ひとりの社畜が休職した話

注意:この話はフィクションであり、実在の企業・団体・組織等とは関係がありません。分かる人に分かれば良いです。

わたしという社畜について

みなさん、こんにちは。
表題のとおりの話をするにあたって、まずはわたしの自己紹介をしたい。
わたしはとある日本企業に勤める社畜の一人だ。
いわゆる技術職というやつで、一般的なサラリーマンみたくオフィスで1日中働くようなものではなく、現業と呼ばれるような屋外などで働くことの多い職業だ。
この企業は日本でも代表的な企業で、名前を聞けば誰でも間違いなく知っている企業だ。年に数回は必ずニュースに上がり、良いときより悪いときの方が話題になりやすく、世間からの目線は常に厳しく見られる企業である。
ただ、企業といってもグループ会社を含めると裾野は広く、わたしもこの企業のグループ会社に所属している。どこか他人事のように感じるときがあるとはいえ、世間からすれば一企業として見られることに変わりはなく、ニュースを見かけるたびに「またなんかやらかしたのか…」と不安になることは多い。
グループ会社であるわたしの職場は、いわゆる3K(きつい、汚い、危険)の代表のようなところで、これに「給料が安い」を追加して4Kといっていいだろう。夏は暑く冬は寒く、シフト勤務で夜勤もあり、常に危険がつきまとう職業でありながら、仕事をこなさなければ困る人たちが大勢いるという、みなさんの想像に難くない現場仕事を常にこなしているところだ。こんな場所でわたしは入社以来ずっと働いている。

わたしは、専門卒や高専卒が多いこの企業に大卒で入社した。と言っても、変わるのは年齢給くらいなもので給料に大きく差はなく、なにか特別なキャリアルートがあるというわけでもなく、先輩と年齢が同じだった、なんてことがたまにあるくらいで学歴コンプを感じるような職場ではなかった。
わたし自身、出身がどこだ、とか、東大卒がどうとか、考えるような人間でもなく、自分が大卒であることを忘れてるような人間だ。特にこだわりを持って人と接するような器の小さい人間であるつもりは全くない、と個人的には考えている、周りがどう思っているかは知らないが。
高専卒の方が自分より頭の良いことは知っているし、多少考え方に難のある人間であってもなにか惹きつけるものがあるのだろうと、偏見なく接することができる人間でありたいと常に思っている。
おそらくこの考え方の根底にあるのは「人から嫌われたくない」というかなり後ろ向きな思いが幼少から根付いてしまった弊害であると、最近気づいた。小学生のころにいじめられた経験、そしていじめに加担することでいじめから逃れた卑しい自分、日本の小学校でありがちでわたしのような人間はそれなりに多いような気がする。
そして、人の顔色ばかり伺い続け、自分の顔色が悪くなっていることに気づかない、いや、気づかないふりをし続けるわたしのような人間が出来上がるわけだ。

わたしは、基本寂しがり屋である。わたしを知る人間であれば、意外というか「それは嘘だろ」と笑い飛ばすこと間違いなしだが、嘘ではない。
人が楽しそうにしているのを見るのが辛い、という経験は誰でもあるのではないだろうか。自分がその輪に入っていないという事実、特に理由などなく偶然その輪にいなかっただけだったとしても、自分にとっては事実が変わりようはなく、そして非常に気分が悪くなることだ。
わかりやすく言うと、一時期流行った「SNS疲れ」だろうか、他人が幸せそうにしている光景をSNSで目にして、自分の現状とのギャップに苦しむというやつ。これは誰でもあることだと思うのだが、友人のひとりだけならともかく、複数の友人同士が仲良くしている光景を目の当たりにするとどうだろう。
飲み会の集合写真が一番わかりやすいだろう、呼ばれてない飲み会がどこかで開催され、自分と仲良くしていると思っていた人間が勢揃いしている。
いつ行われたのかもわからないその飲み会で、おそらくわたしの話題なんて一ミリも上がらず、呼んでないことに誰も気づかず、というか呼ぶという発想も出てこない。一枚の写真だけで悪い想像なんていくらでも出てくるのだが、わたしはこの考えに及ぶ傾向が特に強い。たまに「友達だと思っていたのはわたしだけで、向こうはそう思ってないんじゃないか」と考えることもある。遊びに誘うことはあっても誘われることはない、それがわたしだ、と考えるくらいには寂しがり屋である。

