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畳の上の冒険。

3週間近く、毎日昼食後から日暮れ近くまで、リビングの畳の上で横になって過ごしていた。

14時頃からテレビ朝日でドラマの再放送があり、西村京太郎原作のものや「おかしな刑事」などの2時間ドラマ、または「科捜研の女」や「相棒」シリーズなど(もう何度も見た話ばかりだけど)を昼食をとりながら見始めて、食後に寝転んでしばらくすると俳優さんの声が遠くなり、気付いたら夕方に…という繰り返し。

仕事は午前9時から13時半ごろまでと夕食後から深夜0時ごろまで行い、買い物や図書館へは日が暮れてから出かけた。
一度だけ映画を見に行った日は、20時過ぎの上映がある作品を選んだ。
夜は布団に入るとすぐに眠気がやってきて、毎晩ストーリーがしっかりした夢を見た。

水木しげるの漫画に「海じじい」という作品(ちくま文庫『妖怪ワンダーランド1  ねずみ男の冒険』などに収録されている〈なまけの与太郎シリーズ〉の1つの話)がある。
与太郎という少年がある日、海で泳いでいる最中に屁をこいて、知らず知らずクラゲにかけてしまった。「それからというもの体がばかにだるい」ので医者にみてもらったが原因がわからず「横着病」(なまけている)と言われてしまう。
これじゃぁぼくは、やりきれないな」と思っていたところに「妖怪研究家」を名乗るねずみ男があらわれ、「大きなクラゲには昔から〈海じじい〉という妖怪が乗っていて、それに屁をひっかけたので怒ってお前の背中に乗っかったのだ」と診断される。
ねずみ男にうながされて近くの池に姿を写すと、「背中になにかおぶさっている感じ」だと思っていた与太郎の背中には、実際、海じじいが乗っていたのだった。

私のだるさも、ちょうどそんな感じ(上の太字部分)だった。
一応、ねずみ男が1万円と引き換えに与太郎に教えた「海じじいを取り去る呪文」(ハパラキピリ アララマラゲニア トロロスパゲティ)を小声で唱えてみたけど効果はなかった。

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症状は明らかに夏バテ。
体力と時間を使う仕事が長めに続いて、それがやっと終わって久しぶりに外食してお酒を飲んだ翌日からだった。

アパートの部屋に標準装備されたエアコンの冷風は、設置された壁からすぐ正面の壁と本棚に当たって、奥の仕事部屋まで行き当たらない。

以前からエアコンのある部屋では〈28〜29℃「風量:しずか」〉に設定していても寒く感じるので、そちらで作業する時には小さな湯たんぽをお尻の下に敷いたり(仙骨付近をあたためるため)、上に一枚羽織ることも多い。
それなのにパソコン作業をする奥の部屋は蒸し風呂状態。
引越し前に大家さんが「奥の部屋にエアコンを追加設置する場合は室外機をどこそこへ…」とおっしゃっていたのに、面倒なので前の住まい(一軒家)にエアコンを残してきた(寄贈した)私。
「今度は二間続きの狭いアパートだから一台で十分だろう」と高をくくっていた。
くそぉ。過去の自分を叱りたいし、エアコンの設置位置があともう20センチ左に寄っていたら奥の部屋に風が届いたのに誰がつけたのコレ…という不満が湧いてくる。

不満といえば給湯器の不具合もその一つで、去年も今年も夏になるとシャワーが途中から水か熱湯かの両極端になってしまう。序盤は設定温度よりは高めながら「まぁなんとかいける」レベルだけど、例えばシャンプー途中に熱湯に近づき、あわてて手動で水を少しずつ追加すると一時的に適温になるものの、トリートメントを流す頃に水になってしまう。
湯船にお湯があれば桶ですくって洗髪すればよいが、シャワーだけで済ませたい日にはとても不便。
大家さんにはこれまでシロアリ発生、郵便・宅配物の誤配トラブル、近隣住民のゴミの散乱、浴室の換気扇故障、水道管(給湯器からの)破裂などでお世話になるというか謝罪をされ、その都度お菓子などをいただき、そのほかお正月飾りのお花をいただいたり、色々と気遣っていただいた上に長らく体調を崩されて「庭の手入れもできなくて…」と恐縮されていたので、これしきの状態(温度が一定でないもののお湯は出るし、不具合は5回中2回程度なので業者の方が来ても「お湯出てますよね」と言われそう)で文句を言うのもなと思い、秋になれば解消するかも、と希望を持ちつつ今に至る。

