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経済近代史③

今日の続きは、大和銀行事件からです。
 大和銀行は、元々は両替商から証券業に参入していた野村商店(株式仲買業)が
1918年に商業銀行として大阪野村銀行を創立しスタートしました。
1925年にが成長した証券部門を分離し(野村証券株式会社)、野村財閥の中核として商業銀行を営む事となります。(この時、野村銀行に社名変更)

この頃の日本経済は第一次世界大戦時の好況から一転して不況となり、
さらに関東大震災の処理の為の震災手形が膨大な不良債権となっていました。
 昭和金融恐慌と呼ばれた時代でした。

(この時代の話としては当時の蔵相の失言で潰れてしまった銀行や戦前の日本屈指の商社、鈴木商店の倒産などがあります。)
この恐慌で多くの名門銀行が姿を消す中で、野村銀行は大阪の豪商が母体として
明治以降に銀行業として発展してきた地元の銀行の営業を一部譲り受け、業務内容を拡大し、15大財閥の一つとして発展を遂げていきました。

恐慌後の銀行合同整理の中でも野村銀行は独自路線を堅持したまま、野村信託銀行を合併し、国内第一号の信託併営銀行となりました。
また、この時代から今も引き続き行われている大和銀行(現:りそな銀行)の
業務の一つに行政の金庫番(金庫事務)を行っているという事です。
他の銀行が非効率さを理由に断っていた行政の金庫番。しかしながら、金庫事務の公共性と銀行の信用力の増大に着目し、大和銀行(現:りそな銀行)は現在も単独で大阪府指定金融機関の役割を果たしています。

戦後、GHQの財閥解体によりこの野村財閥も解散。野村銀行自体も銀行名の変更を余儀なくされます。行員から広く案を募りました。
 大和銀行行史では「文字として平明であり、『だいわ』と読む語呂の
おだやかさが親しみを感じさせ、役職員に愛着を深め、
またその意味は聖徳太子の憲法『和を貴ぶ』の精神から来ている」と説明されています。

昭和30年代に入り、信託の専業主義の考え方による大蔵省(現在の財務省)の
信託分離の勧めにもかかわらず、大和銀行は信託併営を維持しました。
これは、当時の頭取 寺尾威夫氏が「信託併営は、金融機関の大衆化、
機能の総合化にマッチし、顧客に幅広いサービスが提供できるため時代の要請に合致している」と強硬に主張し信託分離化も頑なに拒んだのです。

大蔵省はこれを「盾を突いた」と判断。業を煮やした当時の大蔵省の高橋銀行局長は、
衆院大蔵委員会で「大和銀行が信託部門を分離した場合、都市銀行として銀行業務だけで存立できるかどうかわからないが、一行だけ兼営させるわけにいかない」、「大和銀行の9月期決算は悪いので、大蔵省は経営全体について厳重に指導している」との答弁を行いました。

これは、銀行の信用を著しく傷つけ、経営基盤も揺るがすような発言を当時の銀行の監督省である大蔵省の局長が行ったのです。
(これは、先の昭和金融恐慌で、うっかり失言をしてしまった為に東京渡辺銀行が倒産したのと同じような感じ・・・。)

 当然、大和銀行は大蔵省にかみつきました。
この大和銀行と大蔵省の争い(ケンカ)を自ら買って出たのが当時関西経済同友会の代表幹事であった、日向方斉です。
日向は関西同友会、関西経済連合会に呼びかけて、大和銀行側に立って大蔵省の横暴ぶりを正しました。日向の考えは、「普通銀行に信託兼営をやめさせようとするならば、金融制度調査会の答申を経て、法律化するなどの手続きをとるべきであるにも関わらずこれらの作法もとらず、一銀行局長のあいまいな行政指導で、私企業の経営の根幹をゆるがすような業務分断を強行するのは、行政の行き過ぎである。」というものでした。

 日向が掲げた正論の前に大蔵省は、それ以上の行政介入ができにくくなり、結果として大和銀行は信託を分離しないで済み、都市銀行の中で唯一信託兼営を守り通しましたが、怨恨得深くこれが為に大蔵省から睨まれ、「他都銀と同じスタートラインにない」として、新規出店で認可を出し渋るなど、不利な扱いを受けたとも言われています。
 

 そして、この日向の行政への不信感と反発感はこの大和銀行事件の半年後、
住金にも対しても何かと行き過ぎた行政指導を行う、通産省にも火の粉が飛ぶ事になりました。

さて、この大和銀行事件を調べるにあたり、大和銀行の祖を確認すると、江戸時代の大阪の豪商が明治維新以降、雨後のタケノコのように銀行業、証券業を行った事、それから、やはり歴史に名を残す人たちは必ず、不思議な出会いと「ご縁」がある事。特に近代日本における人脈は、明治維新以降の日本の基盤をつくった大物揃いで調べていくこともわくわくします。偶然ではなく、必然の出会い、必然のできごとなんですね。
 そして、次回は、「住金事件」です。 引き続きよろしくお願いします♪




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