で、そろそろ本題に入りたいのでまとめると、このようなメンタル弱々な人間が昭和気質の企業で働き続けると想像もしない瞬間にいきなり壊れる、というのが本題である。

ことの経緯

この記事を書く半月ほど前まで、わたしは普通に社畜として勤務していた。
現在所属している職場は三交代というやつで、早番、遅番、夜勤を他の所属と交代し合ってローテーションしていく。交代できるようにするためには、三交代を採用している企業ごとに工夫していると思うのだが、わたしの企業では勤務時間が長く、出社と退社のタイミングが世間からかなり外れた運用している。遅番のときなんか特にそうだ、日付を跨ぎ、もう2時間もすれば空が明るくなり始める時間にようやく退社する。これを毎シフトごとに繰り返すのだから、仕事のある週は日中寝ていることの方が多かった。
わたしは入社以来この三交代でずっと生活していて、この年齢にもなればさすがに慣れたと思っていた。夜働く分、日中に寝ることは致し方ないことだと割り切り、平日に休みが取れることに喜びを感じようと努力していたところがある。実際、土日の人の多さにうんざりすることはよくあることだった。平日休みのときに店が混んでいたりすると「こっちが休日働いてるんだからお前ら働けよ…」とか毒づいたりするのは当たり前になっていた。

で、それまでは普通に働いていたわたしだったのだが、とある友人からの一言をきっかけに状況は急降下することになる。
「SNSでの発言に壊れる前兆を感じる」
LINEでの何気ない一言、だが壊れかけだったわたしにトドメを刺すには充分だったようで。
その日は休日で、わたしは自宅で仕事のための勉強に勤しんでいた。特に体調が悪いと感じているわけでもなく、なんか勉強が身に入らないなぁ、とLINEでその友人と適当にやり取りをしていただけだった。
だが、そのメッセージを目にした途端、悪い方向へ突き進む思考を自分で止められなくなってしまった。

そういえば、朝会社に行くときに「電話有給使おうかな、でも先月使っちゃったしなぁ…」と考えることが増えた気がする。
そういえば、夜寝付くの悪い気がする。
そういえば、寝てもすぐ目が覚める気がする。
そういえば、誰かと話をするときも、疲れて喋るのをやめることが増えた気がする。
そういえば、そういえば、………。

わたしの身体と頭が、ついに活動を拒否してしまった。
勉強は手につかず、食事も風呂も億劫になり、クリスマスに買ったYogiboに抱きついて2時間以上、眠るわけでもなく目を開けたままぼーっと過ごしてしまった。
夜になり、なんとか冷食で食事を取り、シャワーを浴びて、眠ればなんとかなるだろうと布団に潜り、止まらない思考のせいで眠れず涙が流れた。
自分はなんのために生きているのだろうか。
なにを持って働かなければならないのだろうか。
自分は、どうしてこの先も生きていかねばならないのだろうか。
会社、行きたくない。