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朝晩に仕事をしているので対世間的には普段通りで、自分が部屋で日中どう過ごそうが誰にも気づかれないし咎める人もいないと分かっていても、ウダウダしている時間に天井を見つめているとき、あるいは長い昼寝をしてしまった後味の悪さはじわじわと自分を追い詰めていった。何やってんだ、自分。こんなトシになって、今こんなんで、私の人生なんなんだ。きっとこのまま死んでも誰も気づかない。
いや、取引先の人はさすがに気付くか。
なんて、全然自分では思ってもいないのに、そう思っているようなフリをしてしまう。

そんなある日、(昼間は体がだるいので)夜の上映回を観に出かけた映画館併設のカフェの本棚で絵本『じごくのそうべえ』(田島征彦/童心社 1978.5.1)を見つけて久しぶりに開き、その近くにあった『そうべえごくらくへゆく』(田島征彦/童心社 1989.10.20)も読んで、とにかく面白くて、登場人物たちの脱力っぷりと旅する地獄や極楽のスケールの大きさに思いっきり心がほぐれた。

他にもそこで絵本を数冊見たことで気分が若返ったのか、翌日から「今の私は夏休み中なのだ。海外の人がバカンスとか言って、長期休暇をとって海辺でぼんやり過ごしているではないか。あれを今、自宅でやっていると思えばよいのだ」と心で唱え、昼間は堂々とだらだらして、徹頭徹尾のんびりすることに決めた。

それまで、ドラマを見ながら寝落ちして(テレビをつけっぱなしにしていて)後ろめたかったので、以後は紙の本を読むことにして、数ページ読んで寝落ちしても自分を責めないことにした。

昼食後は子供の頃、布団を「筏(いかだ)」に見立てておもちゃや漫画を載せて寝転んで空想の旅に出たように、リビングの置き畳を小舟に見立てて、コーヒーやブランケットや旅にふさわしい本を持って川下りをするイメージを頭に描いて座るようになった。

それから約1週間。色々な本を読んで時間を過ごしたけれど、「夏休み」の最後に畳の小舟で読んだのは、『ムーミン童話シリーズ』だった。

10年以上前に古書店に売ったので記憶は少しおぼろげだけど、好きな話の中で季節的にも合いそうな「ムーミンパパ海へいく」とシリーズの最初の話「ムーミン谷の彗星」を読み返したいと思い、ネットで全巻セットを買おうか迷って、結局図書館で借りてきた。

読みはじめてすぐに、ああ、これでもう私は大丈夫、と安堵して、その後体調も急激に回復した。いや、急に良くなったというか、その時点で3週間ほど経っていたのだけど、ムーミン童話を読んでいると夏休みの終わり感が強くなったのは事実だった。「さぁ、もう起きて仕事しよ」と気分が変わったというか。

ムーミンシリーズには、スナフキンのように「誰が見ても素敵」な存在も登場する一方で、「なぜそんな」と顔をしかめてしまう、うとましいキャラや、できれば家には来ないで欲しいし、そうしょっちゅうは会いたくないような、面倒くさいことばかり言う誰かも出てくるのだけど、それがいい。
私も人から好かれたり歓迎されるというより、どちらかというと敬遠されることが多いし、協調性に欠けているので、自分にどこか似たような、いや自分より頑固でひどい振る舞いの誰かが、それでもムーミンたちと同じ空間にいて排除されないとわかって、なんだかホッとするのだった。

たとえば「ムーミンパパ海へいく」で、旅の途中(海の上)で釣り人に出会い、目的地についてムーミンパパが尋ねるものの、相手は〈こっちをむいてみんなをみて、それからまっすぐにむいてしまいましたーものをいおうともしないで。(本文より)〉
ムーミンパパはあきらめずに質問を続けたものの、彼はだまってそばを通りすぎて、ただ、その場に何か不穏なひとり言を残していっただけ。
「あの男はすこしへんだな、そうじゃないか」とムーミンパパが家族に言うと、
だけど、わたしたちの知っている人たちって、たいていあんなものよ。多かれ少なかれ」とムーミンママはこたえる。

子ども向けの童話だからって、テレビCMみたいにほがらかな人ばかり出てこないのがムーミンの世界だった。
現実社会で私が出会う好ましくない何か、不安になってしまう何か、理不尽な何かと同じような脅威をムーミン一家の誰もが常に抱えていて、その上でそれぞれ自分を大切にしながら好きに行動しているのが良いのだった、そうだそうだった。

ムーミンシリーズを借りてきて数日で復調したので、実は「ムーミン谷の彗星」は読了したものの「ムーミンパパ海へ行く」の方は5分の1も読めていない。
このあとは昼間ではなく寝る前に少しずつ読むとして、文庫の解説ページからフィンランド文学者・高橋静男さんの文章を一部引用したい。

