パーフェクトアンサー、人はなぜ年をとると健康の話が好きになるのか?
人は、年をとると健康の話が好きになりますよね。
わたしはその謎を解いてしまった。
短い記事になるかもしれないが、共有せざるを得ない。
皆さんは、若いころはどういう話が好きだっただろう?
10代、20代のとき、仲間とどういう話をするのが好きだったか?
どういう子と付き合いたい、どういう自分でありたい、どういうことを成したい(どういう仕事をしたい)。
そういう感じの、将来に向けてのドキドキする話ではなかっただろうか?
そういう話をして、仲間と盛り上がったはずだ。
それがなぜ年をとると、健康の話ばかりするようになってしまうのか……。 年を取るって嫌だね。という思考の流れになるのではないだろうか。
実はそれは違う。
興味の対象は、若いころと何ひとつ変わっていない。
もう一度若いころの関心事を振り返ってみよう。
コピペになるが、
「どういう子と付き合いたい、どういう自分でありたい、どういうことを成したい(どういう仕事をしたい)」。
これらはすべて「未知の不安」について語っている。
不安だからこそ、ドキドキもし、仲間と話すと共感できたり、ヒントが得られたり、非常に盛り上がる。
これがたとえば50代になるとどうなるか?
どういう子と付き合いたい ⇒ もう結果が出てる
どういう自分でありたい ⇒ ガチガチに固まっている
どういうことを成したい(どういう仕事をしたい)⇒ かなりの精度で天井感がわかっている
これらはもはや未知の話ではないのだ。
すべての結果がわかっている。新たにアップデートされることなど何もない。
すべては色あせ、固定される。
酸いも甘いも知った大人には未知の話など残されていないのだろうか……。
いや、ある。
自らの身体だ。解き放たれたファンタジー、壮大な一大叙事詩。
ロード・オブ・ザ・俺。今が旅立ちのときだ。
マジでこれどうなってんの? 謎の痛み、謎のせき、謎の不快感。
内なる森羅万象に驚きの連続となる。
若いころと、仲間と盛り上がるための構造は何も変わってなくて、未知の不安の対象がスライドしただけなのだ。
仲間と話せば、共感できたり、ヒントが得られたり、非常に盛り上がる。
生死がかかっている。そのドキドキ感は、自分がどうありたいかなんていうポエムレベルの悩みとは比較にならない。
だから、健康の話は楽しいに決まっている。
そう考えると大人になるのも悪くない。
「生死」という少しきつめのスパイスがかかっているけれども。
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