間市)を望んだのは妻ですし、当時、私が家に帰って家事育児ができなくなることは十分に想定できたので、外で稼いでくる私と家で育児家事をする妻という役割分担をするはずでした。それもまた妻の要望でした。私は妻の要望を全部叶えていたのに離婚…?
彼女の離婚動機は説明に非常に苦しいもので、「育児ストレス」と言っていました。
ただ離婚して、シングルマザーになれば一般的には育児のストレスは増える事はあっても減る事はありません。全く持って整合性の取れない話でしたが、当時の私は妻を論破する、口論することよりも夫婦仲を改善することを目指しました。
長男は当時小学校6年生くらいでしたが、二男はまだまだ幼稚園児。長男に二度も両親の離婚を経験させたくありませんでしたし、幼い二男には両親が必要だと考えたからです。
離婚を避けるために妻の不満解消や要望を聞くことにしました。職場にもお願いして仕事の量を減らして貰ったりしました(当然出世コースからは外れます)。
妻の願いは「三人目の子どもが欲しい」でした。「育児ストレス」が大きいのに3人目??という疑問があったのですが、応じて貰えないなら離婚してでも新たに相手を探すとまで言うものですから断る選択はありませんでした。彼女はどうしても女の子が欲しかったそうですが、生まれてくるのが男児だろうが女児だろうが最後と約束して3人目に応じました。生まれてきたのは男児、三男でした。どうしても女の子が欲しかった妻は三男が3歳くらいになるまで女装して育てていました。

もう一つの願いは、当時住んでいた賃貸マンションのご近所さんに嫌気がさしていたので、子が転校しないで済む範囲での引っ越しでした。また、4人暮らしを想定していた家でしたから5人でも問題なく暮らせる広い家に引っ越す必要がありました。そこで彼女の望む物件への引っ越しを決めました。私はそのためにわざわざ駅から遠くなる場所にマンションを購入し、引っ越しをすることになりました。朝はせめて妻も早起きして朝食の用意をしてくれるのというのが家を買うときの約束だったのですが、1か月くらいしか約束は守られませんでした。彼女はいつだって約束をして自分の要望が叶えば、自分の義務は放棄する人でした。
家族が5人になったことで当時まだ現役で乗る事ができていた4人乗りの車も捨てて7人乗りの車に乗り換えました。こうして妻の願いを叶え、もう二度と「離婚」「別居」などは考えないというのが2人で交わした約束でした…。

仕事が忙しい事、通勤時間が長い(片道2時間)、家で子どもと過す時間が少ない事が当時の大きなストレスでした。でも一家の収入を支える大黒柱である以上、辞めるわけにも転職するわけにもいきません。副業や投資を模索したりもしていました。今でいうFIREを目指していたわけです。
せめて週末はこどもたちとの時間をとるようにして、運動会や授業参観などは皆勤賞で出席をしていました。キャンプや旅行などにもたくさん出掛けました。当然、婚外恋愛なども私はしていませんでした。若い頃はそれなりにそんな誘いもありましたが、妻を裏切るつもりにはなれなかったです。
当時の“子らの主たる監護者”は裁判所基準でいえば確かに元妻でした。私は自らが望んでいたわけではありませんが、仕事に追われ、平日は休暇を取れなければほぼ家族と顔を合わせる事もできないくらいでした。
そんな中、2012~2013年頃でしょうか、再度妻から「離婚」「別居」という言葉が出るようになりました。前回よりも彼女の姿勢は強硬でした。
私は全く府に落ちませんでした。「何故??」
原因のひとつは彼女がシングルマザー時代に非常に環境に恵まれ、自由な暮らしをしていた事でした。母親の持つ賃貸併用住宅の店子として入居し、親のサポートがないひとり親として行政に申請をして多くのサポートを得ながら、家賃を母親に免除してもらったり、生活費を親にみて貰ったり、子の面倒を母親に頼む一方で自由恋愛を楽しんでいたので、その頃の方が自由で我慢のない暮らしだったようです。東京都のひとり親に対する子育て支援は本当に手厚いですからひとり親になった方が楽というモラルハザードが起きていました。
さらに彼女の友人に「結婚→出産→不倫→離婚→再婚→妊娠→出産→不倫→離婚」という具合に出産と離婚を繰り返している人がいました。彼女は本来どちらの結婚でも有責配偶者なのですが、その事を上手に隠して相手を有責扱いにしていたので、離婚の度に慰謝料を、子どもがいるのでその子ごとに養育費を貰って裕福な暮らしをしていました。その女友達と接触した後に「離婚」という話が出たので、色々と触発されたのかなあと思います。
私は、もう二度と離婚や別居という話をしないという約束を破られた憤りから妻に対して呆れる気持ちが大きくなりました。でも今度は3人の子どもがいて、しかも三男は生まれたばかりの乳幼児でしたからやはりそれでも離婚に賛成はできません。
なんとか妻をなだめながらも生活をしていましたが、ふと妻の挙動が怪しかった事から初めて妻の「浮気」「不倫」を疑うようになりました。全く疑っていなかったのですが、まさか…?と思う事があり調査をしたところ、真っ黒でした。
その当時は相手の男の素性は限定的なところまでしか分かりませんでした。比較的裕福な暮らしをしていそうな事、東京あるいは三重県に住んでいそうな事くらいしか分かりませんでした。三重県の事務所と東京の事務所の名刺が出てきたからです。苗字もなんらかの理由で変わっていました。
不貞行為があったかどうかまでは確認ができませんでしたが、婚外にそんな男がいるというだけでもう私からの信頼が崩壊するには十分すぎるほどの事情でした。さんざん家庭を守るためにいろいろな事を犠牲にして自分の希望を曲げて我慢して毎日を暮らして来たのに、妻は家庭に対して誠実に応対しておらず、息抜きなのかも知れませんが、婚外恋愛は楽しんでいたのです。その時点で私は家出をしようとさえ思いました。私がいなくなれば、今の暮らしが崩壊するだろう、苦労するだろう、その時初めて反省するだろうと思ったのです。

