蝉の恩返し
今年は蝉が少ないと聞いた。
確かに猛暑の割には、例年に比べて蝉の声がおとなしい気がする。それでも、飛び回ったり、ジリジリ鳴いている蝉を見ると、溌剌として元気そうに見える。
蝉はこれといった悪さをするわけではないが、サイズが大きいので飛んでいると妙に迫力がある。急に蝉が飛んできたりすると、スズメバチが襲来したのではないかと勘違いし飛び上がってしまうことも多い。
夜になると、我が家に蝉がやってくる。
そしてどういう訳か、玄関ドアにバチンバチンと音を立ててぶつかり始めるのだ。ドアを打ち破って侵入しようとでもいうのだろうか。だとしたら、うっかり外にも出られない。
玄関から急に音がすると、どんな音でもドキリとしてしまう。特にお盆の時期は心臓に悪いのでやめてほしいのだが、蝉はそれをやめる気配はない。長年、土に埋まっていた憂さを晴らすかのように、我が家のドアに体当たりしている。
そのせいか、朝、ゴミを出そうと外に出ると、地面に蝉が仰向けになってひっくり返っていることがよくある。体当たりの代償は大きかったようで、昨夜の元気は何処へやら、蝉は死んだように静かである。
こういうとき、うっかり蝉を蹴飛ばしたりすると、
ジジジジジッ!!
と、想像以上の大音量で暴れたりするので、細心の注意が必要だ。じっと目を凝らし、蝉の生死を確認する。
蝉が生きているか死んでいるかは、その脚を見ればわかるらしい。
生きていれば脚は開き、死んでいれば脚が閉じている。
この見分け方を知ってからというもの、私は脚の開いた蝉を見たら、そーっと横を通るようにしている。
この日見た蝉の脚はまだ開いていた。微かに動いてもいる。だとすると、蝉が急にくるりと翻って、
ジジジジジッ!
鳴きながらこちらに向かってこないとも限らない。
私はゴミを手にしながら、抜き足差し足で、その横を通り過ぎる。ゴミを出し、集積所から部屋の前に戻ると、じわじわ動いていた脚の動きは止まっていた。仰向けの腹には、目玉焼きが焼けそうなほどの直射日光が当たっている。このままでは死んでしまうに違いない。それを思うと胸が痛んだ。
「うちの前で蝉がひっくり返っていたよ」
部屋でアイスコーヒーを飲んでいた夫に報告すると、夫はどれどれと言って外に出て、またすぐに戻ってきた。
「つまんで表に返したら、飛んで行ったよ」
そう言いながら夫は部屋に戻り、またアイスコーヒーの続きを飲み始めた。
虫を触れない私からすれば、夫の行いは信じられないくらいの善行である。訊けば夫は、仰向けの蝉を見たら、いつもヒョイとつまんで表に返してあげているらしい。
そんな慈善活動をしていたとは知らなかった。
夫に助けられた蝉たちは、九死に一生を得て、古びたマンションの壁よりも居心地のいい樹木を見つけて、その命を全うしていることだろう。
「そのうち蝉が恩返しに来るかもしれないね」
夫婦でそんな冗談を言っていたら、夜になり、またバチンバチンと我が家のドアに向かって体当たりする音が聞こえてきた。
朝、玄関のドアを開けたら、仰向けの蝉とともに、小判の一つや二つくらい落ちているかもしれない。
(2022年8月2日記)
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