幸せの主体はつねに私
幸せであるかどうかを決めるのは私。
当たり前のことのようで、実は難しい。
幸せなのかどうか、どうしても人と比べてしまう気持ちがあるから。
けれど、その基準はやっぱり自分の中にあるもので、人には人の別の基準があることになかなか気がつけない。
例えば、あの人は裕福そう。若く見える。パートナーが優しそう。友人が多そう。いつも楽しそう。両親が近くにいて頼れることがうらやましい。
「うらやましい」という感情が最もやっかいだ。
私にとって「うらやましい」ことは、人にとっては大したことではないことも多い。そしてその人にも、誰かを「うらやましい」という気持ちは、多かれ少なかれ存在するはずなのに。「うらやましい」理由は、だいたい「~そう」という想像だというのに。
子どもの頃の私が今の私の生活を見たら、きっとうらやましいと言うだろう。
地元を離れて念願の「遠く」に住み、結婚して子どもがいる。
そう考えると、いや、考えなくても私は今、結構幸せだと思う。
些細な不満はいくらでもあげられるけれど、それは全体の幸せからすれば、問題にはならない。
親の支配から逃れて就職して、地元に帰らないと決めた私に父は言った。
「こんなにしてやってるのに何が不満なんだ」
それまでにも幾度も言われた言葉を思い出す。
「お前たちは本当に幸せだ」
それは、父自身が思い通りにならなかった人生の進路を、私は反対を押し切って叶えていることが、「うらやましかった」のだろう、と今では理解している。
幸せであるかどうか、決めるのは私だ。
地元を捨てる決意が揺るがない私を、両親は何度も何度も詰った。
いろいろと反論したが、ほとんど受け入れてもらえなかった。
だが、一度だけ、父を黙らせたことがある。
「お父さんが、『お前は幸せだ』と言えば、私は幸せなんですか? 私がどう思っているかは関係ないんですか?」
私が幸せであるかどうか、決めるのはいつもつねに、私なのだと、あのときに気づけてよかった。
これまでに、頭の中に浮かんでいたさまざまなテーマを文字に起こしていきます。お心にとまることがあれば幸いです。