見出し画像

魔法少女はメタルを聴く 第5話「意味のないことなんて、ひとつもないと思う」

レイに、彼氏ができた――。
彼女からそう告げられたとき、天空からまるで、トール神の巨大な槌が振り下ろされたかのように、大きないかずちが落ちた。いかずちは、空をまっぷだつに切り裂き、わたしを引き裂いた。

いつのまに!
まあ、彼女はライブに行ったり、オフ会に出かけたり、実家も大学からわりと近くにあって地元がこのへんだったりと、わたしよりは活動範囲が広かった。
けど、けど――、
「メイデン、ごめんね、いままで黙ってて。ほら、メイデンがすごく頑張ってたから水をさしたくなくて。半年前からなの」
半年もまえ!
「彼、すごく気が合うのよ。それで、音楽の趣味まで同じだから、ご飯を食べにいったり、音楽の話をしたり、一緒にライブを観にいったりして。おしゃれだし、恰好いいんだ」
かっこいい!
「どこの人?」
質問で、必死に動揺を隠す。
「栃木の出身で、いまは都内の大学院生なの。わたしの家から彼のアパートまですぐよ」
「大学院生ってことは、あたまいいんだ」
「そうだと思う。彼のいる研究室はね」と、彼女は区切るようにして読み上げていく。「東京大学、大学院、工学系、研究科、電気系……、続きは、えっとなんだったかな」
「ちょっと! 東大生?」
「そう、理系のむずかしい研究室にいるんだけど、長いから、すぐ忘れちゃうんだ。あ、ラインで訊いてみようか」
「いや、いい……」
おめでとう、とわたしは言った。表向きそうは言いつつも、帰宅してから、ショックのあまり寝込んでしまった。
裏切られた気がした。
なんであの子に? なんで? なんで?
わたしのほうがずっと美人だし、スタイルもいいし、常識だってちゃんとあるのに。

翌日わたしは、下北沢におぎわらさんに会いにいった。おぎわらさんは魔法少女研究会のOBで、現在その場所に、攻撃的なデザインのアイテムを扱う洋服店をかまえている。自身はメタルというよりはパンクの恰好をした、細身の、かっこいいお姉さんだ。思わず、ねえさん、と呼びたくなる。
こうして自分のなかの何かが揺らぎそうになったとき、わたしは彼女を訪ねている気がする。いつだって彼女の芯はぶれない。彼女に笑い飛ばされれば、小さな悩みなんて吹き飛んでしまう。

――そう、あの衝撃の出会いの日から、わたしはたびたび下北沢に足を運んでいた。
わたしが彼女を慕っているように、彼女もわたしのことを気に入ってくれたようで、立ち寄るたびに、相談に乗ってもらったり、音楽の話をしたりする。
なお、おぎわらさんは、人も物も好き嫌いがはっきりしていて、それを平気で口に出すため、わたしは単独行動を心がけている。リカさんを変な方向に何倍も濃くしたようなレイは、きっと彼女の感性と衝突する。もっともレイは、このごろ忙しくて、それどころではないようだったが。それがレイの、例の、レイの彼氏だったわけだが。……ちょっと壊れてきたようだ。

しかし、今日、
――友人に彼氏ができたんです。わたし、どうしたらいいでしょう?
とはさすがに言えない。
なんて馬鹿げた質問だろう。自分で考えろ、と突き放されるのが落ち。だからそこには触れず、普段どおりのたわいない話をした。それだけで充分な量のエネルギーがもらえる。

