見出し画像

ただいま

 右側には淡いブルーの瀬戸内海。うっすらと潮の香り。眩しい日差し中、自転車に乗った私は坂を下り、澄んだ風を全身にいっぱい受ける。
 この清々しさをもう一度味わいたくて、今年もこの島にやって来た。
 
 ここは尾道の向かいにある向島(むかいしま)。初めて尾道を訪れた時、頻繁に往復する船を見て、あの船に乗った向こうには、何があるのだろうと思っていた。
  好奇心が収まらず調べてみると、あの船は尾道と向島を繋ぐ渡し船で、向島では尾道よりもずっと近くに海が見られると分かり、好奇心は期待に変わった。今度は向島の海岸でぼんやりしようと決め、昨年2回目の尾道へ。

 自転車に乗って1人、県道を走る。向島には、チェーン店が並ぶ国道沿いの様な風景もあるが、すぐに海も見えてくる。街から海へと風景が切り替わるときは、目の前の扉を両手で開け、光の元に飛び出す様な気持ちになる。もっともっと光の元へ。もっともっと海の近くへ。いつの間にか、そう思いながら私は自転車を走らせていた。


 向島は今年で2回目だが、実は尾道にはもう3回来ている。3回も足を運ぶのは、行きたい古本屋があるからだ。
 深夜に開店するその古本屋に初めて行ったのは、5年以上前。「尾道に深夜開く古本屋がある」と知り、好奇心だけでその古本屋に行った。特に長々と会話するでもなく、本を1冊買って店を後にした。
  そして昨年もう一度訪ねた時、店主は私を覚えてくれていた。その驚きを伝えると、店主は「客商売ですから」と言った。その言葉以上でもなく、それ以下でもない。それだけなのがさりげなく、店主の誠実さが私に届く。ものすごく嬉しかった。
 その晩は、来店した店主の友人達と店主との会話を閉店まで聞いていた。とりとめのない話ばかりだったのに、なんて豊かな時間だったのだろう。そこは、彼らより10歳以上年上の私でも、ここに居ても良いと思えた空間だった。

 今年も深夜、シャッターの閉まった商店街をぷらぷら歩きながら、あの古本屋に向かう。今回は買い取りをお願いしたい本を数冊持ってきた。だって古本屋なのだからと思いつつ、私はあの古本屋にもっと関わりたいのだ。その思いが悟られないように、本を持ってきたりしている。しかも持ってきた本はどれもバーコードが無く、恐らく一般的な古本屋では買い取り不可になってしまうだろう本ばかり。あの古本屋なら買い取ってくれるはずと、私は甘えている。

 店に入ると、店主は驚いた顔をして迎えてくれた。2年連続でやってくるとは思っていなかったらしい。私は買い取りをお願いし、本について少し説明する。店主は笑顔で本を受け取ってくれた。そこへ昨年会った店主の友人も現れた。何も約束していなかったけど、ここに来たらきっと彼にも会えると思っていた。

 先客には、都会からやってきたであろう女の子が2人。1人はホイップクリームのように甘く可愛らしい女の子。きっとたくさんの人に愛される子だ。こんな雰囲気の女の子に出会うのは何人目だろう。1人目、2人目に出会った時、私は彼女たちに嫉妬していた。このタイプの女の子はその場を支配してしまうから嫌いだった。だけど今は可愛らしいと思える。

 買い取りのお金を受け取り、今度はどんな本を持って帰ろうかと、ぐるぐる店内を歩き回る。可愛らしい女の子と店主とその友人のおしゃべりはBGM。蝶々が花から花へふわふわ飛び、次はどこへ向かうのか。そんな風に女の子の話が、ふわふわと変わっていくのもいじらしい。
 店主とその友人は話題にはちょっと着いて行けない様子。着いて行けないながらも打つ相槌に、時々あえて「オジサン」を漂わせて、2人だけで遊んでいた。可笑しくて、もっと聞いていたくなる。会話を聞いていても、聞き耳を立てていると後ろ指を指すような視線は感じない。何も言葉を発しなくても、輪の中に入れてくれている様に勘違いしてしまう。結局会話の中に入る訳でもないのに、1時間以上滞在してしまった。
  私はこの古本屋で、今ここにいる人々に自分の存在を無視されていないと信じていられる。この信頼感がいつまでも居たいと思わせてくれるのだ。


 私の尾道は、深夜の古本屋と向島の海岸とがセットだ。1日目に古本屋に行き、2日目は海岸でぼんやりする。

 向島の海岸で過ごす2日目。今年は坂道が少し楽になる様、電動アシスト自転車を借りた。海岸へのルートは頭に入っている。途中、地元のスーパーに寄って食料を調達。このスーパーも去年寄っている。お気に入りの海岸でスーパーで買ったお昼ご飯を食べ、しばらくぼんやりする。
もっとぼんやりしたい。ああ、時間が足りない。だけど、どんなに長くぼんやりしたくても、4時半には海岸を出発する。そうしないと美味しいアイスクリーム屋さんが閉まってしまう。このアイスクリーム屋さんは、去年古本屋の店主の友人から教えてもらい、去年も行った。
 最後に行きに寄ったスーパーとは違うスーパーに寄って、夕食とお土産を購入。これも去年と全く同じだ。

 いつも1人の私の世界は恐ろしく狭い。だけど、この狭い世界は泣いたり怒ったりしながら、好奇心と勇気とこの足で切り開いてきた世界。だから私は自分のお気に入りのルーティンを繰り返す。
 尾道は私の狭い世界の中の天国。SNSのいいねが他人との繋がりの日々の中、遠く離れた地で、私の顔と名前とが一致している人がいる。私が知っている心地よい海岸と楽しいスーパーがある。ここが私に安らぎを注いでくれる。心から大切だと思える土地がある。こんなに喜ばしい事があるだろうか。

 今のところ私の尾道は、天気が良くなければならない。じゃないと海岸でぼんやりできない。去年はうっかりして、日焼けをしてしまった。今年はちゃんと日焼け止めをスプレーしていたつもりなのに、去年よりも酷く日焼けをしてしまった。
 帰ってから聞いたラジオで、砂浜は海に日差しが反射して、街にいるよりも日焼けしやすいと知った。海によく行く人には常識なのかもしれないが、私はこんなことも知らなかった。次こそは絶対に日焼けせずに帰ってきたい。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?