早く歳とって孤独死するのが楽しみ!【25卒弱男の将来設計】

 私は多分恋人なんてできないし、結婚ははなからしたいと思ったことすらないから、死ぬとしたら孤独死になると思う。
 別に悲観的になることはない。個人的には理想的な死に方だと思う。理由は追々説明するとして……。

 私は来年から社会人のSEとして働くことになる。
 父母が、
「やっぱり最初は一般企業勤めてほしい。バイトなんていつでもできるんだから」
と、言うから、親孝行も兼ねてまずは普通に就職をすることに決めた。
 私は無能だから単純作業系のバイトしかできないんだよなあ、とか思いながら3月末から適当に就活を始めた。
 私は今やっているベルトコンベアに荷物を流すだけのバイトをとても気に入っていた。これなら私でもできる、これが私の天職だ、と思っている。コミュニケーションも最低限でいいのも魅力的。

 そんな私は一先ずIT業界に絞ることにした。業種絞った方が就活しやすいから。
 ITって何となく人とのコミュニケーション少なそうだし、最初は大変でも慣れれば単純作業的な感じな気がして。
 でも説明会を受けていくと私のそれらの認識は間違っていたのだと気付かされた。
 どうやらコミュニケーション能力は必要らしいし、座ってパソコンぽちぽちしてればいいだけでもなさそうで、さらにシステム開発はチームで行うことが原則。どこの企業も大体そんな感じ。

 でも私は忍耐強さだけは人並みにあるから、とりあえず入っちゃえば何とかなるだろうとの思いで、頑張って就活を続けた。
 面接というのは意外に簡単だ。コミュ障でも対策さえすれば何とかなるから。
 自己紹介、自己PR、志望動機、就活の軸、長所短所、学生時代取り組んだこと、失敗体験、最近興味を持ったニュースとか色々聞かれるけど、逆にそういう同じようなことしか聞かれないから、あらかじめ回答を考えておいてそれを適切な質問をされたタイミングで言うだけでいい。
 こんなの中学の時の、国語の授業で竹取物語の序文を暗誦させられたりしたのと対して変わらない。

 正直かなり盛ったところもあったし、企業研究をしっかりして、その企業が求めるであろう人材になりきって内定だけを一直線で確保しにいったかたちだ。
 そうして色々ありつつも1ヶ月もせずに1つ内定ゲットしたので、すぐ就活を辞めた。とても解放された心地だった。

 でもすぐに不安が襲ってきた。大学ちゃんと卒業できなかったらどうしよう。
 単位はギリギリ足りる。でも春学期までではほんの少し取りきれないから秋学期までかかる。それが不安だし、最後の最後まで授業受けなきゃいけないのがしんどい。
 でもそれ以上に卒論なんて大層なものが私にかけるのか。テーマは決まったけど書くのが果てしなく難しいように感じる。
 卒論指導はしっかり出席してるし、最終的にはなんとかなるとは思うけど、だるい、しんどい。それくらいしか口から出てこないんだ。

 内定先の企業から、春までには基本情報技術者の資格を取っとけと連絡があったのでその勉強もしなくちゃならない。
 この資格、取ろうとしたけどB試験の長文問題が大変そうだったからやめたんだよな。
 就活時は、代わりにITパスポートとかいうクソ簡単な資格を既に取っていたから、ITの勉強してますよという体裁はなんとか貫けた。
 でも、結局は基本情報を取らなきゃいけないとは……。頑張るぞい。



 社会人になったら、一先ず5年はこの会社で頑張ろうと思っている。5年も働けば最低でも1000万は貯まる。実家暮らしならね。
 私なんかを取ってくれた良い会社だから、できる限り迷惑はかけたくない。だから一生懸命頑張ろうと思う。コミュニケーションも不器用ながらも試行錯誤していく。なんだかんだ、誰かから必要とされるのは嬉しいだろうし。
 こづかい万歳という漫画に出てくる会社推しの人みたいな感じが理想形かな。……あれくらい振り切れなきゃ、私みたいな根っからの社不人間は社会人続けるのきついと思うんだよね。

