伊井直行

三菱の創業者岩崎弥太郎はユニークな日記を書き残しました。このアカウントは、現代語訳と解…

伊井直行

三菱の創業者岩崎弥太郎はユニークな日記を書き残しました。このアカウントは、現代語訳と解説で、その面白さを紹介するために造りました。伊井直行は講談社現代新書『岩崎弥太郎 会社の創造』の著者です。noteでは元は「常陸国風土記」現代語訳が目的だった『はるかな昔』という別アカウントも。

マガジン

  • 岩崎弥太郎 長崎日記4(万延元年閏三月)

    岩崎弥太郎の長崎時代の日記「瓊浦日録」から四つ目のマガジン、万延元年(1860年)閏三月分です。月初めの一日から順に読むことができます。「日録」の続きとなる「征西雑録」から長崎滞在最後の三日間を付加しています。

  • 岩崎弥太郎 長崎日記3(安政七年/万延元年三月)

    岩崎弥太郎の長崎時代の日記「瓊浦日録」から三つ目のマガジン、安政七年/万延元年(1860年)三月分です。月初めの一日から順に読むことができます。

  • 岩崎弥太郎 長崎日記1(安政七年一月)

    岩崎弥太郎の長崎時代の日記(「瓊浦日録」)を頭から読めるようにマガジンにします。その初めは安政七年(1860年)一月分です。

  • 岩崎弥太郎 長崎日記2(安政七年二月)

    岩崎弥太郎の長崎時代の日記「瓊浦日録」から二つ目のマガジン、安政七年(1860年)二月分です。月初めの一日から順に読むことができます。

  • 岩崎弥太郎日記の意義、その現代性

    岩崎弥太郎の青春時代の日記を紹介するにあたって、実は葛藤がありました。興味を持ってもらいにくい人物であることが、よく判っていたからです。そこで、彌太郎日記の意義、その現代性について、noteの別アカウント『はるかな昔』に何回か書きました。自らを納得させるという意味も大きかったのですが……。それらの記事をマガジンとしてまとめ、掲載します。使用した文献のリストも、ここに掲載します(予定)。

最近の記事

大洲~四国山地~高知

万延元年四月三日 薄曇り。早起きして朝飯後に出発。宇和島の関で往来手形を見せて大洲へ。城に登って辺りを眺めた後、「やや繁盛した街市」の宿屋で食事。その後、山道を歩んで甚だしく疲れ、大瀬という小村で宿を取りました。隅田と対酌し、飯を食べて就寝。「夜明けまで雨の声が聞こえた」 四日 雨の中、狭く険しい山道を歩き続けました。昼、小村で菜根茶と梅の接待を受け、食事。再出発後、雨で服が湿ってしまいました。山道はさらに険しくなりますが、隅田敬治と励まし合い、七鳥まで「疾走」しました。到

    • 佐賀関~豊後水道~八幡浜

      万延元年四月一日 明け方に起きると霧雨でうんざり、晴れの日には犬飼から鶴崎まで舟で行けると聞いていたのです。しかし川沿いを歩いていると小舟があり、鶴崎に行く官舟だと言うので「躍然、同舟を乞うて許しを得た」舟は時に緩やかな、時に山間の速い流れを曲がり下って行きます。昼には「不潔な菜汁」が出されました。  舟底に臥して寝ていると、舟子の「鶴崎に着いたぞ」と呼ぶ声で驚いて目を覚ましました。周囲は開けた平野で、瓦屋根や白壁の町や麦畑が見えます。舟を下り、佐賀関までの三里を「奮然」と

      • 熊本~阿蘇~竹田

        閏三月二十六日 昼前、隅田敬治と共に清正公(加藤清正)の廟を拝しました。「非常に広大。礼拝者で満室だった。清正公の威徳を想うべき」雨が激しくなり、岩崎弥太郎は一人で木下宇太郎先生を尋ねましたが「不遇」。塾生と話をして宿に帰り休んでいると、木下塾生が三、四人訪ねて来たので、酒を振る舞って夕方まで談話しました。 二十七日 朝八時過ぎに出発。市街の外に出ると、街道は「老杉」の並木道。空が開けると、遠山が四方を囲んでいるのが見えます。大津から谷川に沿って進み、小村の茶店(「不潔甚だ

        • 長崎市外~島原~熊本

          閏三月二十二日 晴。早起きをすると体調が良く、日の出を過ぎて出発。矢上から転じて浮木道に進路を取ると「山間の経路が高低屈曲し、日差しが温かく汗が出た」。途中「青梅を三、四粒」もいで食べたりしつつ、海に出たところで小休憩。  その後、坂道を登ると「海に湾に、島原温泉嶽が屹立し、天草の海から突出していた」さらに進んで喉が渇き、林間の茅ぶき家に住む不潔そうな医家に「騎虎の勢いで水を乞い、三、四椀を連飲した」。日暮れに上代に着いて吉田屋に投宿、障子を隔てて「三弦を弾く音やざわめく話

