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冷たい抜け殻

 私は、家庭教師のTに背後から忍び寄った。クラシックバレエを習っているから、つま先立ちで音を立てずに歩くのは得意だ。
 壁に向かって置かれた私の勉強机の前で、Tは細い身体を丸めて座っている。そっと近づく私には気づかない。ミントのような清涼感のある香りが微かにした。Tはここに来る前にガムでも噛んでいたのだろうか。
 トイレに行くと席を立った私を待つ間、Tはテストの丸つけをしていた。数学が苦手な私の解答だから、バツつけという方が正しいかもしれない。
 Tの背後で、私は、黒鳥を踊るときのように右腕をふんわりと伸ばした。指先で、無防備なTの首から背中をすうっと、それでいて、ねっとりと感じられるように撫でた。
 ひっと声を上げたTの肩が跳ね、筋肉が緊張するのが、白いポロシャツの上からでも分かった。
「驚かせないでくれ」
 振り向いたTの顔は、面白いくらい急速に、首筋まで赤くなっていく。その顔を、私は声を出さないで、目だけで笑いながら観察した。
「さっさと座って、間違った問題を計算し直しなさい」
 たった四歳しか違わないのに、医学部の学生で私の家庭教師だから、偉そうに言う。
 私は椅子に座った。机の上のテスト用紙は、案の定、沢山のバツ印が赤ペンでつけられている。
 私はペンを持ち、すぐ横の丸椅子に座るTの顔を斜め下から見上げた。
「先生、さっき、ビクッてなったわね。ドキドキしたんでしょ。ねぇ、心臓と肩の筋肉って連動してるの?」
 Tは、眉間に皺を寄せ、落ち着かないように、ポロシャツの首元を触った。またミントの香りがした。
「黙って、問題を解いて」
 私は、ふんと鼻から息を出し、シャーペンの芯もかちゃかちゃと出し、つまらない問題を読みはじめた。


 Tが微分積分の重要性をくどくどと説いた日があった。夏休みが始まってすぐ、Tが家庭教師として私の横に座るようになって一週間がたった頃だった。道路のアスファルトもとろとろに溶けるんじゃないかと思うほど暑い日だった。
 微分積分から、いかに数学が、数学的考え方が人生には重要かという話まで、Tは熱を込めて私に話していた。頭が良い人は数学が得意だ、とまで言った。
 私は右から左に話を聞き流しながら、ノートをコツコツと叩くTの手を見つめていた。
 右手中指の左側面がぷくりと膨れた豆のようになっているのは、ペンの持ちすぎ勉強のしすぎだろうか。太く青い血管が透けて見える甲と、綺麗に切り揃えられた薄桃色の爪の対比が美しかった。
「先生の手、男だね。すごく綺麗」
 私はノートを叩いていたTの手に、思わず、本当に思わず、自分の手を重ねてしまった。
 Tの手がぴたりと止まった。話も止まった。口を閉ざして、数秒、じっとしていた。Tの手の甲の冷たさが、私の手のひらに伝わった。
 次の瞬間、Tは、私の手の下から逃げようとした。とっさに私は、Tの手を思い切り力を込めて抑え込んだ。私の手と机に挟まれて、Tの手はもがいた。ばたばたうんうんと、もがいた。
 Tの大きな手は、私の手の下から逃げた。
 沈黙が、勉強部屋に流れた。私は汗をかいていて、自分のしでかしたことに唖然としていた。エアコンが冷風を吹き出す音が、やけに大きく聞こえた。
 先生、ごめんなさい、そう言おうと思って、机の上にあった視線を無理矢理Tに向けると、Tは俯いて、眉間に皺を寄せていた。
「この問題、解いて」
 Tは、私と視線を合わさないまま、感情のこもっていない声で言い、数学の問題集を乱暴に広げた。ぱさぱさと紙が音を立てた。
「先生、数学は得意だけど、女は得意じゃないのね」
 ごめんなさいの代わりに、私の口から出た言葉はそれだった。
 Tは何も言わず、窓の外で蝉がうるさく騒いでいた。