ムーミン谷には、容姿、欲求、性格、生活習慣、感覚を異にする、多くの種族の無数の生物がすみ、欲望が渦巻き、悩みも多く、いきいきと生きていけなくなる生き物が続出しています。また、ムーミン谷の住人は、大洪水、火山爆発、地震、竜巻、彗星と地球との衝突などの天変地異にみまわれ、異族の侵入を受け、(中略)魔ものと遭遇し、たえず、生命の危険にさらされています。したがって、ムーミン谷は、肉体的・精神的危機をかかえているという点で人間世界と似ているといえましょう。
(中略)
ムーミンたちとムーミンの友だちは、これらの危機を、解決するんだという意志によって解決したのではありません。自由勝手に動き回るだけです。つまり、自他のいのちをいつくしむ感覚を深くした自由人と、自分のいのちを燃焼するよろこびを感じている半自由人が、独特な個性を発揮して「わが道」を生きまくるだけです。(後略)

『ムーミンパパ海へ行く』(トーベ=ヤンソン/作・絵 小野百合子/訳 講談社 青い鳥文庫1985〜1998)、「ムーミン感覚」高橋静男の解説より

私は、今年のはじめにある目標を掲げていた。
それは、「小3の頃の自分の感性でもう一度新鮮に生きてみる」というもので、周囲の目や空気を気にしたり、自意識過剰になったり、虚栄心のようなものが芽生える気配さえなかった小3あたりに戻って素直に何かに感動したり、ちっぽけな自分のことを恥じることなく広い世界を眺めていたあの頃の心で今を生きてみたいと望んだからだった。
けれど、現実社会を生きて、ニュースに触れたりSNSで情報を得ているうちに、それはどうにも難しい試みだと感じて、むしろ日に日に自分の心がくたびれてゆく気がしていた。

そうして気づいたら半年が過ぎていて、夏バテになって、家にこもって昼に寝て過ごす日が続いたことで、「じごくのそうべえ」をきっかけに、久しぶりにムーミンシリーズも読むことができて、小3の頃の感覚、かどうかはともかく、今の新自由主義社会の中で抱いてしまう世間への嫌悪感、自分自身の焦りや他者への無関心、将来への不安、絶望感、などから少し心が解放されて自由になれた気がした。

パソコンの再起動やソフトウェアアップデートのように、人間にもたまにそうした機会は必要なのだな。それが今回の夏バテだったのだろうと思います。
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【おまけ】

ムーミンシリーズを読む前に、畳の上で読んだ本と夏バテ後期に買った本をちょこっとご紹介。画像の中で新刊本は4冊。後は古本です。図書館で借りたものは割愛しました。

1.夏バテになる前に出先で装丁(イラスト)に惹かれて買ったもの。
『これはペンです』(円城塔/新潮文庫 2014.3.1)。
よ、読みづらい。いや、日本語としては分かるのだけど、とても変わっている。内容が頭になかなか入ってこないのだけど、嫌じゃないと言うか、謎の懐かしさを覚える。
「文章自動生成プログラムの開発で莫大な富を得たらしい叔父から、大学生の姪に次々届く不思議な手紙」(出版社の説明文より)で構成された作品で、2011年に単行本が出ていることから、文章生成AI「ChatGPT」が話題になっている今よりずいぶん前にこの作品を書かれたことに驚く。
ふと、「村上春樹の小説と真逆にあるような作品世界だな」という印象を持ったので「円城塔 村上春樹」で何か出てこないかと検索したら、あるインタビュー記事に行き当たった。
大学当時の読書生活について聞かれた円城さんは、村上春樹さんと村上龍さんを知り合いから勧められて、どちらもその頃出ていたものを全部読んで「うん」と思って、(どちらも)中断中です。と話しておられる。自分には合わなかった、とは決して言わず、「うん」と思って、中断中(またいつか読むかもしれない可能性を残した表現)、とする言葉のチョイス、ニュアンスが素敵!(WEB本の雑誌のインタビューから少し引用。よかったら記事本編へどうぞ)。出会えてよかった。