おぎわらさんとの会話は楽しい。それにためになる。魔法少女研究会に関して、これまでもこんな話をしてくれた。
――最強にして、最古の魔法少女、謎の人物ロウィンについて。
「わたしはこう見えても数学科だったんだ。工学部校舎はとなりだったからね。けっこううわさは聞いてる。いいうわさじゃない。アドバイスなあ……。逆らわないほうがいい」
まあ、けっきょくは謎なのだが。
関連して、
「たしかに最強の魔法少女には違いない。けど彼女は、魔法少女研究の創始者であると同時に、自分はそのプロトタイプなんだ。だから、いまの魔法少女とは違っている。研究は進んでいくものだろ? それでもわたしらのころには、今のシステムがほぼ確立されてたみたいだけどな。ちなみに、わたしは七期生。リカのいっこあとだ」
よくはわからないが、その理屈だと、リカさんも今の魔法少女とは微妙に異なることになるのだろうか。

そして今日は、もっとも成功した魔法少女、水泳の金メダリストである水島選手――コードネームはディーパさん――に関して、以前リカさんに断られたお願いをしてみた。ずばり、会って話がしたいんです、と。
「あいつ暇あんのかな」彼女はすこし考える顔をしたが、「まあ、なんとかしてやるよ」そう言ってくれた。
「本当ですか!」
「ただし、会うなら魔法少女になってからだ」
「それは……」
「魔法のくわしい話は、魔法少女以外の人間には秘密になってんだよ」魔法少女でない彼女は、いちおうな、と言った。「リカからそう聞いてないか?」
「ええ、まあ」
「いま会ったところで、肝心な部分の話はなにもできないだろう。それに……」彼女はタバコを持つ手をとめて、また考える顔を見せた。「そういうのを抜きにしても、後のほうがいい。そんな気がするんだ」
おぎわらさんは天井にむけて、煙を高く吐いた。
「だいじょうぶ。折を見て、あんたのことは話しておいてやる」
彼女の直感を、わたしは信じる。ディーパさんに会うのは魔法少女になってから。「はい、お願いします」

それからしばらくして、レイと、レイの彼氏と、三人で会うことになった。レイの例のレイの彼氏のお披露目会である。わたしは断ったのだけど、鋼鉄の天然女、レイの押しの強さに耐えうるはずもなく、けっきょくは彼女のセッティングに従った。

その当日、しぶしぶの顔でわたしは集合場所へと向かい、そこでレイと先に合流した。待つこと十分少々。そして、驚いた。
「あ、どうもー」
頭を掻きながら現われたその人は、茶色いもじゃもじゃの、汚らしい長髪をしていて、顏はにきびづら。とにかく黒ければいいみたいなセンスのない服装をしており、おぎわらさんの店にあるような、四角い鋲の配列したリストバンドをつけていた。彼女が見たら泣くな。いや、怒るか。
って、おい、どこがカッコいいんだよ!

「君が、レイの親友のメイデンさんかい? はっは、よろしくね」
台詞もださい。
この人逆になんで? ねえ、どうやったらこうなんの? 
わたしは一分一秒も一緒にいたくなかったのだが、レイの鋼鉄のプランを突き崩せるわけもなく、三人で夕食に行くことになる。そして、
店内ではじまったものは、当然のごとく鋼鉄の談義。それオンリー。
「――そうだね、みんな彼のすごさを理解できていないと言わざるを得ないね。やっぱりぼくは彼、イングヴェイ・マルムスティーンのフレット上で火花の散るようなギターを――」
(ああ、それ意識してたんだ!)
それは、インギーの愛称でも呼ばれる、ネオクラシカルの旗手。速弾きで有名なギタリストだ。昔は美形だったのに、あるころから突如太りはじめた。自らを貴族と称する彼は、才能はあるがあまりに我が強いため、ひたすら音数の多いギタープレイと相まって非難の対象になることも多い。
よし、彼氏の渾名はインギーで決定! 彼も本望だろう。