 母はときどき、私の部屋に入ってきた。それは、高校三年の女と大学生の男が同じ部屋にいることを心配してなのか、それとも単に私の勉強の進み具合を監視したいからなのか、よく分からなかった。
「先生、ひと休みしてくださいね」
 そう言いながら、紅茶とお菓子を運んでくる。自慢のイギリス製のティーセットは、どこかの有名なブランドのアンティークで、大切なお客さんが来たときにだけ使用するものだった。
 母はゆったりとした動作で、お茶会をするような仰々しいポットとカップを、私の勉強机に並べた。
「お紅茶、好きかしら」
 母が問うと、Tは「はい、好きです」と言ったが、毎回ほとんど飲んでいないのを私は知っている。
「数学ね。この子は、国語は小さな頃から得意なんだけど、数字に関することは、本当に苦手なんですよね」
 私とTが黙ってカップに口をつけている後で、母はしゃべり始めた。
「こんな大切な時期、大学受験前だというのにね、私たち両親が離婚したから」
 なんておしゃべりな人なんだろうと私は思う。
「この子の勉強にも影響がでるんじゃないかと心配してたんですよ。先生が来てくれて本当に良かったわ」
 確かに、両親がつくる光や影は、目を閉じていても瞼の裏でちらちらちかちかとする。でも、私は、それに影響されるほど脆くはない、と思う。
「先生みたいな息子さんがいたら、ご両親も安心ですよね。頭も良くて、それに」
 私は、しゃべり続けようとする母親の口をふさぎたいと思った。
「お母さん、勉強、すぐに再開したいから」
 私の口から出た声は、いつも通りのとても優等生な落ち着いた声で、優しすぎて、自分でも気持ち悪かった。
「あら、ごめんなさいね、勉強の邪魔しちゃったわね」
 母は慌てたように言って、部屋を出ていこうとした。
「お母さんも、バレエをやっていたのですか?」
 Tが、ドアに向かう母に言った。母は驚いた顔で振り向いた。私もびっくりしてTの顔を見た。
「あ、いや、姿勢や歩き方が娘さんと同じで」
 Tが照れたような困ったような顔で告げると、母の顔に笑みが広がった。目を見開いて笑うその顔は、久しぶりに見る華やかな笑顔だった。
「昔ね、私も踊ってたの。この子より、上手だったのよ」
 母は左手を壁に添えたかと思うと、5番ポジションをとり、右足を真横に大きく蹴り上げるグランバッドマンという動きをした。ロングスカートの裾が一瞬跳ね上がり、母の太ももがあらわになった。
「お母さん!」
 私が声を張り上げると、母は肩をすくめた。そしてTに笑いかけ、部屋を出ていった。
 ゆっくりと階段を降りていく母の足音が聞こえる。私の部屋には、アールグレイとクッキーの匂いが漂っている。
「うっとうしい」
 私は、ペンを机に放り投げて言った。
 Tが私の顔を見ているのを感じる。その視線を受けとめて、
「先生も、うっとうしい」
 私は吐き捨てるように言った。


 夏休みだというのに、高校の夏期補習授業に通い、バレエ教室に行って踊り、Tが来る日は急いで家に戻った。
 自宅前には、広い公園があり、遊具も沢山設置されているが、太陽が強すぎて誰も遊んでいない。名前も知らない大きな木が何本も植えられていて、木の葉がつくる影と、かんかんと光る場所を、私は交互に歩く。日陰と日向。私が歩く場所は、日陰と日向で構成されている。
 公園では、ときどき、蝉の抜け殻を見つけた。茶色の小さな抜け殻は、小さな爪で木にくっついている。木の上の方では、成虫となった蝉が、ぐわんぐわんと鳴いていた。
 私は、抜け殻を木からそっと外し、両手に優しく包んで、家に持って帰った。そして自分の部屋にある、出窓の白い枠板の上に並べた。
 乾いた抜け殻の茶色い列を眺めながら、青白い蝉がそこから抜け出るところを想像した。
 ある蝉は、羽を広げることもなくぽとんと地面に落ちる。ある蝉は、飛び立とうとしたところを鳥に突かれる。ある蝉は、みぃみぃと鳴きながら、木をよじ登る。
 太陽はいつも真上にあって、変化のない毎日なのに、蝉の幼虫は次々と土の中から出てきて、茶色の殻を脱ぎ捨てる。何が起こるかも知らないまま、真っ白い自分を曝け出し、羽を賢明に広げようとする。
「気持ち悪いコレクションだな」
 ある日、Tが言った。
「そう?」
 私は、蝉の抜け殻を見つめたまま答えた。
 私は、Tが服を脱いで、骨張った身体を晒しながら、あの美しい手を使い、木をよじ登る姿を想像した。肩甲骨が蝉の羽根のように見える。まだ開ききっていない透き通った柔らかい羽。頭上の、木の枝の間から見える太陽は、からかうようにちかちかと光を踊らせる。Tは、そこを目指して這い登る。
「先生も、脱皮したら?」
 脳裏に浮かんだTにうっとりしながら、横にいるTの顔を見ると、視線が合った。無表情を保とうと努力しているのが分かるTの顔の中で、目だけが、この馬鹿女が、と言っている。私には、そう感じられる。
 馬鹿女の私は、脚を伸ばし、バレエのフラッペの要領で、Tのふくらはぎをつま先でつついた。