2.夏バテ中の久しぶりの外出で買ったもの。すでに2冊著書を読んでいた頭木さんの編訳書、『絶望名人カフカの人生論』(カフカ/頭木弘樹 編訳 新潮文庫 2014.10.8)。
カフカが書き残した自虐的な言葉や愚痴、父への恨みなどが綴られた日記や手紙などの内容を紹介した一冊。ここまでマイナスモードを突き詰められると、いっそすがすがしい。
編訳の頭木さんは大学3年生の時に難病になり、それから13年間、入院しているか自宅に引きこもっているかの生活を送りながら、カフカの日記や手帳を支えにしてこられたそうで「絶望しているときには、絶望の言葉が必要」と書いておられる。
体と心が重だるく、自分を責めてしまいがちな時期に読めてよかった。
だけど死後に遺稿をもとに苦労の末に本を出版してくれる親友がいたり、別の人と結婚後も大切に手紙を残してくれる元婚約者がいたカフカが羨ましくもあった。

3.書店でのインタビューイベントに出かけて、マイペースで少し風変わり、けれどとても魅力的な著者のお話を伺って、大いに刺激を受けてイベント後に買って読んだ一冊。『芝浦屠場千夜一夜』(山脇史子/青月社2023.4.4)。
品川駅からほど近い芝浦の食肉解体の現場に通い、その場で働く人たちに魅せられて、現場で起こるすべてを五感で受け止めたいと、自身もフリーライターをしながら働き(内臓の処理現場には著者以外に女性がいなかったとか)、何年経っても記事が形になることがないまま、著者が見聞きし経験した全ては心の中にしまわれたまま時は流れたが、ある時そこでお世話になった恩人が亡くなり、その人の言葉や存在そのものを自分が残さねばと、過去の記憶を呼び戻して書かれた(なのについ昨日の出来事のように、鮮やかに再生されている)私小説的?ルポ。
読んだのは夏バテの前。とても面白くて、作業の描写や会話の流れに引き込まれた。全然本の内容そのものとは関係ないことだけれど、私も昔やりかけて手ばなしてしまったこと(テキスタイルデザイン)を、もう一度やってみようかな、という勇気がわいてきた。

4.近所の美術系古書店で、お洒落な画集やデザイン系の本の中で、かろうじて自分にも読めそうな本を見つけて買った『ヘンな日本美術史』(山口晃/祥伝社 2012.11.1)。これも夏バテの前に買った本だけど、体調を崩してから読むととても心和んだ。「下手うま」ではなく「下手くそ」と評して様々な作品の下手さの質、種類を事細かに説明してくれたりする部分が面白くて。まさに私の理想とする「小3の時の素直な感覚」でものを見ることに近づけそうな一冊。

未読のものは、体調が回復した当日に近所で買った『ひとりでカラカサさしてゆく』(江國香織/新潮社2021.12.20)と、『今、何かを表そうとしている10人の日本と韓国の若手対談』(株式会社 クオン2018.3.31/著者は表紙画像を参照)の2冊。

5.以前買っていた『この町ではひとり』(山本さほ/小学館 2020.6.30)。
人生の中で、体験せずに済むのならどれだけ幸運だろう、と身震いせずにいられない。ある街で過ごした日々のツラい出来事(と、その時のご本人の自責感情)を漫画にしたもの。
読んでいて、どうにもつらい。
作者の実体験は、私自身に起こった過去の嫌な出来事に少し似ている。けれど私のそれをグッと濃縮したような重さ、痛さ、傷の深さだ。
ただ、理不尽な目にあって今思い出しても怒りのやり場が見つからない自分にとっても、「そうそう、世の中にはこういう嫌な人たちがいるんだよねぇ」「世間的に感じが良いとされているあの人があんなに意地悪だなんてヒドイね」と誰かと分かち合えることは、救いでもある。
先述の「カフカの人生論」の後書きでは、キルケゴールの日記を読んで、カフカが日記にこのようなことを書いていると紹介されていた。

彼の人生に起きたことは、ぼくの場合と非常によく似ている。
少なくとも、彼は世界の同じ側にいる。
彼は友達のように、ぼくの肩をもってくれる。

『絶望名人カフカの人生論』(カフカ/頭木弘樹 編訳 新潮文庫 文庫版編訳者あとがきより)

山本さほさんのこの作品を読んで胸が痛くなった後に、ムーミン童話(様々な危機にさらされても、何もしないで自由勝手に動き回り「わが道を生きまくる」だけ。それでいいのだと教えてもらえる)に再会できてよかったと一層思う。

6.山本文緒さんの『無人島のふたり』(新潮社 2022.10.19)を読むのは二度目。
まさに、上のムーミン童話の解説にあったように、さいごまで「わが道を生きまくる」ことを貫き、端正で力強く、だけどふんわり、柔らかな素材の布のように優しい言葉で綴られた日記は、たぶんまた読み返す一冊。

たまにいろんな本を読むのはいいもんですね。
それにしても暑い。夏が終わるまでに、あと何回か夏バテしそうだ。