インギーは熱した調子、大きな声で語る。特に、固有名詞をはっきりと発音する。
お店にはそれなりに人がいるというのに、「――彼らの本当の転機は、アモットが加入したサードの『屍体愛好癖』だと思うんだ」
(あわわ、タイトル! タイトル!)
小心者のわたしは冷や冷やしてしまう。
「メタルという音楽は、そもそもがアンダーグラウンドの精神なんだよ。だから、解らないやつにはださいと思わせておけばいいんだ。可哀相だなって、はっは」
(わたしから見ても、おまえは完璧にださいけどな!)
本人いたって真面目、突っ込むに突っ込めないところがつらい。
「――ブラックメタルは深いね。というのも、選ばれし、研ぎ澄まされた感性を持つ者でなければ、その音楽に浸ることは不可能なんだ」
(え、なに言ってんの?)
「――つまり、抵抗のスタンス。いわば社会への痛烈な批判だよ。司法制度について歌った楽曲がそのへんの音楽にあるかい? ぼくは知らないなあ」
(助けて!)
あの、帰ってもいいですか? そんな目をする。レイを見る。インギーを見る。彼らは鋼鉄製の甲冑のように、動く気配がなかった。

インギーはその後も一方的に語りつづけた。あからさまに退屈そうな態度をとってみても、まるで空気を読むということがない。
あるとき突然わたしに振ったかと思えば、
「メイデンさんは、アイアン・メイデンがお好きなんだって」
「いや、好きっていうか」
「けっこう古いねっはっは」
(ねっはっはって、なに!)
というか、なんでこいつ、コードネームで呼んでんだ。完全に部外者だろ。
インギーが席を外した隙にレイに問いただすと、「わたし、ネット上のハンドルネームもレイなの。メイデンもそういう感じになってるからだいじょうぶ」
(自分でそんなださい名前つけねーよ!)
文句を言う間もなく彼氏が戻ってくる。するとレイが、メロデスの話しようよ、と話題を転がす。「メイデンはなにがいちばん好き?」
「……イン・フレイムスかな」
「おっ、わかってるねっはっは」とインギー。
相手の「柱」を讃えるのも癪だが、いいものはいい。北欧らしい哀愁を帯びたギターフレーズがたまらない。
惜しむべきは、ジャケがださい。思い浮かぶ何枚かのアルバムで、北欧神話に出てくるような気味の悪い化け物が、背景ともども、極彩色でゴテゴテと描かれている。だけどこのバンドに限らず――いつかリカさんの言ったとおり――ジャケがださいほど中身は良かったりするのだから不思議だ。それを話題として提供すると、
「そうかなあ?」
「あのモンスターが恰好いいんじゃないか、はっは」
そのへんの感覚はこいつらにはないらしい。

なお一度、鋼鉄の城壁の外に会話の地を求めたところ、インギーはなぜか地元の話題を持ち出し、わたしに挑発的な発言を連発し、なんだこいつ……、と、はなはだ不快に思ったところ、われわれふたりの出身地が頭に浮かび、はっとする。
あ、群馬VS栃木……。本当に気にしてるやついたんだ!
話題をわたしは、城壁内に撤退させざるを得なかった。

その後もこの調子で時間がすぎ、問題は、会話のテーマではなく人なのだと、強く思い知る。
同じ題材を使っていても、リカさんの話は面白かった。メタル談義は本来、実りあるものなのである。音楽を聴くだけでは点と点でしかなかったアーティストや楽曲が、複雑なパターンを持つ葉脈のごとく、思いもよらない繋がり方をする。

人物として、試しに、メタルの祖、ブラック・サバスのフロントマン――こうもりを食いちぎった逸話で有名な――かのオジー・オズボーンを持ってくる。
『ブリザード・オブ・オズ~血塗られた英雄伝説』――彼の、サバス脱退後の初ソロアルバムである。名盤とはいえ、かつての重々しさ、陰鬱さの影はなく、商業的ともとれるポップさが目につく。それは、サバス時代に彼が目の当たりにした、あるギタリストが大きく関係しているというのだ。
伝説のギタリスト、ランディ・ローズではない。
伝説のギタリスト、ジミ・ヘンドリックスでもない。
伝説のギタリスト、ヴァン・ヘイレンである。
うん、伝説のギタリストとか何人もいるから。偉人であふれる広大なメタル世界は、いわば仏教でいう三千世界なのである。