 最大でも働くのは10年かな。業務の引き継ぎとか色々加味した上で私は仕事を辞めるだろう。いわゆるセミリタイアだ。
 正直、独身+物欲なし+セミリタイアなら1000万くらいあればこと足りるように思う。当たり前だが車や家を買う気はない。
 仕事を辞めて、しばらくはニートして、数ヶ月したらバイトを探す。もちろん単純作業系のバイトだ。
 今のような流通センターもいいけど、清掃とかもやってみたいんだよな。

 30代からは週3回でバイトをしながら、私は本当にやりたかったことを再びやっていこうと思う。
 それは側から見ればしょうもないことかもしれないけど。
 自分の思っていることをSNSで呟いたり、ゲームしたり、ブログ書いたり、楽曲制作、オリジナルゲーム制作、人類絶滅運動などなど。

 私にとって特に重要なのはやはり文章を書くこと。自分の思想を体系立てていくこと。
 それによって、何か、誰かに影響を与えたい。  
 別に人を救いたいとか、そんな大層なことではなくて。……もちろん共同体感覚として、こんな地獄のような世界に生まれ落ちてしまう子供を少しでも減らしたいという気持ちはあるけれど。
 ただ、自分がどれだけの存在なのかを確かめたいんだ。成功したいというのとは少し違う。ただやれるだけやりたいという感じ。

何が正しくて、何が間違っているんだ
僕はただここで生きていると叫びたいだけ

『ヘンタイ・プリズン』「ILLEXECUTION」より引用

 私が好きなエロゲのOPを引用したけど、正にこれなんだよね。
 自分の全てを解き放って、キチゲ解放したい。結局はただのオ◯ニーなのかな。
 その辺に関しては追々考えをまとめるとして、そもそも30代でそんなに熱い熱量でもって何かを訴えることなんてできるか、という問題はあるだろう。
 しかし、それに関しては全く心配ないと思う。私には伝えたいものがしっかりとある。私はひょっとしたら思想家として名を残すことになるかもしれない、なんて時々考える。

 それに歳をとったくらいで薄れてしまうぐらいの思いなら、無理して誰かに伝える必要なんてないんだと思う。
 あと、10代や20代前半が「彼女欲しい。脳内彼女がー。宇宙がー」とか言ってても若いからギリ許されるだろう。
 しかし30代で彼女いない歴=年齢が言ってたら普通にやばい。やばいということはある意味面白いということだから、むしろ青くさい主張というのは歳をとってからした方がインプレッションを稼ぐにはいいんじゃないかって思うんだ。
 例を挙げればカツドンチャンネルとか。私はカツドンさん面白くて大好きだ。異常性は武器なんだよなー。

 まあそんなふうに、とにかく人生という暇つぶし期間を自由に楽しく過ごしたい。
 バイトに疲れたら辞めて、しばらく休む。貯蓄があるんだから可能だ。そうして気が向いたらまた働く。そんなことを繰り返す。
 そんなんせずとも本書いたりブログ収益だけで生活できるようになってるかもしれないけどね。でも希望を持ちすぎると叶わなかった時にダメージがでかいから、ほどほど〜に期待しよう。
 それに結局、夢や理想って追っている時が一番楽しいような気がするから、ほんとに楽しければ何でもいいよ。



 私は、自分のことをなんだかんだで"生きるのが上手い人間"だと自負している。
 これまで辛いことはなるべく避けて、避けられない場合はそれが最小の苦痛で済むように生きてきたつもりだ。
 生きる上で大切な能力、それは諦観力。私はそれが高い。だから劇的な悲しみや妬み嫉みに必要以上に呑まれず生きていける。……考えろって、期待したら裏切られるべや。 

 また前回のブログでも語った通り、この私自身が幸せになれたとして、そんなことに何の価値があるの? と思ってしまう。
私という一個体が幸せになれても、依然としてこの世界には不幸が存在し続ける。むしろ幸福が存在することで不幸が相対的に現れてくる。
 ルサンチマン的な考えのもと私は叫ぶ。
「私は人生をより良くしたいなんて思わない。自由に選び取りたい。人間には不幸になる自由がある。ニヒリストとして生きる権利がある。それを矯正する資格は誰にもない」 

 したがって、ニーチェの超人思想、特に"より良く生きいく"とか"人生を創造的に展開する"みたいなところはどうもしっくりこない。
 私は中原岬ちゃんみたいな彼女が欲しいけど、その一方でそういう願望全てを完全放棄しているから、決して何も持たない弱者男性30代という現状になっても悲嘆することはないと確信している。