        大洲~四国山地~高知

        マガジン

        • 岩崎弥太郎 長崎日記4(万延元年閏三月)
          8本
        • 岩崎弥太郎 長崎日記3(安政七年/万延元年三月)
          11本
        • 岩崎弥太郎 長崎日記1(安政七年一月)
          15本
        • 岩崎弥太郎 長崎日記2(安政七年二月)
          12本
        • 岩崎弥太郎日記の意義、その現代性
          9本

        記事

          弥太郎、なかなか旅立たない

          三月十九日 日記は「この日長崎を発つはずだったのだが」と言い訳のような書き出しで始まります。妓楼への支払いが多すぎ、帰郷の費用に差し障りが出そうで思案していると、上司の下許武兵衛から「今日はどうするの?」と声がかかります。早朝から茶屋阿山楼へと誘われ、「心に適わなかったけれど」出かけました。 少し酒に酔ったところで、浪花楼と花月楼への支払いが滞っていることを下許君え相談いたしたところ、下許君は早速承知いたし御引受け下さったので大いに安心いたし、万一家山(故郷)より金子入りの

          弥太郎、なかなか旅立たない

          「瓊浦日録」、最後の記述

          閏三月十七日、十八日 岩崎弥太郎は十九日を土佐への出発日と定めますが、帰郷の準備の傍ら、丸山へも出かけています。 十七日 この度、隅田敬治が(土佐に)帰国するのにあたって、そのついでに一寸罷り帰り、当地の形勢の彼是についてその委細を(藩上層部に)申し上げるよう、下許君(武兵衛)と相談の上で志を決し、その支度、用意をする。  午前中、大浦の清人林雲逵宅に行き、夕方に旅立ちの宴を行う約束をしました。午後、下許と出島を徘徊の後、帰途に浪花楼で歌妓らと宴会、花月楼の阿近と緑野も来

          「瓊浦日録」、最後の記述

          弥太郎、帰国の準備を始める

          閏三月十五日、十六日 岩崎弥太郎は帰国を決意し、上司の下許武兵衛も同意した、と十五日に初めて記します。実際には、以前から下許と長崎滞在を切り上げる相談をしていたと思われます。 十五日 「吾輩は当地(長崎)に滞留することは甚だ無益と思い、下許君(武兵衛)と談じ合って一先ず帰国」するのが良いと弥太郎は考えます。一方で、このところの「遊蕩に孔兄(銭)払底に相成り」、心配になって隅田(敬治)に相談しました。  昼前から日記を書いていると、「昨夕の宴で何か思うことがあったのか」下許

          弥太郎、帰国の準備を始める

          英国人との交遊、上司との酒席

          閏三月十四日 興味深い内容が含まれているので久しぶりに一日で1回分とし、訳文そのままを多く掲載します。 晴。昨日、イギリスの軍艦見物ができるようにメジャウルと約束してあったので、下許君(武兵衛)にもその都合を話し、午前八時頃に下許君と出かけて、メジャウルの寓居を訪れた。メジャウルは余だけに西洋紙一帖と帯留めをくれた。その厚意はありがたかった。 メジャウルと相伴ってまさに戸口から出ようとしたところ、一人の士人が突然(現れて)下許君に向かい「なぜ英国人の家に出かけたのか」と尋

          英国人との交遊、上司との酒席

          弥太郎、最後の豪遊

          閏三月十一日~十三日 岩崎弥太郎は、上司の下許武兵衛が出張で不在の間に丸山で豪遊しました。また、英国人と知り合いになった縁を活かして、当時のハイテクである蒸気船を見物しています。 十一日 暮れ方、弥太郎は明日帰国だという前川を寓舎に訪ねました。その後、花月楼に上がり、昨晩から浪花楼に置いたままだった袴を取りに行かせたところ、「ご来臨を請う」と袴を渡してくれません。舞妓を交えての酒宴の後で浪花楼へ行き、花月楼の阿近や芸妓ら多数を交えて「団欒」しました。  弦や鼓で賑やかな中

          弥太郎、最後の豪遊

          舟遊び、六連装機関銃、どしゃ降り

          閏三月八日、九日 岩崎弥太郎の最初の長崎滞在も、終わりの日が近づいています。この二日分の日記にそれを示唆する記述はありませんが、文章にこれまでにない緊張感が漂っているようです。今回は、なるべく原文に近い形で提示します。 九日 旧知の千頭寿珍が寄宿先に来て、城島(四郎島の誤り)砲台の見物に誘われたので、隅田敬治と共に寿珍宅に赴きました。酒を舟に載せ、寿珍宅の老婆が三弦を弾き、二人の「女子」が酌をします。 一人は元妓婦だが今は家にいるとの由。ようやく舟が岸を離れると、遠くの眺