リカさんいわく。「彼(ヴァン・ヘイレン)は、エレキギターの構造論を宇宙工学の領域にまで押し上げたの」
……意味はよくわからないが、とにかく、過去のあるツアーでのこと。サバスの前座を務めた、ギターの革命児、ヴァン・ヘイレンのパフォーマンスが、完全に主役のサバスを食ってしまい、オジーもふつうに聴衆のひとりとして衝撃を受けたのだとか。謙虚で偉いよな。

オジーは例のソロアルバムで、ギターのランディ・ローズとともに「自殺志願」という題の曲を書いている。なんとも不穏なタイトルだ。
が、その内実は、オーストラリアのメタルバンド――AC/DCのボーカル、ボン・スコットが飲酒が原因で死亡しことを受け、その死を悼んで書いた反アルコールソングなのである。なのに後年、メタルの反対勢力から、若者を自殺に導いたとして訴えられることになる。
いっぽう、当事者であるはずのAC/DCは、新たなボーカルを迎えた次のアルバムで、「Have a Drink on Me」――邦題にして、「死ぬまで飲もうぜ」という曲を書いており、あまり反省してる気がしない。

ランディ・ローズにとって、不慮の死は他人事ではなかった。
その二年後、彼自身が飛行機事故によって悲運の死を遂げることになる。享年二十五歳。オジーに見いだされ、その希なる才能を開花させつつあるところだった。メタルファン、そして誰よりもオジーその人が嘆き悲しんだ。こうして若きギターヒーローは神格化されることになる。

メタル界の夭折した天才。ランディの事件から連想されるのは、なんといってもメタリカの天才ベーシスト、故クリフ・バートンである。こちらは享年二十四歳。バスの転倒事故による死亡。
このバスは、メタリカがツアーの移動に使っていたもので、事件の瞬間、他のメンバーもそこにいた。クリフが窓から放りだされ、車体の下敷きになったその瞬間に。仲間の目の前で起きた悲劇であっただけに、いっそうえぐい。

この話を聞いたのは、リカさんが彼女のマンションで、彼らのサードアルバム『メタル・マスター』について講釈してくれたときのことだった。『ライド・ザ・ライトニング』に『(通称)ブラックアルバム』、彼らの代表作はほかにもあるが、リカさんのいち押しはこれ。クリフ在籍時の最後のアルバムであり、「ORION」という題のインスト曲――クリフの奏でるベースの音が、夜空の星のごとく燦然と輝いている――が収録されている。名曲だ。
「ほら、見て、このジャケット」とリカさん。
その、『メタル・マスター』に描かれていたものは、十字架の墓標が整然と並ぶ、西洋の不吉な墓地だった。
「皮肉なものね。いま思えば……」リカさんは悲しそうな顔をする。

たしかに英雄の死は痛ましい出来事である。だが、個人的には、もっと胸の痛む事件があった。まだクリフのいた、バンドのキャリアの早い時期に、メタリカから放逐された、ギターのデイブ・ムステインである。彼のことを思うと、いつも胸が熱くなる。

突如、解雇された。あるひと晩の出来事だったらしい。
夢だけを乗せた、窮屈なおんぼろワゴン。駆け出しだったバンドが新天地を求め、西の都サンフランシスコから――はるばる大陸を横断して――東のニューヨークへとやってきた矢先だった。
なぜここで? 怒り、後悔、絶望。そのどれもが圧倒的な絶対値を示す。彼はいったいどんな気持ちで、ひとり長い帰路についたのだろう。

悲劇は、まだ序章にすぎなかった。彼の帰った先には、その後のメタリカの成功の軌跡を――つまりはメタリカがモンスターバンドとなっていく過程を――部外者として見届けなければならないという、凄惨な運命が待っていた。

