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イベント野菜

 「いやぁ、今日は良い絵日記が書けそうだなぁ」

 休日の夜、風呂上がりの夫が、頭に湯気を立たせながら、こんなことを言った。

 夫は社会人である。
 絵日記の提出を求められる職場に勤めているわけではない。
「何で絵日記なの?」
 私が訊くと、夫はニコニコしながら、

「だって、今日は朝からもぎたてのトマトをまるかじりして、お昼にトウモロコシを食べて、夕飯に枝豆食べたじゃない。もう夏休みそのものだよ」

 そんなことを言った。
 その日、私は汗をふきふき、近所の野菜販売所に出掛けて行き、トマト、とうもろこし、枝豆を買った。帰宅後、台所に転がっている赤々としたトマトを見た夫が、
「ねぇ、これ、まるかじりしていい?」
 と訊いてきたのだ。
「いいよ。買ったばかりでぬるいから、氷水で冷やそうか?」
 私が言うと、
「あー、いいいい。そのまま食べるから」
 夫はトマトを水で洗って、ヘタを取り、シンクの上でそのままガブガブとかじりついて食べていた。ワイルドである。

 夫の実家は、農業をしていた。
 畑には、家族が食べるための野菜も作っている。
 夏に実るのは、トマトやキュウリなどの色鮮やかな野菜たちだ。もぎたてを井戸水で冷やす時間も惜しく、畑でもいだばかりの生暖かいところをかじったりもしたらしい。

 冷たいのを食べたいときは、朝のうちにトマトやキュウリを採り、畑の前を流れる川にそのまま入れる。カゴは使わない。川の中に、いい頃合いの大きな石があって、それがうまく野菜を堰き止めてくれるそうだ。

 農作業の休憩時間に、川からトマトとキュウリを引き上げて、冷えたところをかじる。夫の話によると、川の水で冷やされた野菜は、ぬるすぎず冷たすぎず、五臓六腑に沁みわたる美味しさだったらしい。

 夏は暑い。日本の蒸し暑さは体に堪えるが、夏野菜の鮮烈な色の美しさは、やはり心躍るものがある。

 私が通う近所の野菜販売所も、この時期になると大行列になる。
 皆のお目当ては、枝豆ととうもろこしだ。

 しかし、買い求めようと列に並ぶ客は、どこか殺気立っている。
 自分の目の前で、お目当ての枝豆やとうもろこしが品切れになってしまうのではないかという思いが、狩猟の興奮に似たものを呼び起こすのかもしれない。

 そこの野菜販売所では、通年、様々な野菜を売っている。
 正直言えば、この時期だけやってきて、大きな顔をしている客に、モヤモヤしてしまうことも少なくない。
「こっちは、毎週来てる常連なんだぞ。おつりだって気を遣って小銭で払えるようにしているんだぞ。ぷんぷん」
 狭量な私は、内心そんなことを思いながら、列に並んでいる。

「何で、皆そこまでして、枝豆ととうもろこしを買いにくるんだろうねぇ」
 枝から、枝豆をはずしながら私がぼやくと、

「枝豆やとうもろこしなんていうのは、夏のイベント野菜だからね。みんな、イベントには参加したいんだよ」

 トマトをかじりながら、夫が言った。

 イベント野菜。

 初めて聞く言葉である。

「イベント野菜かー。言い得て妙だね。ネットとかで見たの?」
 誰かが作り出した言葉なのかと思って私が訊いたら、

「今、俺が考えたの!」

 そう言って、夫が自慢げに胸をそらせた。

 夜、食べ終えた枝豆の皮を片付けながら、
 川にトマトやキュウリを浮かべて食べるのも、汗拭きながら殺気立った行列に並ぶのも、確かに、夏ならではのイベントなのかもしれない。
 そんなことを思った。

 もし私が絵日記を書くとしたら、枝豆ととうもろこしの絵を描いたその下に、

《来週は、もう少し早めに並んで、枝豆ととうもろこしを買いたいです。》

 そんな、反省の弁で締めくくったことだろう。
 朝、殺気立つ行列にうんざりしたはずなのに、すでに私は、来週も野菜を買いに並ぼうと思っている。そのことに自分で驚いてしまった。

 やはり、夏のイベント野菜の魅力には抗えないのである。






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