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球体の動物園② たぬきおやじ

 近所の体育館で行われる『いきいき体操教室』の申し込み書に必要事項を記入していた節子さんの手が止まった。年齢という欄で、右手にボールペンを持ったまま静止している。
 あら、私は、いくつになったんだっけ? 節子さんは天井を見上げて眉を寄せた。天井の木目は何も教えてくれない。
 八十を超えたの覚えているけど、何歳超えたんだっけ? しばらく考えて、節子さんは八十四と書き込んだ。
 たぶん八十四か五だ。一歳くらい間違えても怒られはしないだろう。そう決めつけてから、いつからこんなにいい加減な人間になったのかしらと、今度は頬杖をついて壁を見ながら考えた。何事もきちんとする性分だったはずだ。特に数字に関しては、お金だろうと砂糖のグラム数だろうと、正確な数字にこだわったはずだ。それなのに最近は、まぁこれくらい良いかと、色々なことを適当に済ませるようになってきている。
『節子さんのように細かいことを気にせず、おおらかに生きていけるって素敵。私もそうなりたいです』
 ときどき遊びに来てくれる隣の家の若い女の子(といっても六十歳のはず)はそう言ってくれるが、ただ単に頭のネジが緩んできているだけなのよねと節子さんは考えて、ふふふとひとりで笑った。
 縁側に面したガラス戸は開けて網戸にしている。夏の夜の生暖かく頼りない風が、庭から節子さんの座る茶の間に入ってくる。首にかけたタオルで汗を拭きながら、節子さんは申し込み書に住所や現在の健康状態などポールペンで丁寧に記入した。
 かさかさ、かさかさ。庭の生垣の方から小さな音がした。葉の擦れ合う音。草を踏む音。節子さんの耳は、ちゃんとその音を捉えた。捉えることができた。
「あら、もうこんな時間」
 柱にかけている時計を確認して、ちゃぶ台に両手をつき、よっこらしょと節子さんは立ち上がり、縁側に歩いて行った。
 かさかさ、かさかさ。庭の奥で音がする。そして、節子さんが縁側に座ったと同時に、正面のツツジの木の間からたぬきが顔を出した。
「こんばんは」
 たぬきと節子さんの声が重なった。それだけで楽しくて、節子さんはふふふと笑う。
「たぬきさん、夕飯はちゃんと食べた?」
「ああ、食べてきたよ」
「饅頭があるんだけど、食べる? 昨日、孫がエミューさんと一緒に遊びに来てくれてね、薄皮饅頭をお土産に持ってきてくれたのよ」
「おお、薄皮饅頭。ちょうど餡子が食べたかったところだわ」
 たぬきは縁側にひょいっと飛び乗り、節子さんの横に座った。
「ふふふ、待っててね。持ってくるわ」
 節子さんはまたどっこらしょと自分に掛け声をかけて立ち上がり、台所に向かった。
 古い台所には魚の匂いが残っている。あじの塩焼きとなすの揚げ浸しが節子さんの夕飯だった。デザートの甘いものはたぬきと一緒に食べようと思って、節子さんは薄皮饅頭を食べずに我慢していた。
 孫から貰った箱を開け饅頭を取り出すと、麦茶といっしょにお盆にのせ、縁側に戻った。
「はい、どうぞ」
 節子さんは麦茶の入ったコップと薄皮饅頭をたぬきの前に置いた。
「ありがとう」
 たぬきは低い声で礼を言った。
 大きな月、沢山の星、空の明るい夜だった。庭の木の姿もくっきりと見える。
 節子さんとたぬきは、大きな月を見上げながら、小さな薄皮饅頭を黙って食べた。ちょうど良い甘さのつぶあんを咀嚼して、麦茶をひとくち飲むと「ああ、おいしかった」と言って、節子さんは左隣に目をやった。
 たぬきが座っていたところに、十年前に亡くなった夫がいた。
「あら、進さん」
 たぬきが夫に変わっていても、節子さんは、もう驚かない。五年前からたぬきが庭に現れるようになり、一年ほど前から、たぬきは亡くなった夫にときどき化けた。
「進さん、お饅頭、もう一個いる?」
 同時通訳者が英語から日本語に自然に言語を変えるように、たぬきが夫の姿になると、節子さんは戸惑うこともなく「たぬきさん」から「進さん」と呼び名を変えた。
