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不登校と家庭

 元不登校生の親として、学校、家庭以外の居場所やオルタナティブスクールへの支援活動に関わっています。
 まずは地域の当事者の方たち(直接お話を伺うのは親御さんになります。母親が主)の現況を傾聴して、行政や医療ケアの情報をお伝えしたり、自分の事例(子どもへの対応や反応、成長過程等)を共有させていただき、行政への支援要請、提言等を実施しています。
 この問題(不登校自体は問題ではありませんが社会的支援が圧倒的に不足しているために、当事者が「自助」対応することが多様・多大で精神的、経済的負担が大きい。)は中学生の約1割(統計上は約4パーセント程度ですが、完全ではない登校が登校としてカウントされているケースが多いため)程度が抱える対象者が多く(以前よりは当事者であることを隠すケースは減っているが、未だに言い出せない対象者も多い。)学校制度が大前提となっているために、社会的認知が低く(学校に行かない子どものことは分からないし、個人的要因であり、社会的支援の必要性を理解出来ていない。実態として「いない」ことにされている。)フリースクール、フリースペースへの財政支援、人的支援も直近まではほぼない状態になっている改善が喫緊に必要な課題です。
 それに加えて学校制度が崩壊しつつある問題(多様化する児童・生徒に教師が質、量共に対応不可能な状態になっている。)もあり、文科省も問題認識はありますが、予算も通常の学校以外の多様な学びのノウハウもなく、フリースクールを運営するNPOや対応に少しずつ動き出した自治体との連携を模索し始めたのが実態です。
 今般文科省の不登校の実態アンケートで学校側と当事者の問題認識に大きなギャップがあることが分かったので、アンケート方法を抜本的に変更することが発表されたのですが、先行実施されたNPOが実施したアンケートにおいても類似した結果となっており、大まかに分析すると、教師の指導姿勢の問題や画一化された授業内容・進め方、厳し過ぎて理不尽な校則、いじめ等の学校側の体制の不備から起因する理由と他者とのコミュニケーションの困難さから生じる不安感やモチベーション低下等の個人起因の理由に大別されます。
 学校起因の問題は適切な対応に向けて現状改善を図っていただきたいですが、個人起因の理由はかなり複雑でセンシティブな要素があると思います。
 さまざまな情報からの私なりの見方ですが、このような個人起因の理由の背景にはもちろんすべてではないですが、発達障害と「家庭」の要因があると考えます。
 お伝えしたいのは不登校の要因に発達障害が関係しているケースが一般的な想定よりもかなり多いこと。(正確なデータはありません。)
 不登校自体は何ら問題ではなく、学校以外の多様な学びや遊びの場が確保されていないという社会的問題であること。
 発達障害は特性であり、コミュニケーションに困難さがあるとはいえ、「家庭」や周囲の理解、サポート、本人の適正な判断、行動によって社会的自立や自己実現が十分可能であるということです。※それは定型発達の人と同じことです。
 一方で「家庭」ということにフォーカスすると、過保護や過干渉、ネグレクトから生じる愛着障害や貧困、 DV等による家庭崩壊が人格形成に悪影響を与え、犯罪に結びつくケースも増えています。  
 今般、本多真隆さん(立教大学准教授 家族社会学専門)の「家庭の誕生」(ちくま新書)という著書を読んだのですが、この本は明治維新による日本の近代化以降の「家庭はどうあるべきか」という議論の変遷を現在に至るまで社会情勢の変化と共に掘り下げて分析している稀有な存在の著書です。
 「家庭はどうあるべきか」というテーマは「社会はどうあるべきか」というテーマと同義に近く、また誰しもが当事者で、それなりの課題や想いを持っているテーマなので興味深い内容となっています。
 「家庭」という言葉は、明治初期に旧来の「家」という家族観を変える新しいテーマ性を持って、西洋の「HOME」のイメージで用いられ始めた言葉であり、当初は「家」の権威的なイメージに反して、愛情で繋がった対等な夫婦とその子どもで形成される最小限の共同体という理想的なイメージのものであったとのことです。
 その後、戦争、敗戦、戦後の高度成長、バブル崩壊や失われた30年を経て現在に至る中で、社会情勢の変化に応じて「家庭」の意味合いやあり方もさまざまに変化してきます。
 現在は子育てや老人介護の担い手としての機能が低下していること。少子化の進行という課題に関しても対応出来ていないことから、発足した「こども家庭庁」のネーミングに「家庭」の文言が後出しで追加されたように、かつての「家」的な要素の復活を目指す意見が台頭する一方で、「公助」で対応すべきことを「家庭」の「自助」に押しつけているという指摘もあり、その議論の背景への深掘りと提言がこの本には著されています。
 突き詰めてみると、不登校やひきこもり、児童虐待、ヤングケアラーや老老介護、孤独死といった「家庭」内の問題を「個人化」の進行として「家庭」の「自助」強化に求めるのか。「個人」の抱えるさまざまな課題への支援を社会的課題として、「公助」強化による「個人」の安心安全の確保や生きづらさへの支援を図るべきなのかということになると思います。
 「家」の復活を目指してもそれを構成する「個人」の支援にはならず、「個人」も他者と関わらず生きる存在ではなく、社会的存在であるので「個人」への社会的支援を強化することがそれぞれの「個人」が志向する望ましい「家庭」の実現に繋がり、それが「家庭」の機能低下を懸念する人たちが望む社会全体のエネルギーの高まり、安定化や成長に結びつくものと考えます。
 不登校に関してであれば、学校に行っていない児童生徒・学生の将来の社会的自立を支える多様な学びの場の確保(経済的に通常学校通学の場合と同負担、施設・スタッフの質も同レベル※将来的には教育無償化)と、通常学校とオルタナティブな学校が個人の志向の違いによる選択の差でしかないことの社会的認知に向けた啓蒙の徹底を行政が果たしていくことが求められると思います。  
 私自身もその実現に向けてのアクションに携わっていきたいと思っています。

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