彼は数年後、自身のバンド、メガデスでデビューする。意地があった。名を上げて、メタリカと並ぶ、スラッシュメタル四天王と称されるほどになった。それでも彼の傷は癒えなかった。傷は、あまりに深かったのだ。ドキュメンタリー映画「真実の瞬間」のいち場面で、そのあまりにも苦しい胸のうちを語っている。
決して癒えない傷。満たされない魂。
悲しいのは、生きている人間のほうだ……。

で、その激しい攻撃性を備えたメガデスの、もうひとりの看板ギタリスト、マーティ・フリードマンだが、バンド脱退! 音楽性の違い? どういうことだ! と、メタル界をひとしきり騒がせたあと、彼は、日本のアイドルグループ、モーニング娘にはまっていたことが判明し、ファンをがっかりさせた。この、日本通さん! そして、そのアイドル(の一部のメンバー)を待ちかまえていたものこそが、血塗られた……と、ここで止めよう。
メタル史は涙あり、笑いあり。そしてすべてはつながってゆく。
円環の理に導かれて――。

メイデン、メイデン。
――はい? 
レイだった。わたしの意識はそうとう遠くにあったらしい。
並んで座るレイとインギーのあいだから見える薄暗い壁に、ぼんやり丸く光ったところを発見したわたしは、それを知的インテリア体と名付け、目下の苦痛を耐えるため、対話を試みていたのだ。

わたしはレイたちに対し、ほとんど生返事だったと思う。なのに、「メイデン、たのしいね!」満面の笑みでレイが言う。彼女はそのあと、インギーを見た。鋼鉄のカップルはしばし見つめ合った。
「はは……」
ああはなりたくない。乾いた笑いとともに切に思った。
もし、このときのわたしが、二十六歳になった自分の姿を見たとしたら、こうもなりたくないと、やはりそう思ったのだろうが。
コードネームのメイデンが、いまやしゃれにならないのである。

それで、レイの彼氏騒動をわたしなりに消化した結論だが、彼氏を気に入らないからといって羨ましくないかというと、話はまた別で、彼氏がいるというその事実が羨ましかった。だって、本人たちは幸せなのだから。

わたしはときどき、発作のように地団駄を踏んだ。わたしの忍耐の日々を無駄にしないためにも、ますます負けられなくなった。
わたしは魔法少女になるしかないんだ! ぜったいになる! これまでの負債は、魔法でとり返せばいい。そうだ、どんな魔法にしよう。恋愛の魔法? 魔法少女らしくファンタジックなもの? 実利を考えて、就職に有利な魔法とか? ちょっと邪道だけどお金もうけ?

それからはますます修行に集中し、平行して、ますます他のものに対し排他的になった。受験勉強での、苦手分野克服対策のように、たいして好きでもないスラッシュメタルやブラックメタルを重点的に聴いた。
レイの彼氏は理論面で強い気がする。それはそのまま、レイのアドバンテージでもある。わたしはもっと勉強しなければ。もっともっと。
なんせ、ひとりですから!

――レイの当時の彼氏、つまりいまの旦那は、現在、一流電機メーカーに研究員として勤めている。アンダーグラウンドだの、反社会だのと息巻いたところで、しょせんは真面目な東大生。三年後に会ったときには、髪を切り、スーツを着て、不細工ながらもまあ、それなりに普通の人になっていた。
レイはというと、その旦那とマイホームに住み、現在、二児の母になろうとしている。
くらべて今のわたしは、結婚相手どころか、男性の影すら見えず、加えて、生活基盤も安定しない。人生の先がまるで見えない。けれども妥協はしたくない。現状に甘んじたくはないが、派遣先の山内のような、あんなメタルおたくともつき合いたくない。
収入はある? でもぜったいに嫌!