その夜、午前3時ほど。寝つくことを諦めてひとしきり泣いたところで、最後の気力を絞り出すことができたようだった。わたしはその日の心療内科の予約を取ることができた。幸いにも自宅の近所で、すぐに受診することができた。
心療内科を受診する決心に至ったのは、これ以上は自分だけではどうしようもないと悟ったのと、他人からの目線で見た現状を把握したいと思ったからだ。Twitterで心が病んだ人間の話なんて死ぬほど見てきたし、いざ自分がこうなった際は迷わず誰かに相談する必要があることはわかっていた。おかげで自らの行動につながったと考えると、Twitter住民たちの経験談はやはり馬鹿にならない。
初めての心療内科、どんなことをするのかワクワクした反面「自分がこんなところの世話になる日が来るとは…」と絶望感が浮かび上がり、自分の現状に改めて嫌気がさした。
心療内科での初診は「実のついた木の絵を描く」という簡易テストを行う。なんだか見透かされているような気がして嫌な感じがしたが、このテストの結果はわたしの現状と非常に合致していて、それはそれで驚いた。
現状と受診理由を話し、担当医に開口一番に言われた言葉が、とにかく刺さった。
「まるで働くために生まれてきたかのような人生ですね」
一番言われたくない言葉だったかもしれない。
仕事は人生の一部に過ぎないと悟っていたつもりだったのだが、どうも外から見るとそうではないように見えるようだった。THE仕事人間、社畜、世間での扱いとしては下の方に、どうやら自分はいるらしかった。
「適応障害ですね、いますぐ休養が必要です」
診断結果を聞いて、自分がそうなったことに絶望した。
職場で、メンタルが理由で休職した同期は多かった。彼らは皆、たしかに良い人たちだった気がして、人に気を使いすぎている節があった。ただ具体的な理由などを聞いたことはなく、そういうこともあるだろうとどこか他人事に流していていた。
だが、いざ自分がなってみるとよくわかる、この感覚はかなり辛い。
表現が難しく、自分の拙い表現ではおそらく伝わらないので多くは語らないが、心の不調が身体の不調に直結してしまうというのは、おそらく本来は作動しない機能であって、作動してはならないからこそ、なにかしらの対処が必要な状態ということなのだろう。
その日、わたしはついに休職を決めた。

そして今日に至るまで、休職を続けている。まだ期間としては短い方だが、現状を整理するためにもこの記事を書くことを決めた。

原因① 「クソ上司 of the year 2024」

先に言っておくが、適応障害という病気になって感じたのは、これはなにか突発的な出来事があってこのような状況に至るものではない、ということだ。誰かにとてつもなく嫌なことを言われた、された、などといったことのその一回だけで発症するようなものではない。あらゆるストレスが積もりに積もって、最終的に器からこぼれ出てしまった、というのが表現として正しいように思う。
そして、わたしの場合はとにかく職場の人間関係がストレスの原因であった。
昨年の半ばごろ、配置転換で所属が変わった。もといた職場から場所も業種も大きく変わらず、ただ新しい所属でいままでどおりの仕事をこなすだけ。わたしは前の職場では、先輩後輩とも上手く立ち回ることができる人間だったと思う。
新しい所属で、一番のストレスだったのが直属の上司だった。
こいつはいわゆるお山の大将のようなやつで、自分の考えが常に正しく他人の考えを直すことになんの躊躇いもないやつだった。
わたしが職場の環境を良くしようとなにか提案すれば否定され、わたしが進めていた案件を、コソコソと準備して、案件ごとなかったことにしたりした。
上司のくせに現場に出てきてはなにか出しゃばり、自分が現場の効率を下げていることに気づかないわりに、効率が落ちていると文句を言う。
納期が間に合わないのでなんとかしてくれと言えば、なんとかするのはお前だ、という態度を取り、残業したことに労いもなく、他の所属からの仕事は平気で請け負って良い顔をする。
まぁ、このくらいだったらどの企業にもよくいるステレオタイプの上司なのだが、一番腹がたったのは年末年始での扱いだった。

大晦日、わたしは冬コミからの夜勤で、年越しは職場で過ごした。3が日も休むことなく働き、1月4日から休みをずらして休養するつもりでいた。
だが、上司はなにを血迷ったのか「その休みをさらにずらせないか」と、12月下旬に急にメールで申し出てきた。
わたしは、職場がやや切迫した状況であることを知ってはいたが、同じ所属で大晦日に休んでいる面々がいる以上、わたしが休みをさらにずらす理由はないと感じていた。なので、重要なことをメールで送ってくる上司にそのままメールで返したのだ。
「予定を入れてしまっているのでずらせません、大晦日に出社していることを考慮してください」
友人と過ごす貴重な休日、予約していることもあっていまさらキャンセルなどできっこない。こんな直前に予定変更をお願いされる事自体が、不誠実極まりないと感じた。
だが、上司からさらに返ってきたメールには不可解な文言が書いてあった。
「予定があることは事前に申出てください、社会人として当然の振る舞いです」
こいつの言っていることがわたしにはわからなかった。
予定があるから休みを入れているのではなかろうか、そんなこと猿でも想像できそうなのだが。社会人のなってないやつに社会人を説かれる筋合いはない、と頭が沸騰しかけた。
休みはなんとかそのまま予定どおり取ることはできたが、これをきっかけにわたしは上司への不信感を積もらせる毎日を送ることになった。
仕事のアサイン、仕事の割り振り方、休みの取り扱い、なにもかも信じられず「こいつの下で働きたくない」と思う毎日が続いた。

