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ヒロイン

 今年のゴールデンウィーク、私は広島の尾道にいた。ちなみに去年もここにいた。広島に行くのは5回目。だが平和記念資料館には1回しか行っていない。しかも当時東館がリニューアル中で本館にしか行けなかった。それがずっと引っかかっており、広島に行く時は必ず「平和記念資料館には行かなくていいのか」と問いかけていた。
 5回目の広島。今年は資料館に行こうと決めた。新幹線の中で係員に行き先変更を告げる。東京から尾道に行くには、福山で降りるのが便利だ。私は「広島まで」と係員に1万円札を渡した。


 平和記念公園には、たくさん海外からの観光客がいた。原爆ドーム、広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)。皆写真を撮っていた。ここでは映えを意識したような自撮り風景は見なかった。
 私は幼い頃母に、毎年夏に放送される原爆のドキュメンタリー番組を必ず見させられていた。そんな私にとっては、原爆のキノコ雲も、人影が残った石も、皮膚が垂れ下がった人々も、お馴染みの存在。正直資料館に行っても、こんな酷いことが!という感情は湧かない。
 だが最近になって海外では、原爆の被害を知る人は多くないと知った。写真を撮る人々が国に帰ってから、ここで知った原爆についてをほんの少しでも誰かに語ってくれたらと願いつつ、私は足早に資料館に向かった。

  初めて資料館に行った時、折り鶴の少女の展示がもの凄く引っかかった。
 被爆し、白血病を発症した少女は闘病しながら生きたいと折り鶴を折り続けるという話。私達は原爆の被害を1人の健気な少女を通して知り、彼女から、原爆の残酷さと生きている今の大切さを学べる。資料館に行く前は、彼女をそういう存在と捉えていた。
 そして資料館で彼女の展示を見た時、かなりの展示スペースを割いているのに驚いた。なぜこんなにも彼女がフィーチャーされているのだ。当時同じような子供たちはたくさんいたはずだ。それなのになぜ彼女が選ばれたのか。なぜ彼女だけが「ヒロイン」になれたのか。私には彼女が「選ばれた民」に見えてしまった。

また当時すでにSNSが力を持ち、多様性が少しずつ訴えられ始めた頃で「強者」が作ってきた社会に、生きづらさを訴える人が現れていた。
 その背景もあり、あまりの展示スペースの広さから折り鶴の少女を「誰かが意図して彼女をヒロインにした」のではないか、「彼女がヒロインだと都合が良い理由」があるのではないかと勘ぐってしまったのだ。
 誤解して欲しくないが、折り鶴の少女を僻んで「なぜ彼女だけが」と思っている訳でない。だけど彼女は、確実に資料館の中の「ヒロイン」だった。
 私はSNS上でキラキラ輝く投稿をする成功した人々と、折り鶴の少女を同一視してしまっていた。

 そして今年、もう一度資料館へ行く。また彼女の展示を見るのかと、そこだけは憂鬱だった。
 薄暗い館内で以前あった展示が無くなっているのに気づく。前回よりも沢山の海外の観光客が音声ガイドを耳にしながら展示の前で立ち止まっていた。資料館や博物館にはお馴染み、飽きてしまった子供もいた。だけど彼らも騒ぐことなく、そこに佇んでいた。

 折り鶴の少女の展示は、順路の後半にあったはずだと館内を進む。今回もあの違和感を味わうのかと思いながらも私は彼女の展示を探してしまっていた。
順路を進みつつ、ある家族の崩壊の展示に釘付けになる。私にはその展示名が、日曜昼間のノンフィクション番組のように思え、下世話な関心だと自覚しながらも吸い寄せられてしまった。
 展示は被爆し後遺症を持つ人とその家族が受けた周囲の無理解と苦しみを伝えていた。そんなこともあったのかと次の展示に目をやると、そこに折り鶴の少女の展示があった。
 小さい。扱いが小さい、ものすごく小さい。しかもここは、ほぼ通路で広い展示スペースではない。あんなに大々的に展示していたのにこれだけ?彼女は同一人物?別の折り鶴の少女?どういう事?あまりの変わり様に、後で「折り鶴 少女」で名前を検索し、展示に書かれていた名前と、同じかを確認してしまった程だった。
 以前ヒロインに見えた彼女は、1人の少女になっていた。

  今改めて資料館の展示を振り返ってみると、思い出されるのは、遺品とその持ち主を淡々と展示したコーナーだ。持ち主達は誰も特別な人々ではなかった。選ばれた民でもなかった。
電車で隣に座った人、昨日のコンビニでレジを打ってくれた人、そして私。平坦な日々を生きる私ときっと同じ目線で生きていた人々ばかりだ。

資料館や博物館は展示替えをするとは知っていたが、こんな風に平和記念資料館が展示替えをするとは思っても見なかった。
 私たちは東日本大震災、熊本地震、そして能登の震災を経て、日常がどんなに尊く、愛おしいものなのかを知った。それを知った私達には、ヒロインが訴える悲劇よりも、日々を生きていた人々の現実の方がより心に届く。
 またSNSの影響も無視できない。あの遺品の展示方法は、個人個人の発信と同じに見えた。一人ひとりが今へ発信する原爆。平和記念資料館は今の私達に原爆を伝える方法を模索しつづけていたのだ。

 これからも資料館では展示替えがあるだろう。きっとその度に人々は思考する。その時を生きている人々に届く展示はどんな方法か、どんな変化が必要か。訪れた人々はどのように原爆を受け取るのか。
変化し続ける原爆はまるで生きているかのようだった。

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