しかし、週末になるといつも二男と三男が競って私の所にやってきて、「遊ぼう」と言いながら、両者がどちらが父と遊ぶのか競いながらケンカしているのです。それが本当に常でした。そんな様子を毎週見ていたら…
「この子達を置いて家出ができるのか…?」
と躊躇するようになりました。子らと私が過す時間は間違いなく子にとっても私にとってもとても大きな幸せだったのです。
子には何の罪もありません。父親としてこの家庭を守ってやることが大切な事ではないのかと考えるようになりました。
そこから先は私にとってはさらに地獄のような日々でした。私の決断は妻の浮気を知りながら、それを知らないふりをしつつ、父親として、また夫として更により頑張るというものでした。そしていつか妻が自らの行為の愚かさに気づき、家庭に振り返ってくれる日を待つというものでした。幸せの仮面を被って、苦しい胸の内をずっと隠し通す事にしたのです。妻が自分の愚かさに気づいて変わってくれるまで。

正直、妻との2人の時間は辛かったので、そこから先はより子どもと過す時間が増えました。夫婦の不和の原因の一つに妻が拒絶していたセックスがありましたが、それについてはこれまでは夫婦円満のため解消するよう努力をしていました。しかし、そこから先は「あなたが嫌ならもう強要しないよ。」と言い、セックスレスに同意したので問題ではなくなりました。仕事は相変わらず忙しかったのですが、家にいるときは子どもの幸せを一番に考えるように行動しました。以前は妻を幸せにすることがひいては子どもも幸せにすることだと思っていましたが、このあたりからどうしても子ども優先になっていたと思います。意識はしていませんでしたが、妻に対して今までより冷たいような態度があったかもしれません。
「育児疲れがあるだろうから」
と妻に話して子どもだけ連れて旅行に行ったりもしました。もう大きくなった長男はついてきませんでしたが…。
妻が不倫をしながら離婚を求められている事なんて誰にも言えず、ずっと一人で抱えていました。私と妻の二人家庭であればとっくに離婚していたことでしょう。でも子どもがいれば、両親揃っての養育環境こそが大事だと思っていたので、離婚はすべきではないと思うのです。
しかし、妻からの離婚やら別居やらの話は尽きる事はありません。頻繁にそんな話をしていたわけではありませんが、考え直すよう私から伝えても考えを変えない、平行線な話し合いが2か月に一度くらい続きました。
そんな頃、離婚と親権について私も真剣に研究を始めました。将来、最初の代理人弁護士になる先生とコンタクトを取り始めたのもこの頃です。男親が親権をとる事は非常に難しい事、離婚したら父子が引き離されてしまうだろうことを知ります。
ただ、父子が一緒に暮らしていて、母が別居している状態からの離婚であれば、子の環境を変えないためにそのまま父が監護できるような判断がされることもある事も知ります。
それでも、子どもにとっては母親との別れです。それが幸せかと聞かれればYESではないでしょう。子を連れて家出して新たな暮らしを始めればいいと知りながらもそんなことはできませんでした。妻との話し合いになんとか活路を見つけようとそれはそれは…虚しい努力を続けていました。
そんな折、妻の知り合いが妻の本音を私に教えてくれました。彼女の話を100%最初から信じたわけではありませんが、何かと整合性の取れる発言が多かったので、嘘では無さそうでした。妻は私が感じていた以上に私に対する嫌悪感が強く、
「同じ空気を吸うのも嫌だ」
と言っていたそうです。そして、そのしばらく後に妻が私と話し合いをせずに別居を画策している事を知ります。
私は深く悩みました。このまま何もしなければ妻が子を連れ去り、夫婦は離婚、子は妻の下で育てられるでしょう。果たして妻に子を任せられるか??そこが一番のネックでした。これまでの妻の不誠実を知っている私にはとても子らの養育を妻に任せる事はできません。

