3月9日

 誕生日の日に電話があった。お祝いの…ではない。仕事の…である。
 待ちに待った誕生日のプレゼント!だとは、思わなかったが、もしかしてプレゼントか?とは思った。しかし心が浮き立つことはなかった。それよりも慌てて言い訳に行ったのだ。何処に?本棚の杓文字に…である。
 なかなか正社員の仕事に就けず、有期雇用で燻っているうえ、当時恐らく就活中だった姉に、ちゃんと正社員として働いている弟が旅先で買ってきた杓文字である。〝就職〟と凜々しく筆書きされている宮島の杓文字が、十数年経った今でも私の部屋にある。
 何度かの転職を経ていても、〝一生腰を据えて働けるところ〟との縁から遠い私が、二年前の不利益変更でとうとう目標を定めた後も、御利益はなかった。十数年も前の杓文字に願をかけるのもおこがましいかも知れないが、それだけ結果が出て来なかったということでもある。
 願いは切実なので、風水を調べて何度か置き場所を変えたりしてみたが、状況は変わらなかった。
 毎朝、掃除をするが、その日はいよいよ切羽詰まっていた。その日は…というより、この二年弱、ずっと切羽詰まっていたのだが、その月々で、仕事探しは続けていても、家庭内でそれどころではない時期もあったのだ。新年が明けて、めぼしい仕事の情報が無いことに振り回されないよう、目標を新年度に定めたら少し楽になったが、3月に入っても応募したいと思える求人に出合えない。アルバイトを掛け持ちすることも考えてハードルをかなり下げた職探しをしつつ、〝一生腰を据えて働けるところ〟の正社員…は、私には高望みなのかと、卑下したものの考え方しか出来なくなっていた。
 昔から、私が本当に欲しいものはいつも手に入らない。数年を経て手に入ることはあっても、そのときには、既に諦めた後だったり、興味を失った後だったりする。時間がかかっても欲しいものが手に入るのなら幸せではないか…と言えなくもないが、本当に欲しい、喉から手が出るほど欲しい、他に何もいらない、そんな強い思いで必死になっていた頃の私があまりにも不憫になる。その都度傷付いて、諦めたり妥協したり、信じるということからどんどん遠ざかって年だけを重ねてきた結果、私は私が、一体どんな人間になっているのかわからなくなってしまった。
 掃除の狭間に目に入った杓文字に、思わず必死に手を合わせて就職祈願している人間を、犬が横から見ていた。その後、かかってきた電話であった。
 年末に受けた短期の仕事に、空きが出たらしい。本来ならハローワークに出して募集をかけるのだが、私に来ないかと言うのだ。一度「不採用」という通知と共に履歴書を返送した私に…である。電話がかかってきたことが恐ろしいと感じるのは、返送されたのは書類だけで、中の情報はコピーして保管されていたのだろう…と想像したからだ。
 ハローワークに再募集をかけるのが余程面倒だったのか、面接作業を繰り返すことが面倒だったのか知らない。新年度まで一ヶ月を切っていて、時間が押している…というのも理由だったのかも知れない。当初、募集されていた仕事内容以外に、もうひとつ厄介な条件が乗せられており、一瞬迷ったが、アルバイトの掛け持ちまで想定している私が無下に断るのもどうかと思った。
 しかし以後、ため息しか出ない。昔からの悪い癖で、何か別のことをしていても目の前のことに集中できず、そのことばかりを考えてしまう。何とか眠れても、目覚めと共に悩みが渦巻く。短期の仕事なので、結局期限が来たら、また就活の日々に戻るのだ。上乗せされた厄介な仕事についても、気が重かった。
 良い面を見ようとする。
 短期でも、その間は収入が確保できる。働きながら生涯の仕事探しを続ける大変さが想像できるだけに、体力気力共に自信はないが、目標に変わりは無いのでやるしかない。過去にもらったことのない、ボーナスや退職金が出るのもプラスである。イコール、翌年の住民税が恐怖であり、また、期限が来ても失業保険を手にすることは出来ないので、結果的にはプラスマイナス0の可能性もあるが…。
「こういうことちゃうねん」
 情けない顔で杓文字に語りかける。
 天使になった我が家の愛犬たちや、神になった祖父母の写真に、良い報告も感謝も、未だ出来ない。
 一年働けても、次の年にはまた仕事が無い可能性がある。今度はコロナに甘えられる状況では無くなっているはずだし、私もまたひとつ年を取って、更に就職が困難になるのが想像できる。就職氷河期世代に対する救済措置は進んでおらず、政府の企業への要請も、うやむやになったままだ。
 結局、何の解決にもなっていない。
 アルバイトを掛け持ちする方が、将来的には展望があるかも知れない。一生アルバイトかも知れないが、職を移らずにずっとそのアルバイトをやっていける可能性もある。主婦の友達でそういう子がいる。彼女のような働き方の方が、ずっと賢明かも知れない。
 私の就活は続く。

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