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不思議なメルモちゃん。ほめられるってうれしいんだ!

私達姉妹(4歳半、2歳半)の頃、母親の予期せぬ病で、鹿児島の祖父母宅に預けられることとなった。母親は3年半の入院治療を要し奇跡的に回復した。当時家庭生活も無理と言われていたが仕事もできるまで回復できた。

どんな事情でも、どんなに親しい人にでも、子供が親から無期限に引き離されることは、恐怖と不安以外に何ものでもない。もしかしたらもどれないかも知れない。
私は、ありとあらゆる言葉で、泣いて家に置いて欲しいと懇願しまくったが、仕事と病院の行き帰りになる父親にそんな時間はない。
引き離されるって、やっぱり経験した子供しかわからない…怖さと不安と。
子供なりに自分の立ち位置を探し、長子の私は大人に迷惑かけては、いけないと大人びた子供になった。
一方で自分で自分を育てる様な感覚もあって、
(おじいちゃんのお膝は妹の居場所、おばちゃん
 はとにかく忙しい🥵)
そこら辺、子供が自分で自分を育ててるんだからズレまくり!

仲の良い友達からは、不思議なメルモちゃんみたいだね…🤭
と私の性格を解説してくれた子がいた。(メルモちゃんがキャンディ🍬を食べるとある時は子供、お姉さん、大人、老婆、赤ちゃんに変身し、危機敵状況を乗り越えるのだ)
要するに、しっかり者と子供っぽさが同居して
なんだかつかめない感じ?
その友達に敬意を評したい、まさしくその通り🥴

キャンディーを食べて大人になったメルモちゃん

預けられた日、父親は私達姉妹と荷物を祖父母宅の縁側にポンと置くと、きびすを返してすたすた庭から続く路地を歩き去った。
父親も泣いてたんだと思う。
何となく事情を察した妹がひっくり返して泣き出した。私はうしろから、抱きしめることしか出来なかった。


鹿児島での生活が始まったが、以外に私達は、順応していった。
でも、それは環境(鹿児島という自然)祖父母
叔父や結婚して遠方にいる叔母達が帰省回数を増やしたりしてくれて、見守る心優しき大人達がたくさんいたからだと思う。

小学校に入学し、隣町の小学校まで、バス通学だった。だれ一人居なくて、バス停にいつもポツンとひとり。子供は割といたのに…。
境界線で小学校が二手の町に分かれてたのか?
畑が多かったから、軽トラで送り迎えしてもらってたんだろうか?記憶は曖昧。

初めて通知表をもらった。
当時は、相対評価で5段階評価、体育と図工以外は
5ばかりだった(ちょっと自慢😆)
黙ってランドセルに詰めて、帰りのバス停に立ってた。

小学校、4、5、6年生ぐらいのお姉ちゃん達が近付いてきて、「通知表もらったでしょう?見せて」と言われた。「はい!」ってランドセルから出して見せた。
お姉ちゃん達は、しばらくして見終わった後。
輝く太陽を背に「えらいね!がんばったね!すごいね‼︎」とにこにこしながら、私の帽子の上から頭をなでてくれて、そのままキラキラと走り去っていった。それだけの出来事だった。
でも強烈なインパクトを残してくれた。

少し周りの状況がわかる様になってこんなにはっきり褒められた事は初めてだったように思う。
お姉ちゃん達は、私を励まそうとか元気づけようとか、なんにも考えずに、見知らぬ私の通知表を褒めてくれた。
祖父母は、私達の健康と寂しくないようにと祈るばかりが精一杯で、勉強のことは何一つ言われたことはなかった。(そりゃそうです🤫)
そのせいか、この通知表を褒められた出来事は、嬉しくて嬉しくて、ほんとうにうれしくて✨何十年経った今でも覚えてる。


私は、中学生の頃から、スティビーワンダーのこの歌が好きで、なんちゃって英語で歌ってた。

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私は、この歌詞は大切に思ってる四季やイベント、大切な人の記念日を描き貫いて、消去法の様な技法で、こんな事よりあなたを愛してると伝えるディープな歌だ思ってた。
名曲だなと思ってた。

大人になって、もう一度、和訳と解説を読んだら意味合いが少し違ってた。
あなたを愛してるって言うのに、こんなきっかけや理屈は要らないよ。
ただ、今あなたを愛してる!ってそれだけを伝えたかっただけ…。
実にシンプルだった。無償の愛✨

あの時のお姉ちゃん達は、そんな感じだったな。それだけ言うと走り去って…。
あんな小さな出来事もあの頃の私にとっては、無償の愛として残る✨

私達姉妹は3年後、無事に両親と暮らせることとなった。

メルモは、今日もまた一つキャンディ🍬を食べながら、無償の愛の甘さをかみしめている。

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