しかし、このまま座していては滅ぶのを待つのみ…。

「どうせ滅ぶのであれば打って出よう」

これが散々悩んだ末の結論でした。三男はまだ幼いから分別がない、長男はたとえ母親に正義がなかったとしても母親を責める事ができず、母親の悲しむ顔を見たくない優しい子でしたからまず分かり合えるとしたら二男だと思い、二男にこれまでの事を話す事にしました。
彼は長男の実父と自分の実父が別である事すら知りません。母親の浮気なんて知る由もなく、家庭は円満で何の問題もないと信じています。全部を話すのは余りにショックが大きいだろうから2回に分けて話す事とし、まずは両親が離婚の危機にある事、母親に連れて家出を唆されても応じない事を強く話しました。それだけでも十分にショックだったようです。
1週間おいて、ついでこれまでの家庭の事を話しました。母親には前夫がいること、長男はその男の子である事、長男が次男である君に対して攻撃的なのは自分が私と血のつながりがなく、貴方に嫉妬してしまうからであることなどを話しました。ショックを受けていましたが、長男の気持ちについても少し整理と理解ができるようになったようでした。
話を聞いた後の二男の願いは、
「離婚しないで欲しい」
でした。これまでの事情を話してもなお、彼はやはり両親と暮らす事を願ったのです。そりゃそうだよなと思い、無駄だろうと承知ではありましたが、二男のために妻と最後の話し合いを持つことを約束しました。
もし、話し合いを持った結果、それでも妻が応じなかったどうするかまでそこで話しました。私は今の家で片道2時間掛けながら残業だらけの今の仕事と育児と家事を続ける事は不可能です。もし私が子を育てながらの離婚になるなら二男は私の職場の近くの学校に転校になるだろうという事も伝えました。二男は当時、それでもいいから母親より父親と一緒に暮らしたいと言ってくれました。
それが励みとなって私の腹は決まりました。最悪の場合離婚という結論になる事も踏まえて妻と最後の「離婚を避けるための協議」に入ったのです。
予想通り、妻との話は平行線でした。そこでも私は彼女の婚外恋愛については触れませんでしたが、彼女は子どもを自分の所有物のように考えており、育児は自分の方針だけでやりたいようで、話し合うとか私の意見も取り入れるとかそういう事がもう嫌なようでした。
話し合いは物別れに終わりました。これが2014年(平成26年)12月の事です。これまでの経緯を考えれば、妻が離婚を望み続け、セックスレスに悩み、婚外恋愛を知り…それでもよく頑張ってきたと思います。

