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ラストオーダー 

 詩と暮らす、ってサイト知ってる?
 
 ちょうど一年前の朝、鏡に向かってネクタイを締めていると、妻がそう訊いてきました。
「詩と暮らす? 詩を投稿するサイトか? 知らないな」
 口早に返事をしながら、鏡越しに妻の顔を見ました。
 寝起きの化粧をしていない妻は、小さな虫みたいでした。透けるような白い肌なのですが、眉毛が薄く目も口も小さいから、とても寂しそうな気弱そうな顔に見えるのです。ぱんと叩いたらつぶれる小さな虫みたいだな、と思ったのを覚えています。
「そうね、知ってるはず、ないわよね」
 妻はそうつぶやきました。
 妻が、詩や短歌を書いていることは、出会ったときから知っていました。でも、出勤前の忙しい時間に、意図の分からない質問をされて、僕は少し苛ついていました。
 まだ詩なんて書いていたのか? 他にすることはないのか? なんて思って。
「今日は、取引先と食事があるから、晩飯はいらない。遅くなる」
 その朝の会話を打ち切ったのです。

 客の男はそう話すと、マティーニに口をつけた。氷がからんと微かな音を立てる。
 私はカウンターの内側に立って、グラスを磨きながら、男の話を聞いていた。
 客は彼ひとり。カウンターだけのバー。音楽もかけていない。空調の低いモーター音だけが、空気を振るわせていた。
 静かな寒い夜。

 その頃の僕は、仕事で不思議なくらい成功を収めていました。打つプレゼン全てで勝利して、社内でも社外でも、自分の評価がぐんぐん上がっていくのを実感していました。
 モテました。笑えるくらい。社内で、取引先で、飲みに行った場所でも、欲しいと思った女は簡単に手に入ったんです。
 そうです。あの日も、取引先と食事があると嘘をついて、女と会っていました。タクシーで帰宅したのは、夜中の二時頃です。
 そっと鍵を開けて、キッチンで水を飲み、寝室に行きました。シングルベッドを二つ並べた部屋なのですが、いつもならそこで寝ているはずの妻がいないことに気がつきました。
 部屋中を探しました。でも、妻はいなかった。リビングのテーブルの上にあった、この紙切れだけを見つけました。

 男はそう言って、私に便箋のような紙を差し出してきた。手書きの文字が並んでいる。目で読んで良いのかと問うと、男は頷いた。
『死と暮らす。わたしは死と暮らしています。死は無口です。死は無関心です。わたしは死を避けようとします。でも死は、寝返りを打つわたしを襲ってきます。死はときどきわたしの顔を覗き込みます』
 私は読んだ紙を男に返した。そして、男の空になったグラスを下げ、新たにジンとベルモットをシェイクしてカクテルを作った。

 僕は妻を探しました。この紙にある『死』という文字に、何度も責められ殴られました。お前は、何をしたんだと。
 僕は考えました。あの朝、妻が言った「詩と暮らす、ってサイト知ってる?」の『し』は、文学の『詩』ではなく、生命の終わりの『死』だったのではないかと。もしかしたら、自殺願望のある者たちが集まるサイトかもしれないと。
 ネットで『死と暮らす』『詩と暮らす』両方のサイトを探しました。そんなサイトは見つかりませんでした。
 恥を忍んで、妻が残したこの詩のような遺書のような文章を人にも見せました。
 その中のひとりが、この文章の『死』は、『夫』『終わった愛』『悲しみ』ではないか?と、言ったのです。
『死と暮らす。わたしは終わった愛と暮らしています。夫は無口です。夫は無関心です。わたしは終わった愛を避けようとします。でも悲しみは、寝返りを打つわたしを襲ってきます。悲しみはときどきわたしの顔を覗き込みます』
 そういう意味では、ないかと。
 僕も何度もこの文章を読みました。あの頃の妻に対する自分の態度を考えると、きっとそういう意味なのでしょう。今は、妻の、この文字が流す涙が見えます。

 私はグラスを磨き終わったので、アイスピックで氷を割りながら男の話を聞いた。男は、別に私の意見を望んではいないようだったので、黙って自分の仕事をしながら、耳を傾け、ときおり頷いただけだ。

 妻が消えてから、仕事での失敗が続くようになりました。僕のすることなすこと全てが暗闇に落ちていきました。
 何度も妻の顔を思い出すのです。あの朝、鏡越しに見た、白い顔。小さな虫みたいだと思った顔を。
 ふぅ。少し酔った気がします。最近、どれだけ飲んでも酔えなかったのですが、今日は、気持ちが良くなってきました。不思議ですね。
 マスター。もう、なぜ僕がここに来たのか、お分かりですよね?
 教えてください。ここの店名『シトクラス』はどういう意味なのですか?

 私は、氷を割る手を止めて、男の顔を見た。男の目の周りがほんのり赤くなっている。
「私が考えた造語です。涅槃ねはんの、涅槃ねはんの意味は分かりますね? 悟りの境地に入ること、転じて、死ぬことを意味します」
 男が頷いたのを見て、私は話をつづけた。
「シトクラスのシトク、四徳は涅槃ねはんの四つの徳です。常・楽・我・浄。そのシトクにラストのラスをくっつけたのです。四徳とラスト、シトクラス」
 私が説明すると、男は店に入ってきて初めて笑った。その笑顔は、探していたものを見つけた子供のような、喜びに溢れた顔だった。
「やっぱり。僕が考えたとおりだった。シトクラス、あのサイトに辿り着くのに、一年かかりましたけど」

 シトクラスってサイト、知ってる?

「そして、あのサイトから、この店に辿り着きました。シトクラスは、涅槃ねはんへの最後の場所、この意味で合ってますか?」
「ご自由に想像してください」
 私は、また氷を割り始めた。静かな池の底のような店内に、氷の砕ける音が響く。
 カウンターに座る男は、半分目を閉じたような顔で、マティーニを飲んでいる。
「僕は、妻に会えますかね?」
「さぁ」
 私が応えると、男はふぅっと息を吐いて、目を大きく見開いた。その顔は、迷いのないすっきりとした顔に見えた。
「じゃあ、最後の一杯をいただけますか」
 男が意を決したように言う。
 私は、男の目を見つめて、念を押した。
「ラストオーダーになりますよ」
 男は……妻がいなくなってからの一年間、死と暮らした男は、口元に笑みを浮かべて、はい、と応えた。
 
 

 参加させていただきます。  
 お題 #詩と暮らす
 2023.11.26 新作


 
 
 
 

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