「お父さんがいい。お父さんじゃないといや」
 幼いとき、眠る前に本を朗読して欲しい人は、父親だった。読み聞かせは、母よりも父の方が上手かった。登場人物になりきって声色を変えてくれるから面白かった。そして、なによりも、昼間は仕事でいない父が、枕を並べて頬を寄せて本を読んでくれると、安心して眠りにつくことが出来た。絵本を持つ手が大きかった。あの手に浮き出た血管、頭を撫でてくれたときの温もりは、今でも覚えている。
 小学校の高学年になると、夜中に両親が言い争う声をベッドの中で聞くようになった。二人とも私の前では取り繕っていたけれど、急いで服を着た人のように、いつもどこかにちぐはぐな雰囲気があった。慌てて履いた靴下の色が紺と黒だったりするように、二人の色が微妙に揃っていないのを、私は長い間感じていた。
 だから、高校三年生になったとき、離婚すると両親に告げられても、大きな驚きはなかった。
 私は、今でも、父が好きだ。
 今日、父からメールが届いた。
『元気でやってるか? 勉強はちゃんとしているか? がんばれ』
 三行の文章を一秒で読んで、削除した。

 母がヘアスタイルを変えた。
 ずっと髪を後でくくっているだけだったのに、髪を切ってパーマをかけて仕事から帰ってきた。肩まで切った髪の毛先が、くるんと軽く丸まって、派手な顔立ちの母をより華やかに見せていた。
「どうかしら?」
「似合ってる。すごく」
 素直に褒めた。
 バレエをやっていたからかスタイルの良い母は、実年齢よりずっと若く見える。そして、ここ最近、たぶん父と離婚してから、より綺麗になった。
 学校で育てた鉢植えの花を切り戻ししたときのことを、私は思い出す。花が咲かなくなって枯れたようになった植物の枝全部を、大胆にばっさりと切ることを『切り戻し』というらしい。切ったところから新しい芽が出てきて、植物全体が若返ったようになり、しばらくするとまた、美しい花を咲かせる。
 切り戻しした母は、わき芽をのばしている。眩しいくらい、いきいきとしている。
 小学生の頃、参観日に教室の後に立っている母を、振り返って見るのが好きだった。ずらりと並んだ親たちの中で、バレエの4番ポジションのように立つ母は、とても洗練された雰囲気を放っていた。自慢の母だった。似ていると言われると嬉しかった。
「今度、T先生と一緒に、三人で晩ご飯を食べない?」
 母が切ったばかりの髪に指を絡めながら言った。
「そんなこと、しなくていいわよ」
 私はそっけなく答えて、階段を駆け上がり、自分の部屋のドアをばたんと閉めた。


