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噛み合わない会話から「ほんとう」へ

ツルっと噛み合わない会話に辟易していた。相手も同じように感じていたのかどうかは分からない。表面的には会話が成立してしまうのだけど、どうにもこうにも、何か違う。
きっと、もっと言葉を尽くして対話を試みるとか、そもそも相手に対するリスペクトが足りないのだとか、思い当たる理由もいくつかあるのだけれど、そこに労力を使うことを放棄してしまった。

そんなこと、よくあることだ。
別にすべての人とわかり合う必要もないし、さらっと流して省エネしながら生きていくものなのだろう。わかっていても疲弊して、虚しいとか悲しいとか、妙な被害者意識に苛まれていた。

そんなところに、旧友とのメッセージのやり取りがあった。
少し疎遠になっていた。なんとなく連絡することもなく、だけどなんとなく伝えたいことがあって、久しぶりにメッセージを送ったら、とても喜ばれた。言葉そのものとか内容の素晴らしさではなく、「わたし」という存在を肯定された。受け取ってもらえた。そんなささやかな幸せをかみしめて、一日醸成させてから再度メッセージを返した。そのスピード感も心地よく、心がじんわりとほどけていく。

私、疲れていたんだな。「ほんとう」じゃない自分を生きていた。それが仕方ないとか、仕事だからとか、別にうまくやり過ごせばいいとか、過小評価して自分を殺してしまった。

今日はそんな「建前」で生きる必要もなく、のびのび過ごした。
そうしたら、いいことばっかり起きるのだ。
世界は思っているよりもずっと優しい。

読書も捗った。
「じぶん時間を生きる」
「不要不急 苦境と向き合う仏教の智慧」
「神に愛されていた」
じんわり沁みるラインナップだ。

愛されていた
読後まず、タイトルが絶妙だなと思った。
渦中にいたら見えないことがある。別の視点から見たら、世界の見え方が全く違う。人の内面は分かりようがない。
「狂気」
これは投影の物語なのかなとも思った。それだけ影響を与え合う関係なのだろう。
それぞれの思惑がヌルっとズレて、噛み合い、無情にも進行していき、受け継がれていく。

生きているうちに「答え合わせ」のようなことがあったりなかったりしながら、渦中の主人公として「自分」を自分視点で生きるしかない。
スッキリでもなく、ハッピーでもなく、どんよりでもない、じんわりとした読後感の余韻に浸っている。

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