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なぜ、フォトアートなのか③:大人だからこそ問い続ける

今回はフォトアート教室をスタートした経緯について、会社員としての経験から記してみます。

私は最初の大学を卒業した後、新卒で入社した会社で今も働いています。そのキャリアの大部分で、縁あって人事の仕事に従事してきました。
人事は経営と密接に関わる領域です。人事の仕事を通じて会社の経営を見渡すことは、私にとって発見の多い経験でした。

会社はとんがった人材、専門性の高い人材を探していると言います。そう言いながら、現実には従業員のほとんどを新卒一括採用によって確保しています。専門性を求めるなら経験者を採用すればいいのに、なぜでしょう。
あるいは、女性管理職が足りないと言いながら、新卒採用の男女比率はずっと7:3のままです。なぜでしょう。

会社の内部、それも人事部にいる私にはもちろん事情はおおむね分かります。ただ、事情を言っているうちは目的達成できないな、とも思います。事情を勘案すれば、問いは進化していかないからです。「できるのか、できないのか」「これまでの営みを変えるのか、変えないのか」そういう設問として捉えているうちは物事は進みません。
求める専門性とは具体的に何か、それはなぜか。そういう人材はどこにいるのか、どんな経験をすれば身につくのか。新卒採用を継続するにしても、中途採用とのバランスを見直したらどうなるか。問いをどんどん進化・深化させる必要があります。
そして掘り下げれば掘り下げるほど、実はみんなが納得する正解はないということが分かります。そこで「そりゃみんな違うよね」と、思考が止まってしまいます。正解のなさに打ちのめされるのです。だから、あれこれ悩んだ末に時間切れになり、前例踏襲に戻るのです。

学校教育は「質問と答えの応酬」であると前回書きました。
新卒採用で入社してくる社員には有名大学の卒業生が多く、彼らは敢えて言えば、聞かれたことに答える力の極めて高い人たちです。だから質問やオーダーの形で何かを聞かれれば「正解」を探そうとします。
(ちなみに私は質問と答えの応酬はあまり得意ではなかったので、自分で問いを自由に広げられる小論文形式の試験で大学に入学しました)
でも社会に出てから問われることは、学校で問われてきたことよりもはるかに複雑で、「正解」は存在しません。何を目的とするかによって、問いの答えが変わるからです。そして困ったことに、この目的をきちんと絞り込めない場面があまりにも多すぎます。

目的とは「こうしたい」「これを実現したい」です。つまりそれを推し進める人の意思です。目的が本当に明確になっていれば、ほとんどのことはそれに照らせば自ずと決まります。目的がそのまま判断基準として機能します。
問題は、目的はシンプルかつ具体的に限定しないと機能しないところです。これが企業においては鬼門です。複数人で話し合うと、同じ目的で話し合っていても、絞り込もうとすれば皆少しずつ視点が違うことがすぐに明らかになります。
日本企業はそれらを全て盛り込もうとしがちです。結果、目的がぼやけてしまい判断基準として機能しません。「この施策の目的はなんだっけ?」と、目的を巡って繰り返し議論や確認が起きているうちは、目的は定まっていないのと同じです。

また「正解」を積み上げてくると、スパッと答えられない問いに出会ったときに不安になります。目的が明確でない問い=「問いらしきもの」に対してもすぐに「答えらしきもの」を出そうとします。
それ自体が悪いことではありませんが、「らしきもの」を見つけたことに安心して考えるのをやめてしまう思考停止は危険です。「問いらしきもの」「答えらしきもの」である限りはその両方について検証を続ける、つまり問い続けないといけないのです。

「正解」を積み上げると、そもそも知らないことを知らないと率直に言うことすら難しくなります。答えられない=減点という意識が染み付いているからです。「知らない」と言えば自分の評価を下げるのではないか。こんなことも知らないの?と言われるのではないか。そういう意識があるからです。私にもあります。
でも、違います。「知っている」ことが素晴らしいのではなく、知らないことを知る姿勢を持ち続けることが素晴らしいのです。それに、そもそも自分の興味関心とリンクしていれば、積み上げたプライドよりも知りたいという欲が自然と働きます。それが問いの解像度を高めることに繋がるのです。

(ところで解像度という単語は写真の文脈に照らすと意味がとてもよくわかります。解像度の高い写真(いい写真かどうかは別として)では、ピントの合っている部分については髪の毛1本レベルの細部までバッキバキに描写されています。
その代わり、見てほしくない部分はそもそも写さない・ボケにする・あるいは白飛びや黒潰れも許容して、見る人の視線が行かないようにするのも大事です。
問いを深めたり、目的を定めたりするのはこれと全く同じことです。重要な点については言葉でバッキバキに描写し、関係ないことには触れてはいけないのです。)

