見出し画像

KOJIKI<まほろば④>

垂仁天皇にあづけられた、沙本毘売命の忘れ形見である本牟智私気王(ほむちわけのみこ)の御子はたいそう大切に育てられてたのですが、顔にお髭が生え鬚、が心臓のあたりに届くくらい大人になっても、言葉を発せません。わずかに空を飛ぶ鵠(くぐい)をみてわずかに「あぎ」とカタコトをいうばかり。

息子可愛さに、垂仁天皇はその鳥を息子のそばにおけば、息子は言葉を発するかもしれない、と思い、家臣にその鳥を追わせました。命じられた家臣はなんとまぁ、紀伊国、播磨、因幡、丹波、但馬、近江、美濃、尾張、信濃、越と鵠(くぐい)を追いかけ、ようやく罠を仕掛けて捉えて、献上しましたがそれを見てもやっぱり御子ははかばしく喋ってはくれません。

鵠・・・。白鳥の古い名だそうです。

画像1

大切な息子が言葉を発して喋ってくれない・・・。天皇はとても心配しました。どうすれば、御子は言葉を発してくれるのだろう・・・。

ある時、垂仁天皇が寝ていたときに夢に神が現れて「私の宮を天皇の宮と同じように整えたなら、御子はきちんと言葉を発するであろう。」と仰せられたのです。

びっくりして、占いをして神の正体を確かめたところ、これは出雲大神の祟りであるということがわかりました。ことのきの占いを太占(ふとまに)と言います。古代文字の中でも、この太占文字というもがあります。

これは天皇家に対して、一方の出雲の神の霊威の強さを感じます。「地の國」でもお伝えしたように、天皇家と出雲の国造家のご結婚はこの時代から現代にも繋がっています。

 さて、垂仁天皇は御子を、出雲大神の宮に参拝させることになりました。これは出雲の大神(大国主命)のお宮に拝みにいくことにしたのです。お供には曙立王(あけたつのみこと)と菟上王(うなかみのみこ)の二人がお供につきました。この二人は四道将軍のお一人、日子坐王(ひこいますのみこ)の孫にあたります。

出雲についた一行は出雲大神を参拝しました。

出雲の大神を拝み終えた本牟智私気王を斐伊川の中州ににわか作りの宮をつくり籠らします。出雲国造の祖先である岐比佐都美(きひさつみ)が、川下に青々とした木々を山のように飾り、お食事を献上しようとした時に、

御子は「青葉の山に見えるのは山に見えるけれども山ではない。もしや、出雲のいわくまの曾の宮にいます葦原色許男(大国主命)の大神の祭場ではなかろうか。」と言葉を発しお尋ねになったのでした。

 その言葉を聞いた供の二人はびっくりし、とても喜んで、すぐさま使いを垂仁天皇のもとに送られました。「若君が喋りましたよー!!」そして、天皇はようやく出雲に宮を造営させたました。

ところで、出雲に参拝した御子は一夜を斐伊川で岐比佐都美(きひさつみ)の末娘、肥長比売(ひながひめ)とすごすことになりました。ところが、肥長比売をのぞき見ると・・・。その姿は蛇だったのです!あー、また、覗き見てしまったのですよね。のぞき見するの、好きですねぇ😓😓😓

 本牟智私気王は一目でおそれをなして逃げ出しました。傷付き悲しんで肥長比売は海を照らしながら、船で追いかけてきました。むむむ・・・?どんな経路で???本牟智私気王はそれをみてますます恐くなって大和に逃げ帰ってきたのでした。

 しかし、垂仁天皇は本牟智私気王が無事に戻ってきたので大喜び。天皇は御子のために鳥を捕える役割を担うものを鳥取部、鳥を飼う役割を担うものを鳥甘部、御子が出雲への旅で訪れた土地ごとに、御子の名を受け継ぐ名代として品遅部の民も定めました。

画像2

求院八幡宮にある鵠神社です。本牟智私気王を祀っています。本牟智私気王は皇太子に準じる扱いなのですが、母親が夫である垂仁天皇に対して謀反に荷担してしまったため、皇太子にはなれませんでした。

さて、鳥を捕える役割を担うものを鳥取部が住んでいたことから、いまの「鳥取県」の名前がついたそうです。

この資料がなかなか面白かったのでオススメです。

https://www.cgr.mlit.go.jp/tottori/tono/25shisanmeguri/pdf/geosite.pdf

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?