大人になりつつある子ども達
少し前に読み終わったこの本。
この本では思春期の始まる12歳から20歳ごろにどんな人と知り合うか、どんな物と出会うかが大事だと説く。
前回、この本について書いた記事では幼児教育について私も考えてみたが、今回はもう少し大きくなった子どもたちへの教育について本を通して学んだことを書いていこうと思う。
著者は一流のスポーツ選手や芸術家を目指す人は、専門家から教わるのが当たり前の世の中なのに、学校の勉強は専門家といえる人から教わっているのだろうか、という疑問を投げかける。
学校の先生は教えることの専門家であって、その担当教科の専門家ではない、と言っている訳だ。
私は特に高校時代たくさんの優秀な先生たちと出会う機会があったから、これに関してはそうだそうだとは思わないが、確かに例えば長年、英語を使って世界を股にかけてビジネスをしている人の英語勉強法だとか、プロのピアニストから音楽の授業を受けるだとか、そういう機会があれば面白いとは思う。
学校でミュージカルを見に行ったり、プロの音楽家を招いたコンサートを見たりしたことはあるが、それは年に一度あるかないかの話であまりにも学生たちにとって非日常だった。
私は自分が舞台芸術を志していたからどれも楽しんだ思い出があるが、その貴重な経験を十分に享受し何かを感じ取る、何かを学ぶという段階まで至っていない同級生も多かった。
彼らが感じ取っていたのは今日は授業がない、外に出られる、という高校生とは思えない実に幼稚な感情だったと思う。
生徒たちにプロの技から学ぶ素地が無かった。
それは、あまりにも学校の先生という教えるプロの授業に慣れ切っているからで、やはりこの著者が言うように教育が「本物」からいかに離れてしまっているかの証拠だと思う。
また、中学時代。田舎の中学で意識も低く、優しい先生の授業はほぼ間違いなく成り立っていなかった。特に英語の授業はこぞってやんちゃな学生がふざける時間となっていた。
同じクラスに幼い頃から英語を習っていて発音が上手な男の子がいたが、正しい発音で英語を話すと「いきってる」と言われるのが原因で、彼の発音はどんどん悪くなっていた。意識的に悪い発音で話していたのが私にはわかっていた。
そうして大人になると、「英語の発音が」とか言い出すのには呆れてしまう。
これは本当に悲しいことで、あの時点で私も含め「英語が理解できるとたくさんの扉が開くこと、たくさんの世界が目の前に広がること」をまったく想像できていなかった。
私はその後に出会った人たちのおかげで苦労はしたが、英語を習得し、アメリカ移住にまで至ったが、それも私がただ幸運だっただけで、英語なんて話せてどうするの?と思ったままだったかもしれない。
この本を読んでいて度々以前読んだこの本のことを思い出した。
福沢諭吉の「学問のすゝめ」をわかりやすく解説しているこの名著は去年私が読んだ本のトップ3に入る。
「学問のすゝめ」では度々、「虚学」という言葉が用いられる。
これは社会のためにならない嗜みとしての学問を意味するという。
私は決して連立方程式って社会に出た時使うことあるの?とかそういうことを言っている訳ではなく、子どもが本来持っているはずの高い感受性、柔軟性を活かした教育を見てみたい、子どもが興味を持った物事に対する爆発的な集中力や能力が発揮できる教育現場を提供したいと思うのだ。
私が子育てをする前にこれらの本に出会えたことは本当に幸運だった。
当然私は学校を始めたいとかそんなとんでもないことを思っている訳ではないが、学校教育で足りない場所を家庭で少しでも補えるようにしたいと思う。
子どもを育て始めたら疲れ果てて、何も出来ないかもしれないが、知らないよりはましだろう、と思う。
6月28日 水曜日
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