私は次男に話し合いが物別れに終わった事を伝えました。とても悲しそうな彼を見るのは辛かったので、せめて最後にもう一度チャンスを作ろうと思いました。
それは次男と三男と私で家出をして、妻に対してショック療法を試してみようという事です。長男にも声を掛けたかったのですが、彼は母親に対して隠し事はできないでしょうから声を掛けられませんでした。ここは本当に辛いところでした。人生に選択はたくさんありますが、長男に声を掛けるかどうかは本当に最後までどうして良いか分からず悩み抜いたところでした。いまでもどうしたら良かったのか分かりません。
職場の上司にも離婚の可能性があること、離婚したら引っ越しになる事、離婚手続きなどのため仕事始めはお休みになるだろうことなどを伝え、年末年始休暇に入りました。家出の先は叔父の家です。二男と三男を連れ、家出をしました。
「妻から子を心配するような連絡が来るだろうな」
と思いながら車を走らせていました。普段なら夕方には帰るはずの我が子が夜になっても帰らないのです。しかも夫もです。当然心配するだろうと思いましたが、一切連絡はなく、子ども達と不思議に思っていました。私に連絡をせずに警察に捜索願いでも出されたら話が大きくなると思い、私から「家出をした事」、「家出をしたのは妻に家庭の事、子どものことなどを再考して欲しいからであること」などを伝えましたが、妻からは私が二男三男を連れて家出しているにも関わらず、別れを告げる返信があったのみでした。
冬休みを叔父の家で過ごし、年を越しても妻から子を心配するような連絡はありません。もしこのまま別居・離婚をするなら新しい学校に転校の手続などをする必要が出てきますので、時間がありません。
私から妻に連絡をしてこれからの事をどう考えているかなどを聞きました。
そして離婚が良いのか否かを皆で話し合う親族会議が1月3日に持たれました。そこでは妻は
「自由と我慢のない暮らしを求めて離婚がしたい」
と主張し、神にも仏にも亡くなった自分の父や私の母に誓って浮気などはしていないと主張しました。
そこで私から
「本当に隠し事はありませんか?」
と尋ねると…しぶしぶ男の話が出てきました。それもこちらがどこまで知っているのか探りながらできるだけ情報を出さないように渋りながら話す様子でした。
男は妻の親戚で私と知り合う前からの付き合いである事、不倫関係からスタートした仲で頻繁には会っていない事などを彼女は語りました。妻は以前にも別に異性関係に問題があり、私と付き合うようになってから1度、結婚してから1度携帯の連絡先を変えています。つまり、彼女からその男にその都度変えたはずの携帯の連絡先を伝えていたのです。
妻に反省の気持ちが無い事は明らかでした。もし彼女の婚外恋愛が主たる理由で別れるのであれば、それが判明した数年前に私は家出や離婚をしていました。しかし、それらを知りながら踏みとどまったのは子らのためでした。ところが彼女が離婚をしたいと言う理由には子どもの事情は一切考慮に入っていませんでした。彼女の自己弁護を聞きながらやはり子どもの事は任せられないな、離婚はやむなしだなと私は自分の心の中で決意を固めて行きました。
そこで私にとっては予想外の事が起きました。離婚すべきか否か、離婚した場合、どちらが幼い子らの親権者となるかなどの話し合いをしている頃、妻の連れ子であった長男が
「両親は離婚して、弟たちはお父さんと暮らすのが幸せだと思う」
と。
 私は彼の口からそんな発言が出るとは想定していなかったので本当に驚きました。幼い子供たちの幸せを考えていたのは妻よりも血のつながりが半分しかない長男だったのです。長男は私が思っていたよりも人として大きく成長していました。
この長男の発言がきっかけで離婚、親権者が父親ということがこの親族会議の大方の同意を得て結論となります。二男もそれに「賛成」と言いました。妻とその母親は不満そうでしたが、会議において全員の合意を取り付けることはなかなか困難です。わがままを繰り返す妻の意見は皆に否定され続けました。
ただ妻は、離婚しても二男の転校をさけるために当時の家に残って暮らして欲しいと強く意見しました。とてもじゃないが育児と家事と仕事が両立できるとは思いませんが、確かに次男にとっては転校するよりも今の学校に残れた方が幸せでしょう。そこは私ができるところまでとりあえず頑張ってみるか…という話になっていました。
会議を終えた後にまた叔父の家に戻り、結果を報告。2人の子どもに食事を与えて疲れた体を休めようとしましたが、妻から話し合いに対する不平不満、改めて離婚訴訟を起こすような連絡が来ます。こうなると更に争いを重ねて争いを先鋭化させなければなりません。
離婚が正式に決まるまでは妻がどんなことをしてくるか分かりませんから子らを守ってもらうために叔父の家から子らを出すこともできません。彼女が離婚訴訟を起こすのであれば、私は子らを守るために今までの家を捨てて、叔父の家に身を寄せなくてはならないのです。妻は自身が攻撃的になればなるほどこちらも防衛のために妻を遠ざけるようになることを分かっていないのです。
翌4日、急に妻が態度を改め、謝罪をしたいから改めて昨日のメンバーを集めて欲しいと言い出します。そこでは昨日と一転してこれまでの不誠実を涙ながらに詫びる妻の姿がありました。そこに妻の母親は参加していませんでしたが、私は別に参加を禁止していませんので、妻が呼ばなかったのか、妻の母親が参加できなかっただけかどちらかでしょう。
結婚生活の期間、ずっと婚外に男がいた事、セックスレスを強要した事、いつも私との約束を蔑ろにしてきたことなどを彼女は土下座して涙ながらに詫びましたが、私は彼女を哀れに思う事はあっても、再度信用しようとは思えませんでした。彼女が失った信頼はたとえ泣いてみせても土下座してみせてもたった1日で回復するものではなかったのです。
「涙を拭いて」「土下座はやめてきちんと座って話そう」などと伝えながら私は
「あなたの気持ちはわかったけれど、そう簡単に信頼は戻らないよ」と伝え、覆水盆に返らずと妻に話します。あまりに悲しむ元妻の姿をみて、私の父親から
「どうしても諦めきれないなら反省を示して、信頼を取り戻してから改めて再婚の話をしたらいいじゃない」
という話が出ました。これは全くの父親の私見で私の意思ではないのですが、彼なりに彼女を哀れに思って出た発言だったのでしょう。この後、裁判ではこの発言を逆手にとって恩を仇で返すような形で元妻たちの主張にこの発言は利用されていきます。

こうして離婚が決まり、2人の親権者は父となりました。長男は既に18歳で自立が可能な歳であったこと、本人が
「悪いのはお母さんだけど、お母さんが一人きりになってしまうのは可哀そうだから僕が一緒にいる」と決めたことから母親が親権者となりました。

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