「あぁ、もう一個だけ食べようか。うまいな」
 節子さんの夫は、生前、お酒も沢山飲んだが甘いものも大好きだった。ふたつ目の薄皮饅頭を食べる夫の目の前に、節子さんはスマホを差し出した。
「進さん、見て、見て。これ、私たちの孫のゆづきですよ」
 節子さんはスマートフォンの画面を夫に見せる。孫のゆづきはエミューと並んでぶらんこの前で笑っていた。
「おぉ、大きくなったな。たくましくなったな」
 ふふふふ、また節子さんは笑う。
 隣の家の若い女の子は『節子さん、一人暮らしは怖くないですか? 淋しくないですか?』と心配してよく声をかけてくれる。
『怖くも淋しくもないのよ。友達が毎晩来てくれるしね』
 節子さんはたぬきの話をした。
『え? 節子さん、たぬきが亡くなった旦那さんに化けた姿を見て、悲しくなったりしないのですか?』
『嬉しいのよ。死んだ人にまた会えて。話をしていると、昔に戻った気がするし』
『へぇ、そんなもんですかね。節子さんの頭って、本当に若いですね。柔軟ですね』
 隣の家の若い女の子は、そう言って目を丸くしたが、年寄りの頭が固いだなんて嘘だ、と節子さんは思う。戦後の苦しい生活も、突然現れた冷蔵庫やテレビも、なんだって受け入れてきた。娘が若くして亡くなり、夫も亡くなった。沢山の死も、時間をかけてご飯を食べるようにゆっくりと飲み込んだ。最近はスマートフォンの使い方も覚えた。メールと検索くらいなら出来る。環境がちょっと変わったくらいであたふたしている若者の頭より、よっぽど柔軟性に富んでいるはずだ、と節子さんは考えている。
 節子さんは死んだはずの夫と縁側に座って、空を見上げた。風を感じ、木の葉が立てる音に耳を澄ませた。黙っていても心地良い。どこからか蝉が落ちてきて、腹を見せたままじいじいと地面を転がり、くるりと反転して、勢い良く飛んでいった。
「じゃあ、そろそろ」
 その声で隣を見ると、夫はたぬきに戻っていた。
「はい、たぬきさん、おやすみなさい」
 節子さんが言うと、たぬきはぽんと縁側から飛び降り、身体を少し左右に振りながらすたすたと歩いて庭のツツジの木の間に消えた。
 節子さんは、しばらくその木の間を見つめてから、よっこらしょと立ち上がり、風呂に入る準備を始めた。

 次の日、節子さんは『いきいき体操教室』の申し込み書を歩いて十分ほどの場所にある市営の体育館に持っていった。
 田舎の古い体育館では、ちょうどバレーボールの練習を若いママさんたちがやっていて、節子さんは入り口のドア横に立ったまま、床を踏むキュッキュッという音を聞きながら、背の高い女たちが動き回るのを眺めた。眺めているだけで自分までボールを追っている気になった。キュッキュッ、床を蹴る音に合わせて、節子さんも身体を上下に振った。
 受付には若い男が座っていた。申し込み書を差し出すと、男は記入事項をひとつひとつ丁寧に確認して、判子を押した。
「オッケーです。来週からいらして下さい。六十歳以上の方向けの講座ですから、お仲間も出来て、ゆったりと楽しんでいただけると思います。体調の悪い日は、休んで下さいね。連絡も要りません」
 若い男は誰かに似ていた。誰だったっけ? 節子さんは、ありがとうと言って受付に背を向け、歩きながら考えた。
 あぁ、近所に住んでいた幼馴染だ。ずっと好きだった健坊だ。よく勉強を教えてくれた。俯いて本を読む健坊と、俯いて申し込み書を見る受付の子の顔はよく似ていた。
 節子さんは振り返って、受付に座る男の顔をもう一度見た。身体の内側がどくんと波打った。
 健坊はいちじくが好きだった。亡くなった夫はいちじくが嫌いだった。健坊の家の庭にあったいちじくは甘かった。二人で庭にぺたんと座って食べた。もう長い間いちじくを食べていない。亡くなった夫ではなく、健坊と結婚していたら、私の生活はどう違っていただろう。