          舟遊び、六連装機関銃、どしゃ降り

          弥太郎、丸山に行くも遊ばず

          閏三月五日~八日 岩崎弥太郎は数日来、遊びが過ぎたと自覚したらしく、付き合いや用事で丸山に出かけても深入りしません。記述から、内心では帰郷を決断し達観したような気配を感じるのですが、いかがでしょう? 五日 田内久米という同郷の者が寓舎に来て、その僕しもべが帰国するというので、下許武兵衛と自らの書簡(父親あてなど)を託しました。その後、二人で鍛冶屋町の茶屋に行くと、田内が歌妓を呼びたいと言いましたが、弥太郎は「故ことさらニ」引き受けませんでした。  しかし田内は自分で都合を

          弥太郎、丸山に行くも遊ばず

          連泊で豪遊した後に何度目かの反省

          閏三月一日~四日 上司の下許武兵衛が出張に出た翌日から二日間、岩崎弥太郎は丸山遊郭での遊びにふけりました。そして、最後は、いつものように反省して宿に引きこもります。 一日 下許が肥後に赴くというので、早起きして見送りに出ました。途中の「景色甚佳」、長崎街道の起点にある新茶屋の庭に桜の木があり、地面は散った花びらで埋め尽くされていました。温酒を飲み、山の心地よい空気を味わって「随分愉快」  昼、下許が出発する際、同行していた熊次(寄宿先の大根屋の次男)が、桜の枝を折ろうとし

          連泊で豪遊した後に何度目かの反省

          初めて西洋人宅を訪れる

          三月二十七日~三十日 岩崎弥太郎の放蕩の反省は三日坊主で終わり、丸山通いを復活させたのが功を奏して、妓楼で初めてイギリス人と知り合いになり、居宅を訪ねることになります。 二十七日 灸治に行き、同宿者に句読を教えた後、清人を寄宿先に訪ねました。筆談の後、一緒に丸山の浪花楼に出かけ、清人が催す歌妓を交えての宴会に同席し「大分帯酔」。ひとりで抜けて赴いた花月楼で、イギリス人「メイチヨヤウと蘭人某」に出会い、翌日「メイチヨヤウ」の寓居を訪問する約束ができました。  弥太郎は

          初めて西洋人宅を訪れる

          弥太郎、ついに改心か?

          三月二十四日~二十六日 岩崎弥太郎は、俗塵の巷を離れて田園におもむき、爽やかな春の風を感じます。桜田門外の変の詳しい情報を得て粛然とし、法話を聞こうと仏寺に出かけます。とうとう改心したのでしょうか? 二十四日 「天気快晴。朝起きて会計簿を認める。近来の所為ふるまいを熟慮し、実に自分自身からして不安と思い、是非とも本心から過ちを悔いて、是よりきっと勤勉に務めを果たそうと思った」と反省の弁を述べ、丸山ではなく小島(長崎の旧地名)に行き、谷川をさかのぼりました。 人家がまばらに

          弥太郎、ついに改心か?

          弥太郎、珍談奇談集

          三月二十一日~二十三日 この三日間は珍談、奇談の連続です。下許武兵衛と弥太郎は上司と部下ですが、悪い仲間、凸凹コンビでもありました。 二十一日 朝方、寄宿先大根屋の前の通りが大変な人波で、人に尋ねて今日が空海を拝する日だと知りました(弘法大師祭り。現在は4月)。下許のおごりで酒を飲んでいる時に、弥太郎がこれから花月楼に支払いに行くと伝えたところ、一緒に丸山に出かけることになりました。  花月では、結局、以呂波ら歌妓を呼んで宴席となります。下許は旧知の遊女青葉が来たので「余

          弥太郎、珍談奇談集

          弥太郎、読書に励む

          三月十三日 朝、土佐藩参政吉田東洋への書簡を、下許武兵衛が藩に出す公文書中に託して送りました。下横目の寄宿先を訪ねると、二人は早めに土佐へ帰ることになり暇乞いをしました。弥太郎は下許と対座して「笑い、かつ悔やみ」ます。下記のような心配があったのです。  欧米諸国に関して調査をしろと申しつけられていたものの、「当地(長崎)ではこうしたことを心得ている者は一人もいない」のでうまくいかず、「面に汗するばかり」。しかも、遊蕩のことも下横目たちは聞き取りをしているようで、「何とも心持

          弥太郎、読書に励む