休職している現在も、一応はこいつが上司である。たまに送られてくるメールに唾を吐きたくなるのをこらえてやり取りを続けているが、復職する際に違う人間が上司であることを願うばかりだ。

原因② 「昭和気質の職場」

次の原因は、職場のハラスメントが主体である。先の上司との関係性もハラスメントのような気するが、これとは別で話したかったためこのような分け方になった。
わたしの職場は、それはもうハラスメントのひどい職場である。
パワハラ、セクハラ、モラハラ、昭和の気質がそのまま漂うどうしようもない職場で、その気質のまま令和を迎えてしまっている残念な現状をいつまでも変えることができずにいる。
毎年入ってくる新人を、定年近い重鎮がいじめ抜き、それが当たり前だという考え方に矯正し、若手も同じような考え方を持って新人をいじめる。
現代的な職場環境とはかけ離れた、つい十数年前に問題になった職場がそのまま改善されることなく残り続けている。
一人だけいる女性の新人に対する扱いはひどいものだ、直接身体に手を出すことはないにしても、男同士でする話を平気でふるし、一人の女性として扱うこともしない。ある意味、男女別け隔てなく接することのできる職場と見ることもできるかもしれないが、わたしから見るとそのように捉えるのは無理があるように感じた。
例えるなら、男子校に一人だけ女子が紛れ込んだ教室、と言えば良いだろうか。高専や専門学校なら同じような光景はよく目にするだろう。
共学校の男子が女子に対する接し方と、男子校の男子とで違うのは明白なのだが、うちの職場ではどうも男子校のものがそのまま適用されているように思う。
かくいうわたしも男子校出身なので、このノリは理解できる。男女比に偏りがある限り、このような風土が出来上がるのは仕方のないことだとは思う。
だが、これは一企業の職場風土として許されるものではないと、個人的には考える。ましてや、日本を代表する一企業としてはあり得ない光景である。女性に対してだけではない、外国人に対してもかなりひどい。
中東系の外国人が一人、新人として入ってきたのだが彼に対する扱いは吐き気がするほどひどいものだ。
彼は幼少から日本で過ごしていたため、日本語も英語も達者で日本の大学を卒業してこの会社に入社してきた。
とはいえ、文化や宗教的な面で日本と違う考えを持っていて、それは尊重されるべきことである。これは、職場的にも共通する認識ではあるのだが、わたしの職場ではどうも扱い方を間違えている節がある。
彼は、牛肉を接種することが禁じられている宗教感を持っている。それは特に隠すようなこともなく、話題に上がれば軽く受け答えする程度に、日常的にいつもするような話なのだろう。これは別に日本人であってもコミュニケーションでよくある光景だ。
だが、ことあるごとに「牛肉の味わからないの?」だの「牛肉食わしてやりたい」だの煽り、仕事をミスしたときに「牛肉食わすぞ」と脅すのは、ハラスメントと言わずしてなんと言うのだろうか。
わたしは彼と直接その話題で盛り上がったことがないので、実際にどう感じているのかはわからないのだが、いい気分になることは決してないように思う。
職場はこのようなハラスメントをコミュニケーション方法のひとつとして使っているところがあり、わたしはこのことがとにかくストレスだった。
ことあるごとに相手をいじり倒し、誰かの悪口で同意を得てストレスを晴らし、気分を良くして退勤する。重鎮と呼ばれる悪童たちの相手をするのは、飲み会で愚痴を聞くこと以上にストレスである。
そして、新人がそのようにいじられているのをただ眺めることしかできず、新人の考えも悪童どもに染まっていくのを目の当たりにするのが、なおさらわたしを苦しめた。