 高校の夏期補習授業の帰り、友達一人と制服のまま、ハンバーガーショップに行った。
 いつものようにハンバーガーやジュースを買って、それをトレイにのせて店の2階に持って行った。2階の席も高校生や小さな子供を連れた母親でいっぱいだった。音楽と人の声とフライドポテトの匂いが混ざり合っている。
 窓際の空いているテーブルを見つけた。女友達と向かい合わせに座って食べ始めたときに、斜め横に三人グループの客がいて、そのうちの一人が、知っている人だと気がついた。
 家庭教師のTだ。Tは大学生らしい男女と一緒に席についていた。私からは、Tの背中しか見えない。けれど間違いなくTだ。テーブルの上にはハンバーガーやポテトや飲み物があって、Tの向かいには、私から見ると大人そのものの落ち着いた雰囲気の女性と眼鏡をかけた男性が座っていた。
「いただきます。お腹すいたね」
 向かいに座る友達に、私は笑いかけながら、ハンバーガーに齧りついた。
「今日ね、山田先生がね」
 友達がハンバーガーを食べながら、担任の先生の悪口を言い始めた。私はうなずきながら、友達の話を聞いていない。
 私の全神経はTに向いていて、肌で気配を探り耳で言葉を拾った。病理学、臨床実習、耳慣れない言葉が聞こえる。ときおり三人で笑い声を上げる。Tが、高い声で笑うときがあるのだということに、私は驚いた。Tの表情が見たい。
「ポテト食べないの?」
 友達が訊いてくる。
「うん、胃の調子が悪いの。全部あげるから、食べて」
 私はポテトを友達に押し付けた。
 Tの向かいに座っている女性が、Tに笑いかけながら話している。サークル、映画、ねぇ今度一緒に行きましょうよ、話の断片が聞こえた。
 あの女性とTの関係は何なんだろう。あぁ、Tの表情が見たい。同じテーブルにいる眼鏡の男が、女性の肩に手を置く。眼鏡と女性がカップルなのかしら。
 店内には明るい音楽が流れていて、私の前では女友達がずっと担任の先生の悪口を言っていて、私はTの背中を視線の端でとらえている。
 何度も私の勉強部屋で見たTの背中。その背中が楽しそうに笑っている。私が見たことのない背中。胃が気持ち悪い。
「そろそろ帰ろうか」
 友達と席を立った。
 そのとき、Tの向かいに座っていた女性がトイレに入って行くのが見えた。とっさに私も「あ、トイレに行くね」と、2階の階段横のトイレに向かおうとすると「私も私も」と言って友達がついてきた。
 トイレの中には個室が三つあって、どれも使用中だった。このどれかに、あの女性が入っていると思ったとたん、私の口から言葉が出てきた。
「さっき、私の家庭教師がいたの。医学部の学生で、Tって言うんだけど」
 私はTのフルネームを言った。声のボリュームは、トイレの個室の扉を通過できるくらいだ。
「えっ、家庭教師がいたの? かっこいいの?」
 友達が声を張り上げた。
「うーん、見た目はまぁまぁなんだけどね、エッチなの、触るんだよね」
「えぇー、触るってどこを? それ問題でしょ、家庭教師なのに」
 友達が叫んだときに個室のひとつから、あの女性が出てきた。私と友達の顔をじろりと見る。私は目を逸らして、女性が出てきた個室に逃げるように入った。
 気分が悪い。お腹が痛い。トイレに座ると、やはり生理になっていた。赤黒い血が便器の中に落ちた。気分が悪いのは、自分のせいだ。私は私自身が気持ち悪い。
 トイレの壁には『トイレットペーパー以外のものを流さないでください』と張り紙がある。
 私の悪意は、流しても良いのだろうか。私の中にある邪悪などろどろも、赤黒い血と一緒に流れるのだろうか。黒い言葉は、どこに行き着くのだろう。
 私はお腹を抱えて身体を折り曲げた。

 
 ハンバーガーショップでTを見かけた翌日、Tの様子に変わりながなかったことに、私は少しだけほっとした。Tと一緒にいた女性は、何もTに告げなかったのだろうか。それでも、あの女性が他の誰かに私が話した内容を喋っているかもしれないし、大学でTに関する悪い噂が立っているかもしれないし、女性自身がTに対する見方を変えているかもしれない。
 私は後悔しながらも、口を閉じて、今までと同じようにTに勉強を教えてもらっていた。