仕事であれなんであれ、目的を定めるとは解くべき問いを定めることであり、とてもアートな営みです。
そしてそこにはなんらかの専門性が必要です。専門性とは、豊富な知識が経験と結びついた状態だと私は考えます。どちらか片方では不十分です。
ある領域に興味関心を持ち、誰に言われずとも勝手に調べ、自ら実践・実験し、それらをリンクさせて自分の知識体系にする。それこそが専門性です。専門性は「好き」「得意」からしか生まれません。そして繰り返しますが、他人と比較して秀でているかどうかではなく、自分が没頭することができる、というのが大切です。

人事の仕事は、より多くの従業員が良いパフォーマンスを発揮できるように育成し、企業としての業績を高めることです。しかし良いパフォーマンスとはなんでしょう?
かつては企業は分かりやすい目標を掲げて、それに向かって従業員みんなでがんばる、という分かりやすい構造がありました。ですが1回目に書いた通り、世の中のだいたいの問題は当時の人々の頑張りによって解決してしまいました。
今、現役世代が解かなければいけないのはどれもみな、その先人たちが解けなかった難問なのです。企業の文脈で言えば、突き詰めると「私たちの会社は何のために存続するのか」という大命題に集約できます。この問いを紐解かない限り、何が良いパフォーマンスなのかは決まりません。
まさにアート、あるいは哲学的な問いです。学校で繰り返し訓練されてきた質問と答えの応酬からは、この問いの答えは永遠に導き出せません。経営幹部でもそうです。だからこそ、あらゆる人がそれぞれの専門性の観点から、アート的な発想を持ってこの問いを掘り下げて考える必要があるのです。

やっと話が繋がりました。
私は人事の仕事に自分なりの専門性を持って向き合った結果、自分が勤めている会社もこの壮大な問いに直面していて、そこにはアート的な発想が必要だということを、頭ではなく腹の底から理解しました。そして、よし、アートそのものに一度どっぷり浸かろうと思ったのです。そして幸いなことに私には写真がありました。

私の発想は間違っていないと、背中を押してくれた本がいくつかあります。いずれも、仕事上でさまざまなモヤモヤを抱えまくっていた2017〜18年ごろに読んだ本です。(その後2019年に、37歳の私は京都芸術大学の通信課程に編入学します)

ハイ・コンセプト/ダニエル・ピンク(三笠書房)

世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?/山口周(光文社新書)

どちらもメジャーな書籍なので、読んだことがある、タイトルを知っているという方も多いと多います。
いずれの書籍も、働く大人こそ(もちろん働いていなくても、です)アートの視点から目の前の問題について問い直すべきだということを言っています。首がもげるほど頷きながら読みました。
経営幹部向けの研修に、芸術系大学院のMFA(芸術学修士)のカリキュラムを取り入れた研修プログラムを組んでいる企業もある、ということも書かれています。
ただし私からすると、経営幹部やその候補になった時点で、会社の研修という形でアートを学んでも遅すぎます。
もともと「子どもは誰でも芸術家」だったのに、学校教育の中で正解を積み上げて良い成績を残し、それを社会で実践し続け、評価されて経営幹部にまで上り詰めた人たちに、突然子どもの頃の素朴な疑問や好奇心を思い出させようとしても、極めて打率の低い試みになるでしょう。

だから、子どものうちに、なのです。
だから、小学生のためのフォトアート教室なのです。
そして問題は、彼らが大人になったあとも芸術家でいられるか、問い続ける人でいられるかどうかなのです。

子どもは誰でも問い続ける人だ。問題は大人になっても問い続ける人でいられるかどうかだ。

なぜ、フォトアートなのか②:「子どもは誰でも芸術家」の意味

私は企業に勤めている限り、企業の存続意義という大命題を考え続けますが、それとパラレルになるもうひとつの大切な問いとして、この「大人になっても問い続ける人であるにはどうしたらよいか」「そういう大人を1人でも増やすにはどうしたらよいか」「そのために写真を通じて私に何ができるか」を考え続けます。それは私にとってとても知的で楽しい、一生考え続けられる最高の問いなのです。
そして問い続ける自分の背中を、自分の身近にいる子どもたち、未来を担う子どもたちに見せていたいのです。

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