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なぜ、フォトアートなのか②:「子どもは誰でも芸術家」の意味

前回は、写真に携わる者としての視点から、フォトアート教室をスタートした経緯について書きました。
ですが前回の冒頭にも書いたように、このフォトアート教室には、単に写真作家としてだけでなく、親である私、企業の人事である私の視点も大いに含まれています。

今回は学齢期の子をもつ親として私が何を思うか、という視点から。

我が家には小3の長男と5歳(年中)の次男がいますが、私の子育てにおけるモットーは、かなり早い段階から一貫して「丸くなるな、星になれ」です。
長男が幼い頃から、好きなことに強烈な関心を示すタイプだったせいもあります。しかし彼だけの問題ではなく、これほど変化が激しく、先行きが予測できない時代を生きる子どもたちにはみな、自分で人生の舵取りをする感覚を持っていてほしい。そのためには自分の「好き」や「得意」を見つけて、それを軸や支えにしながら進路や職業を選択していけるといいなと思うからです。

今、世の中に必要なのは答えよりも問いであると言われています。なぜなら、世の中にすでにある、多くの人にとって共通の問いの大半には、もう答えが出ているから。にも関わらず、社会全体がほんとうに豊かになったとは残念ながら感じられません。そして残されているのは難問ばかりです。その難問に取り組むには、難問のまま正面突破するのではなく、問い方を変えていく必要があります。

なぜ、フォトアートなのか①:良い「問い」を生む写真の力

「好き」や「得意」は、前回書いたこの「問いの大切さ」とも密接に関わります。誰しも、好きなことなら誰に促されずとも観察したり、勝手に本を読んだり調べたりして、もっと知りたくなったり、実際にやってみたり、と没頭した経験が一度くらいはあると思います。とりわけ子ども時代を思い返してみて、心当たりがある人はきっと少なくないでしょう。それこそが、良質な問いを持つための最初の1歩です。

しかし残念ながら私たちは大人になるにつれて、そうした興味関心に基づいて没頭するような経験をどんどんしなくなります。代わりに、周囲から求められていることを理解し、その要求に応じる場面が増えていきます。それは学校教育が、子どもたち発の疑問に応えて一緒に考えることより、大人が与えた問いに対して正しい答えを導かせることに偏重しているからに他なりません。
(もちろん教育にも「探究活動」の時間が取り入れられるなど変わろうとする向きはありますが、あまりにもスピードが遅すぎます)

自分の興味関心と一致しない要求に応えるのは大変です。たとえいい学校に入るため、いい仕事に就くため、高い収入のためでも、自分が好きな領域と全く同じようにすすんで本を読んで関心を深めたり、自ら探究するのはよほど自律的な人間でなければできません。
つまり、他人から与えられただけの問いではだめなのです。それを何らかの形で自分自身の問いに変換できなければ、導き出す答えもピントの外れたものになり、取り組む過程に手応えを感じられないでしょう。そして与えられた問いを自分のものにするには、自分の「好き」や「得意」、身近な興味関心の軸を持ち、それとリンクさせて考えることが必須です。

しかも前回書いたように、世の中に未解決で残されているのは難しい問題ばかりです。今の子どもたちが大人になる頃にはさらに難題ばかりになっているでしょう。だからこそ子どもたちには自分の「好き」や「得意」を自分なりに深めて、それをよすがに道を選んでいってほしいのです。それは彼らの自己効力感やウェルビーイングのためだけではありません。世の中に残された難題に切り込むためにこそ「好き」や「得意」、つまり特定の領域についての情熱と深い知見をそれぞれが持ち寄り、良質な問いをぶつけ合うことが不可欠なのです。

そして大切なことは、この「好き」や「得意」は他人と比べるものではないということです。人よりも秀でているかどうかではなく、自分の興味が尽きないこと、この活動になら没頭できると感じられることです。
私は「丸くなるな、星になれ」という言葉を決してスターや一流になれという意味で使っていません。自分の中のとんがった部分を持ち続けてほしいという願いです。それは我が子だけでなく、全ての子どもたちに対しての願いです。