つまりこうだ。過去に戻って、わたしとレイの進む道、どちらか選べる権利を与えられたとして、わたしはどちらも嫌なのだ。
魔法少女を目指した者のたどる末路は残酷だ。わたしの選択した道は、そう……、こう呼ぼう。氷の世界につながる道。修羅街道。ストリート虚無。――とにかく現在、なにがどうなる兆しすらない。

人生には、雷に打たれるような瞬間がある。結論から言えば、あった。
それはこれまで味わってきたショックとは、根本的に違うものだった。優しいけど鋭くて、そして唐突なものだ。道を歩いて行くうちに景色が徐々に見えてきて、細部がはっきりしてくるなんて感覚じゃない。見通しの悪い曲がり角に入った瞬間、ドンだ。
なんのことか――?
それを言うのは、とても恥ずかしいことだ。だからわたしは、時間を置いてみたり、その感情を無視してみたり、論理的に考察したり、深呼吸してみたりした。けれど変わらなかった。
つまりわたしは……、恋をしたらしいのだ。

落雷の現場は、職場の懇親会の会場だった。自分の歓迎会以来の参加。そういう場にわたしが出ることはめずらしい。その日は、ひとりでいるのがちょっと寂しかったから。そんな理由だったと思う。露骨な出会いの場である合コンでさえあの様なのに、何も起こるはずがなかった。

わたしが問題のその言葉を聞くきっかけになったのは、あまり知らない女子社員の、暗いトーンの話がふと耳に入ったから。
その話を要約すれば、その子は学生時代、ある留学生に恋をして、その人のためにベンガル語を必死に勉強したのだそうだ。「――けれど、けっきょく彼は、ほかの子にとられちゃったんです。お金も時間も無駄にして、英語や中国語ならまだしも、ベンガル語って……、本当に馬鹿ですよね」
あたしって、ほんとバカ。その子はまた繰り返した。
それはやっちゃったな……。彼女の横で聞き耳を立てていたわたしは、ひそかに共感した。
すると、彼女の正面にいた男性社員が、「そうかな」と応じる。大人びた、落ち着きのある声だった。「なんであれ、外国語を勉強することは意義のあることだよ。だって、ほら、日本語のことがかえってよく見えるし、ほかの外国語を覚えるにしても、コツをつかんでいるぶん、学習スピードが上がるわけだし」
「そういうもんですかねえ……、なぐさめてくれるのはうれしいけですけど」彼女は憂鬱そうな調子で答える。わかる。慰めはときにあだにも凶器にもなる。
だけど彼も引かなかった。「たとえば英語だけど、英語はたしかにベンガル語にくらべれば、言語人口がずっと多いと思う。けど、それだけ勉強してる人も多くて、ほかの人と差をつけるのはかなり難しいんじゃないかな」
(まあ、それもそうだな……。わたしもそれなりに英語を勉強したけど、けっきょく就職できなかったし)
「わかる人が少ないぶん、これからはベンガル語のできる人のほうが重宝されるかもしれない。だから、何がよかったかなんて、ずっと後になるまでわからない。ぼくは意味のないことなんて、ひとつもないと思う」

すっと心に沁みた。
このときのわたしは、自分の内部に起こった反応の処理に手が一杯で、そのあと女子社員がどう受け答えをしたのか、まるで認識できなかった。
あれ、あれ、
なんで……? なんでわたしが……。
必死の抵抗もむなしく、まぶたの内側が熱くなる。幸いわたしは、誰とも話をしていなかった。少しだけ顔をうつむけて、目を閉じて、そこに溜まるものが引くのを待った。しばらくそうしていた。ゆっくりと顔を戻したとき、世界は変わっていた。
その、優しい声の男性は、もはや背景ではなかった。泥人形でもない。並んでいた泥人形のひとつは崩れ、消滅し、そこには、ひとりの男性――ハルキさんがいた。

意味のないことなんてひとつもない。
これまでも、似たような台詞なら言われたことがあるのかもしれない。でも違う。わたしに好かれようとしての計算、譲歩といったものがまったくない。それもそのはず。その会話のなかに、わたしはいなかったのだから。
つまり彼は、ほんとうの意味でわたしを肯定し、許容してくれた。百パーセント。

