父のこと。戦争による複雑性PTSDと認知症の周辺症状のこと 4

沖縄戦で生き残った人の中で一番忘れられないのは「におい」と話した記事を読んだことがある。
空襲が終わった後、あちこちに黒焦げの遺体の山。写真や映像からにおいは伝わらない。
 
1945年6月に父の長姉がタイピストの求人を見て、満洲に渡ったそうだ。終戦まで二か月無かったとのこと。ソ連兵から守ってくれた中国人に匿われて、その人と結婚。
 
叔父の記憶があいまいだけど、1950年代にこの伯母が日本赤十字の尽力で一時帰国したらしい。昭和33年(1958年)に亡くなったとのこと。
 
日中国交正常化の直後、NHKが祖父母にインタビューして番組を作ろうとしたことがある。その時の写真を覚えているけど、父が反対してお蔵入りになった。
 
父の家族だけではなく、日本中で同じような人たちがいたことを知って欲しいし、忘れないで欲しい。あなたの親・祖父母・曾祖父母がこのような経験をしているかも知れないから。
 
母の弟・私の叔父は終戦時15歳。満州で軍幹部のために食事を作っていたらしい。生きて帰ってきたけど、この叔父も何も言わずに逝ってしまった。
 
いとこのおじいさん(私と血縁関係なし)はシベリアで捕虜になり帰国。
「おかしかったよ。散歩から帰るとガラクタを拾ってきたから」とは従妹の言葉。シベリアの捕虜生活がどれほど過酷だったか、たったこれだけでも想像できる。

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