 私の部屋の壁は、額に入った写真で埋め尽くされている。すべて、クラシックバレエの発表会やコンクールで踊る私を撮ったものだ。
 猫の耳としっぽをつけて踊るというより笑いながらスキップしている3歳から、青いチュチュを着てグランパクラシックのバリエーションを踊る17歳まで。髪をきつくきりりと結び、さまざまな衣装を着て、舞台化粧をした私が写っている。
 私が数学の問題を解いているとき、Tが珍しく立ち上がって、壁に向かって立った。美術館で絵画を鑑賞するかのように、写真をひとつひとつ丁寧に見始めた。私は勉強に集中できなくなって、顔を上げて、Tを見つめた。
「プロのバレリーナになるの?」
 Tが、写真を見ながら訊いてきた。
 私もペンを置いて立ち上がった。Tの横に立った。いつもよりミントの香りが強くする。
「ならない。ううん、なれない。そんな才能はないって自分で分かっているから」
「そうか」
「私は大学生になって卒業して、どこかに就職する。それでもね、それでも」
 Tが私を見る。
「踊っていると思う。好きだから、バレエは続ける。プロではなくても」
「そうか」
 Tの「そうか」というそっけない言葉は、なぜかじんわりと私に染み込んできた。
「そんなに夢中になれるものがあるって良いな。羨ましいよ」
 Tがまた写真を見ながら言う。
「先生は? 先生が夢中になっているものは、これをやっているときは幸せってものは、何?」
 Tが私を見た。しばらく無言だった。
「ない。残念ながら、それほど夢中になっているものはないよ、何も」
「でも、お医者さんには絶対になりたい、それが目標なんでしょ」
 Tは黙ったまま、まばたきをした。何度もまばたきをして、部屋のどこかに落ちている答えを探すかのように、視線を動かした。
「どうなんだろう? 絶対になりたいのかな? 自分でも分からない」
 私はTを見つめた。Tはなぜか悲しそうにも寂しそうにも見えた。私は、しぼんだ風船に息を吹き込むように、明るい声で話し始めた。
「先生、これはね、眠れる森の美女のオーロラ姫、こっちは、くるみ割り人形の金平糖の精、これはね」
 写真を指差しながら、話し続けた。
「これは、2年前のコッペリア。私はお人形の役だったの。そしてこの写真は、おじいさんが青年の魂を、人形の私に吹き込もうとしているところ」
「魂を吹き込む?」
「そうよ、お人形にね」
「どうやって?」
「どうやって、って?」
「魂を、どうやって人形に吹き込むんだ」
 私はTの顔を見た。ふざけているのでも馬鹿にしているのでもなく、本当に分からないことを質問している、小さな子供のような表情だった。
「先生、これはバレエなのよ。これは物語なの。魔法だかなんだかで、青年の魂を人形に吹き込めるのよ」
「そうか」
「そうかって、何が、そうか、なの?」
「現実ではありえないことを想像するのは、僕には難しい。」 
 私はTを見つめた。自然と前に腕が伸びて、Tの身体の周辺の空気を集めるような仕草をした。そしてTの胸の前で、両手を重ね、魂を抜き取った。私はつま先で歩き、それを窓辺に並んでいる抜け殻の上に運んだ。
 両手を広げる。Tの魂を抜け殻の上で落とす。
 片足を床について座り、私はふぅっと息を吐いた。抜け殻がふわりと飛んだ。私が集めた抜け殻は、Tの魂を吹き込まれて、一瞬飛んで、床に落ちた。
 Tを振り返ると、棒立ちのまま、私を見ていた。
 

 模試の結果が出た。志望大学の合格判定が前回のEからBに上がっていた。すぐにTに知らせたいと思った。ペラペラの紙に印刷された模試の結果を見て、そんなことを思ったのは初めてだった。  
 そして、私は、Tの電話番号もメールアドレスも住んでいる場所も知らないことに気がついた。私が知っているのは、Tのフルネームと通っている大学名だけ。あとは何も知らない。火木土の週三回、私の部屋で家庭教師をしているということだけ。
 Tは、問題集に載っている問題の解き方以外、ほとんど語らないから、私はTの好きなものも嫌いなものも知らない。何に笑い、何に悲しみを感じるのかも知らない。
 教室は、模試の結果に一喜一憂する生徒たちの声で空気が揺れている。ABCDEで判定されて、ゆらゆら揺れている。
「まだ時間はある」
 担任の先生が前方の上から言っている。
 私は、Tをからかうときに触れた、彼の背中や手や脚の感触を思い出そうとしている。そこから皮膚を突き破ってTの内部に触れたいと切実に願い、教室の隅で、そっと手を伸ばしてみた。

 私の住む街には、三つの大学があるから、コンビニでハンバーガーショップで図書館で、大学生を見かける。
 制服を着た私たち高校生にはない雰囲気を彼らは持っている。スーツを着た若者とも違う。圧縮されていない柔らかさがある。
 私は一日に何度もTを見かける。はっとして振り返ると、それはTではない。Tとは全く違う顔を持つ男子大学生だった。
 何度も同じことを繰り返すうちに、私は意識的にTを探すようになる。駅で公園でドーナツ屋で、あの背中を探す。
 明日は私の部屋に家庭教師としてくるのに、なぜ今日Tを探すのか、私には分からない。
 