わたしは飲み会であまり職場の愚痴を聞くのも話すのも好きじゃない、酒がまずくなるだけでなにも良いことがないからだ。話すなら楽しい話をしたい、好きな映画やアニメの話をするだけで酒は美味くなる。
だが、彼ら悪童どもの話といえば誰かの愚痴や悪口、いじり、ゴルフに尽きる。なぜゴルフでは盛り上がれるのだろうか、いっそゴルフの話だけしててほしい、ゴルフに罪はないが。

こういった職場風土であるがゆえ、昨年の配置転換から思うように職場に馴染めない日々が続き、結果として身体に不調が出るまで我慢してしまったわけだ。

原因③ 「となりの芝がとにかく青く見える」

職場で楽しいことがなに一つないと、人間は仕事以外で楽しいことを見つけようとする。ようするにプライベートを充実させようとするわけだ。
だが、わたしは勤務形態上、プライベートを充実させるのが容易ではなかった。
日中活動できる時間が限られ、5勤2休の友人とは予定を合わせることが難しく、彼女がいるわけでもなく、休日にできることといえばTwitterを眺めることくらいだった。
そうすると、世間さまがそれはそれは楽しそうに毎日を過ごしているように見えてしまう。年末年始はどう過ごしただの、休日にライブ行ってきただの、次の三連休は海外に行くだの、こっちは仕事だっての。
働いている時間と行きたかったイベントが重なり泣く泣く仕事する日々が常だった、まぁこれは誰でもあることなのでただの泣き惜しみでしかない。
しかし、職場で頑張れる理由があればそれにも耐えることができるのだろうが、理由のなくなった人間にとってはひたすら苦痛でしかない。
せめて温泉入ろう、旅行しよう、と重い身体を引きずって出かけることは多々あったが、心の底から楽しむことができなくなっていた。明日にはまた会社行かなきゃ…、そんな考えを持ちながらする旅行は楽しいはずがない。
また、最初に寂しがり屋の話のこともそうだ。
友人(とわたしが思っている人)たちが飲み会の集合写真を上げるたびに、とにかく心が締め付けられた。呼ばれもしない飲み会、呼ばれても行けなかった飲み会、彼らの顔を一目見るだけでも救われようがあったのかもしれないが、この1年近くはそれもなかったように感じる。
どこか世間に置いていかれ、自分だけが立ち止まっているように感じていたのだろう。自分の立つ地面は荒れ果てていて一歩進むのも億劫になるのに、周りの芝はなぜあんなにも青いのだろうか。

来たるべき「対話」

さて、このような状況になってわたしはようやく自問自答できるようになったわけだが、この歳でようやく気づいたことがひとつある。
それは、自分に質問することをやめてはならない、ということだ。
他人の顔色を伺い、自分の考えを押し殺してその場を乗り切るというのは、自傷行為に他ならない。自分に余裕のない人間が良い人ぶったり、聞き分けの良いふりをするのは、ナイフを自分に突き立てるのと同じである。
コミュニケーションはバトルなのだから、自分からHPを削りに行くのはナンセンスと言わざるを得ない。HPが削られることで攻撃力が上がるような、不屈のスキルが発動するならまだしも、普通の人間であるわたしではそのままなにも起こらず死ぬだけである。ナイフは積極的に他人に突き立てていこう。

というわけで、休職中はできるだけ自分がいまどうしたいかと問うようにしている。とりあえず思いつく人間から飲みに誘っているので応じていただけるとすごく嬉しい。
あと、SNSをできるだけ見ないようにした。とはいえ情報収集は必要なので、メインで使っていたアカウントだけ休止して、絵師の尊い絵だけが見れる方だけ稼働している、なにかあればそちらに。たまに絵を描いているので反応してくれたらそれもすごく嬉しい。

休職という形で人生を休むことになり、自分としては不甲斐ない気持ちもあるのだが、退職するほど仕事が嫌いになったわけではなく、むしろ仕事を続けたいがために休んでいるところがある。職場の人間に迷惑がかかることは重々承知しているが、この先も働くために必要なこととして多めに見てほしい。

それでは、一企業の人間として皆さまには締めくくりたい。

いつもご利用いただきありがとうございます。
これからもよろしくお願いいたします。


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