 むしろそれを楽しめる。そうなったら、その自分の感情を文章化して面白おかしく掲載するつもりだ。
 私は自分自身をある種実験台のように考えている。"人は弱男ゆえに恋愛ができないとどうなってしまうのか。何を感じ何を思うのか。"
 それは私に彼女ができてしまったら知ることができないことだ。



 50過ぎて、だんだんと身体も衰えてくれば、若い時のようには無理は効かなくなるだろう。
 そうなってもなお、私は脳内彼女と会話なんかをしているのだろうか。していたとしたら脳内彼女との問答に今と変化はあるのだろうか。どのような感情を発露しながら生きているだろうか。私、気になります!
 50過ぎても反出生主義的思考は変わらないのか、親が死んだら何を思うのか。遺産相続でどのくらい貰えるのか。
 そういうことを私は全部文章としてルポライティング的にお届けしたい。記録として、私の人生全てを残したい。それが生きた証だからだ。

 50歳になっても最新のゲームについていけるのか。孤独を感じるのか、感じないのか。
 ちなみに私は人恋しいとか寂しいとか、そういった感情を物心ついてから感じたことがない。よく分からない。
 人と関わるのは疲れる。コミュ力が低いから会話が嫌いだ。1人の世界に引きこもっていた方が楽だし、それで私は満足できる。そういうシゾイド的な性格を強く持っている人間だ。
 それは歳をとっても変わらないものなのだろうか。

「独身の50代は漏れなく狂う。孤独には耐えられない」
というようなTwitterの意見に対して、絶対そんなことないと思うけどな、といつも思う。
 少なくとも私は、絶対孤独で狂わない自信がある。

 人それぞれだよ。1人が本当に好きな人と、適度に人と一緒に居たい人がいて、後者の場合は孤独で苦しむんだろうね。
 自らによって検証しようと思う。本当に人は孤独に耐えられないのかって。
 自分が50代になった時にどのようになっているか楽しみだ。それだけで生きてみる価値がある。

「老いるまでは分からない、老いてからの寂しさは想像以上。」
 その寂しさというやつを俺は経験してみたいよ。老いて孤独になるのが楽しみだなあ。それすらも感情という娯楽じゃん。
 最後、孤独死する時、私は自らの半生について何を思うのだろう。どんな感覚なのだろう。できればこれも文章として残したいな。無理だったら仕方ないけど。

 空腹や疾患による痛みすら娯楽になりうるだろう。精神統一のために長時間坐禅をしているとふとそう思う。
 空腹や身体の痛み、それに意識に向けて外界からの刺激をシャットダウンする喜びがあることを私は知っている。
 だから私は1人でじっと痛みに耐えることは人よりも得意だ。そう考えると、誰かに看取られたりすることは逆に自分のペースが崩れるし、自分の内面と真剣に向き合う時間が削がれるから、個人的に孤独死こそ望ましい死に方だと思う。



 長々と語ってしまったが分かっていただけただろうか。なぜか孤独死にネガティブなイメージが強くて私はどうしても違和感があったからこの記事を書こうと思った。
 でもそこから派生して自分の人生のことをあれこれ書いてしまった。でも個人的には現在の自分自身をより客観視できたので良かった。
 明日は大学に行かなければならないのにもう午前5時だ。文章を書くのは楽しい。楽しいけど、私は文章を書くのが遅い。この文章に約7時間もかかってる。
 言語化能力が根本的に低いんだよな。私って緊張で人と話せないんじゃなくて、ナチュラルに言葉が出てこないタイプの人間なんだよ。そりゃ人と関わりたくないよね。

 あ、もう一つ孤独死のメリットあった。
 単純に、80年も100年も生きたくない。65年くらいでいいよ。持病で気を失って助けも来ないままひっそり死にたい。
 変に誰かに救急搬送されて、変に助かっちゃったら地獄。呼吸器付けられて、あんな非人道的な感じの延命されて。
 それに、いつまでも長生きするなんて社会のお荷物であって、それを支える若年層は望まないんだからさっさと死んであげるのが道徳的にも良いことだよ。誰かの介護が必要になるまで生きるなんて、それこそ恥。
 まあでも、私的には若年層の負担が増えて、それによってほんの少しでも少子化が進む方が望ましかったりはするけどねー。

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