 朝から調子が悪かった。こめかみの奥に小さな虫がいるような気分だった。
 夏休み最後の土曜日だというのに、夏期講習があって、教室に入ったときには、すでに身体全体がだるかった。
「顔色、悪いよ」
 何人もの友達に言われた。
 保健室に行っで熱を測ると、早退しなさいと言われた。身体中の血が、沸騰直前の泡を断続的に作っている気がした。
 歩いて家に戻った。土曜日だから母は家にいる。バレエのレッスンとTの授業を休む連絡は、母からしてもらおうと思った。
「いい子すぎると、身体の調子が悪くなるよ」
 私が熱を出すたびに、父はそう言って私の頭を撫でた。最近の私は、いい子すぎたのだろうか。道が歪んで見えるのは、自分の熱のせいか、陽炎なのか、分からなかった。縦に横にくねった道を歩いた。
 自宅の門扉を開けようとしたとき、玄関ドアが開いて、中からTが出てきた。
「えっ? 先生」
「あっ」
 Tが来るのは夕方のはずで、今はまだ午前中だった。お互いに驚いた顔で見つめ合った。
「先生、今日は夕方の4時からじゃなかった?」
「すまない」
 Tがそう言って、私に頭を下げた。
「何? 何がすまないの?」
 Tの頭に向かって言うと、顔を上げたTは、無言のまま私を見つめた。
「いつか、きっと説明する」
 Tは、それだけ言って、駅の方向に歩いていった。
 意味が分からなくて、こめかみの痛みも我慢できない程になってきて、私はTが出てきた玄関ドアから家の中に入った。靴を脱いでいると、玄関に微かにミントの香りがした。
「ただいま」
 母に声をかけながら廊下を歩いた。突き当たりのリビングにもキッチンにも母の姿がない。
 私は2階に上がり、私の部屋の向かいにある母の部屋のドアを開けた。
 母は鏡台の前に座っていて、ふいにドアを開けた私に驚いた顔をして振り向いた。髪は寝癖がついたように乱れたままだった。
「ただいま」
 私はもう一度言った。
「どうしたの? はやいわね」
 掠れた声で母が言った。
「学校はもう終わったの? バレエは?」
 母は咳払いをして、鏡台の上のティシュペーパーをとり、目元と口元を押さえた。
「頭が痛くて、微熱があるの。保健室に行ったら、早退しなさいって言われた」
「あら、夏バテかしらね。私も夏バテのような気がするわ」
 そう言ってため息をつく母の声や動作に、私は違和感を持った。泣いていた?
「今、家の前で先生に会ったけど、どうし」
 どうしてこんな時間に? と言いかけた私の言葉を遮って、母が大きな声を出した。
「やめるんだって。あの子、やめるそうよ」
「え? あの子って先生のこと? やめるって、私の家庭教師をやめるってこと?」
 私は、母の前に突っ立ったまま訊いた。
「家庭教師も大学もやめるそうよ。決めたんだって。お医者さんにもならないそうよ」
 私の家庭教師をやめる? もうこの家には来ないってこと? 私に勉強を教えないってこと?
私の横に座らないってこと?
「なんで? なんでなの?」
 頭の芯がさらに痛くなってきた。大学もやめるってなぜ?
「知らないわよ。真面目な良い子って思ってたけど、責任感がなかったのね。また家庭教師を探さないと」
 母はそう言って顔を背けた。
 窓を閉めているのに蝉の声が聞こえる。私の頭の中でも、何かが鳴いている。
 母は大袈裟にため息をつき、携帯電話を操作し始めた。
 私は、もう何も訊くことがなくなって母の部屋を出た。自分の部屋に行き、勉強机の前に座った。机の上には、数学の問題集が開いたまま置いてある。私のシャーペンと消しゴムの横に、Tの赤えんぴつが並んでいた。
 私が、何度もTをからかったから。ハンバーガーショップのトイレで酷いことを言ったから。Tが家庭教師を突然辞めた理由はいくらでも思い当たった。大学を辞めたのは、私のせいで変な噂が立ったから。それとも、医者には向いていないと思ったから。私が魂を抜いたから。
 窓から入る光は、壁に飾っている私の写真に刺さっている。頭が痛い。震え始めたのは、熱が上がってきたからか。頭が痛くて、何も考えられない。
 母の部屋にあった強いミントの香りについて、私は考えるのをやめた。そして、窓辺の抜け殻を集めて、握りつぶした。

⭐︎10,106文字
 
 


 
 
 
 

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