 節子さんは、アスファルトに反射する陽の光に目を細め、家まで歩いた。歩きながら、健坊のことを考えた。あぁ、久しぶりに健坊を顔を思い出したと思ったら、その顔は亡くなった夫、進さんの顔だった。
 
 その夜もたぬきは現れた。
 縁側に並んで座って、西瓜を食べ始めると、たぬきは亡くなった進さんに変わった。進さんは庭に向かって口をすぼめ、西瓜の種をぴゅっぴゅっと飛ばす。節子さんは、昔、この種飛ばしが嫌いだった。やめてよ、と進さんに何度も言った。今は気にならない。もうどうでも良くなった。
 そういえば、進さんから『生まれ変わったら誰と結婚する?』と突然、訊かれたことがあった。夕食後、西瓜を食べていたときだ。
 あれは、いつだっただろう。芸能人カップルが生まれ変わったら一緒になりたいと語ったことが世間で話題になったときだ。
 進さんとはお見合い結婚だった。親に薦められるまま、恋人もいなかった節子さんは、人生なんてこんなものだろうと思い籍を入れた。結婚生活も、こんなものだろうと想像していたとおりで、娘が生まれ、公務員として真面目に働く進さんに不満らしい不満もなく、まっすぐな線の上をそろりそろりと歩くように、毎日を過ごした。
『生まれ変わったら、誰と結婚する?』
 あのとき、突然の問いに、節子さんは慌てた。口の中の西瓜を慌てて飲み込んでむせた。ごほごほと咳をして、台所に麦茶を取りに行って、そのまま、返事をしないで終わった。
 進さんが亡くなったあと、節子さんはこの日のことを何度も思い出した時期がある。なぜちゃんと返事をしてあげなかったのだろう。もちろん、あなたよ、進さんともう一度結婚したいですよ、と言わなかったのだろう。そう考えて涙ぐんだ。
 今、節子さんは、隣に座る亡くなったはずの進さんの横顔を見る。
「ねぇ、進さん、生まれ変わったら、誰と結婚する?」
 進さんは、ん?というように眉毛を上げて節子さんを見た。
「なんだ、急に」
「進さん、私はね、進さんともう一度結婚したい。もう一度、人生をやり直したいって、ずっと思ってたの」
 たぬきが化けた進さんは、西瓜を手に持ったまま神妙な顔で頷いている。いや、進さんがたぬきに化けているのかもしれない、ふいに、節子さんはそう思った。最初からたぬきは進さんだったのかもしれない。
「でもね、進さん。ごめんなさい。もし生まれ変わることが出来たら、今度はたぶん違う人と結婚する。また同じじゃなくて、違う人との生活も経験してみたいって思うのですよ」
 進さんは、俯いた。肩を振るわせている。笑っていた。
「くっくっくっ。はぁー、面白い。うん、そうだな、次の人生は、お互い違う人にしてみような」
 進さんはそう言って、西瓜にかぶりつき、ぴゅぴゅと種を飛ばした。
「でも、そうだな、それまでは、生まれ変わるまでは、夫婦でいよう。この世でもあの世でも仲良くしよう」
「そうですね、進さん、そうしましょう」
 二人は笑った。夏もそろそろ終わるのか、じんじんと暑く動かなかった空気が、そわそわと移動し始めている。
「では、そろそろ」
 そう言って、縁側からぽんと飛び降りた進さんは、またたぬきに戻っていた。
 しっぽを振りながら、庭の木々の間に入って、いつものようにどこかに帰っていく。右肩を下げて左右に揺れる歩き方は、進さんそのものだった。どこに帰るのだろう。
「進さん」
 節子さんは、大きな声で夫の名を呼んだ。
 腰かけていた縁側から、素足のまま庭に飛び降りた。しっぽのあるたぬきが振り返ると、亡くなったはずの進さんに変わっている。いや、やはり、ずっと進さんだったのかもしれない。亡くなった夫だったのかもしれない。
 そんな細かいこと、もうどうだっていい。
 節子さんは手を伸ばして、進さんの腕をつかんだ。腕の骨は頼りないくらい細く、寄りかかりたくなるぐらい硬かった。節子さんは、進さんの腕に右の頬をつけた。
 二人を月が照らす。庭には、いくつもの蝉が腹を天に向けて死んでいる。
 季節が変わった。


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