その言葉は、懇親会が終わってからも、次の日も、その次の日も、ずっとわたしの心に響いている。意識していないときでも、きっと心の奥で。
わたしは理解した。恋をしたことがなかったのだと知った。わたしは人を好きになったことがなかった。なんで人を好きにもならず、彼氏ができないだなんて嘆くことができたのだろう。
なるほど、この気持ちは表現できない。
ただ、好きだった。

オフィスの景色も、今までのものとは少し違う。映像の、ぼんやりしていた色や輪郭に、自動補正が加わったかのよう。こうはっきりした世界では、知的インテリア体とずっと語らっているわけにはいかなくなった。
あの人のほうに、つい目が行ってしまう。

よくよく観察してみれば、彼はなにげに趣味がいい。スーツはグレーのベーシックな型だが、その代わり、靴やかばん、眼鏡のフレームなど細かい部分に気を配っている。
また、ほかの人とのやりとりを聞いていると、言葉遣いもやさしく、いつでも丁寧なことがわかる。お酒の入った場でも乱れていなかった。
決してわたしは彼の容姿に惹かれたわけではない。けど……、顔も悪くない、かも。癖がなく、透明感がある。きれいな肌をしていて、好感がもてる。
なぜ今まで気がつかなかったのだろう。

「なんか、佐々木さん、最近、本気だしてきてない? 狙ってる男でもいんのかな」
「あ、やっぱりそう思う?」
女子社員Aに、女子社員B。そして出るに出られない個室のわたし。
女子トイレでまたこのシチュエーションに陥っている。このシンクロ率……。わたしたち、じつは気が合うのかな。
しかし、女ってほんとうに怖いな。よく見てる。しかも正解だ。
「知ってる? ちふゆが合コンに佐々木さんを誘ったって」
「聞いた、聞いた」
この前、女子社員Cに誘われたやつのことだ。こいつらにしては情報が遅い。やっぱり女子社員Cとはたいして仲が良くないんじゃ。
「それって、自殺行為でしょ」
「ああ、それもちふゆから聞いたんだけど、だって、ほら、佐々木さんってあっちなんでしょ?」
「あっち?」
(あっち――?)
「ほら、男に興味のない人」
「ああー! そういうことか。彼氏がずっといないって、そういうことだったんだ」
(おいい! そういうことじゃねえよ)
「だから安心ってわけ。撒き餌にはちょうどいいんじゃない? それに、いつもの感じでつんとしてて、最終的に男から敬遠されてたって」
「ははは」
そういうことだったのか。もうぜったいに行かない! 
それに……、いまは行く必要がない。
「そんなことより、聞いてよ。わたしに最近ストーカーがついちゃってさ」
「ええ、マジ?」
(はいはい、すごいすごい)
というか、そろそろ仕事に戻ってくれないかな。

個室で暇をもて余すわたしは、自分にもし男の人のストーカーがいたらと想像する。これまでの人生、男女の情事から徹底的に隔離された修羅街道(ストリート虚無でもいいけどな!)を歩んでいたため、そういうものにもまったく縁がなかった。
ストーカーか……。どんな形であれ、わたしのことをそこまで慕ってくれる人がいるのだと思うと、悪い気はしなかった。ひょっとしたら、重症なのかもしれない。
「気のせいじゃないの?」
「そんなことないって。これで気のせいだったら、わたし、めっちゃ恥ずかしいじゃん」
そう、けど勘違いはしたくない。学生のころも一時期、人に見られている感覚がつきまとっていたことがあった。人の気配を感じたり、シャッターを切られている感じがしたり。けど、あれはぜんぜん違ったのだ。強くあたまを振る。

――奇しくも、その後わたしを悩ませることになる、最初の非通知の電話がかかってきたのは、その晩のことだった。

【おまけ】
イングヴェイ・マルムスティーン

「メタルマスター」(メタリカ)


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?