子どもは誰でも芸術家だ。問題は大人になっても芸術家でいられるかどうかだ。

パブロ・ピカソ

あまりにも有名なこのフレーズにおいて(これも「問い」の形になっていますね)、「芸術家である」という言葉の意味は、決して絵を描いたり楽器を演奏したりといった表現行為そのものに従事することだけを指していないと私は思います。
もちろんピカソ自身は芸術家ですから、この問いは彼にとっては自分の日々の表現行為に直結する、切迫した問いだっただろうと思います。
しかし、「アートとは問い続ける行為である」と私は前回書きました。ピカソの言葉の「芸術家」を「問い続ける人」に置き換えてみるとどうでしょうか。

子どもは誰でも問い続ける人だ。問題は大人になっても問い続ける人でいられるかどうかだ。

少しでも心に引っかかりを感じたら、ちょっとだけ考えてみてください。自分は問い続けている!と言えますか?耳が痛いと感じたでしょうか?それとも、問わなくなるのが大人になることだ、と思いますか?

質問することと、問うことは似ているようで違います。質問は、自分の疑問、または相手に考えさせたい問題を疑問文の形で他人に投げかけ、その人から何らかの答えを得ることを目的にしています。学校教育は「質問」と「答え」の応酬です。
しかし、あらゆる問いにいつも答えがあるとは限りません。あっても、簡単には辿り着けないかもしれません。けれどそういう問いこそ、みんなで考え、育てるに値する良質な問いなのです。でもそれを学校は扱いたがりません。
図工や音楽は本来、そういう問いを扱う格好の授業のはずですが、そこでも問いより技能的正解が重視されています。(その結果、小学校の6年間の間で図工の授業が好きじゃなくなる子どもが多いのはとても残念なことです)

簡単に答えの出ない問いを持ち、きちんと考えることはとても知的で楽しいことです。"子どもは誰でも問い続ける人"です。とりわけ小学生という年代は、素朴な興味関心も持ちつつ、時には大人が答えに詰まるような本質を突いた問いを投げてきます。けれど周囲の大人が関心を持って受け止め、問いを育てなければ、子どもはいずれその問いを失います。子どもが問いを失うのは、大人の責任です。そうして"質問には答えるが、自ら問わない大人"が再生産され続けた結果、社会には難問ばかりが残されたのです。

簡単に答えが出なければ、時間をかけて考えればいいのです。大人も子どもも一緒に考えればいいのです。実験もすればいいし、文献から先人の知恵を得てヒントにしてもいいのです。また、良質な問いはそれ自体を育てたり、深めたりすることができます。すぐに答えに直結しなくても、それらを考える過程に学びがあります。時を経て答えが変わることもあるし、全く違う新たな問いに発展することだってあるのです。

私のフォトアート教室では、写真を教えていません。もちろん基本的なカメラの操作や、知っていて損のない最低限の知識は文脈に合わせて伝えますが、どう撮るべきか、どういう写真がいい写真か、ということは一切言いません。みんながいいと思う写真=写真の正解を決めたり学んだりすることが目的ではないからです。写真家やカメラマンを育成することも目的ではありません。
それよりも、撮ってきた写真をみんなで見たり、写真を使った制作を通じて、それぞれが何に着目したか、他の子の写真や作品を観察して何に気づいたかなどについての対話を重視しています。子どもたちの「好き」や「得意」、問いの種を探しては蒔き、水や肥料をやることが目的だからです。

子どもたちが撮る写真や作る作品には、それぞれの個性が爆発しています。同じ課題に同じように取り組んでも、笑えるくらい個性がはみ出してしまいます。まさに「子どもは誰でも芸術家」です。そのはみ出した部分に私は着目し、その背景にある彼らの視点や気づきを拾い上げ、言葉にし、ちょっぴり深めるのをただ手伝うのです。
そういうプロセスを繰り返す中で、自分にとっての良い問いに出会えると、やがて自分の進む道を自分で選ぶことができるようになります。親の敷いたレールにただ乗るのでなく、周囲に何となく流されるのでなく、自分の人生の舵を取ることができるのです。

学校が子どもたちの問いを育ててくれないなら、私がやる。それも、素朴な疑問をまだたくさん抱えている小学生のうちにやる必要がある。そして幸い、私には写真という手段がある。
フォトアート教室には、小学生の親として我が子を観察してきた中で生まれた「今やらなければ」という切実な気持ちも大いに詰まっているのです。

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