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ポメさんの人生と平行線が交わる点

最近は、ワイヤレスのイヤフォンを耳につけたまま通話をしている人が珍しくありませんから、そばで誰かが1人で喋っていても、まあ誰かと通話中かな、くらいに思って、あまり気にとめませんが、以前であれば、あれ?独り言かな、それともイマジナリーフレンドと会話中かな?と、意識を向けたものです。

先日、おや?これは、独り言かと思ってたけど、もしかして私に話しかけている?となったことがありました。

ある晩、近所の船長の店で、鉢植えと同化して私は中庭の端に座っていました。私はカフェやバーでは本かタブレットを片手に、隅っこにいるのを好む人間です。

中庭は植木があり空が広がり開放感があって気持ち良いのですが、残念ながら雨がパラパラと降り出したので、屋根の下のテラス席に私は移動しました。他のお客さんたちは、少々の雨なんて気にせんわい、といった様子で、中庭の木の枝の下で引き続きわいわいとしています。

テラスは私だけだったのですが、よく見る背の高い男性客が1人で来て「こんばんは、元気?」と私にスペイン語で声をかけ、私は「元気です。ありがとう」と返事をし、その人は隣のテーブルに腰掛けました。彼は静かにタバコを吸いながら新聞を読んでいます。

まもなく、時々見る近所の女性客がテラス席にやって来て、はじめは船長と話していたのですが、船長が他の客の対応で忙しくなり、彼女はそこで新聞を読んでいる男性客に話しかけることにしたようでした。

私は彼女とは、おはようございます、とあいさつを交わすくらいで、会話をしたことはないし、名前も知りません。彼女は「絵を描いている人」だと船長から聞いたことがありましたが、それ以上どんな人なのか知りません。小柄でブロンドのカーリーヘアをまとめて、いつもスポーツウエアのような装いです。

彼は、あまり彼女との雑談に乗り気ではない様子でしたが、女性はしつこく話しかけ、だんだん彼は不機嫌をあらわにしてきました。

それはまるで、静かに佇むドーベルマンに、綿毛のようなポメラニアンがキャンキャンと吠えながら周囲を走り回っているようでした。

ポメラニアンはドーベルマンの読んでいる新聞や持ち物をつつくので、しまいにはドーベルマンの堪忍袋の尾が切れ、ひと吠えして、彼女の手からものを取り上げ、立ち上がって去ってしまいました。

ドーベルマンが支払いをする間にも、ポメラニアンは後方でキャンキャンと吠えていたのですが、もう何も元には戻りませんでした。彼らがどんな会話をしていたのか、意識を向けていなかったうえに、私はカタルーニャ語がほとんどできないのもあり、少しもわかりません。

ドーベルマンが去った後、テラスは私とポメラニアンだけになりました。私はずっと下を向いて書き物をしていましたから、そこでの出来事には参加しておらず、テーブルや椅子と同じ背景だったはずです(少なくとも私はそう思っていました)。

ポメラニアンは苛立ちを抑えられないようで座っていられず、タバコを片手に、うろうろとしながら、スペイン語で「なぜ誰も私に寛容じゃないの。私は人々に寛容なのに」とはっきりとした声で言っていました。まるで舞台に立つ役者が困惑や憤りや悲しみと手振りを交えながら、セリフを言っているようでした。

ポメラニアンさんは店内のカウンターの中で客の対応をしている船長に向かって話しているのかな、または、混乱した気持ちを落ち着かせるために独り言を声に出しているのかな、と私は解釈していました。

私のグラスは空になっていたので、そろそろ帰ろうか、と考えて目線を上げると、ポメラニアンさんの視線がしっかり私を捉えて、「どうして誰もわかってくれないの」と言っています。

完全に自分自身は背景だと思っていた私は、あれ?目線が合う、ということは、もしかしてポメラニアンさんはずっと私に話しかけていたのか、と、ようやく気づきました。ポメラニアンさんは私を視線で捉えたまま、指にタバコを挟み、片手で灰皿を持ち、私の目の前まで歩いてきて、「だってそうじゃない?」とたくさん思いを言葉にして吐き出しています。

そうか、独り言かと思っていたけど、カタルーニャ語からスペイン語に切り替えて話していると言うことは、少なくとも私を視野に入れてしゃべっていたのか、ちゃんと聞いていなかった。

これはまずい、話の流れが、さっぱりわからないし、同意を求められても困ってしまいます。私は日本語でも喋るのが得意ではなく、スペイン語となると、もうまともな文章は組み立てられません。

私はひとまず、ウンウンとうなづきながら、帰り支度を始めました。立ち上がろうとすると、ポメラニアンさんは「いいのよ、私が出ていくから、その方がいいんだから」と涙ぐんで言います。

「いやいや、帰らないといけないんですよ」と私は言い、彼女の前を通り、「泣かないで。名前なんていうの?ポメ?(ここでの仮名です)私はハナです。大丈夫だから、泣かないでね。さよなら」とポメさんの背中をなでて、私はその場をさりました。

忙しくしていた船長のところに行って、「私帰るね。ポメさん泣いてるよ」というと「あぁ、ポメはダメだ」と言って頭を振っていました。

まともに話もできない私に向かって、ポメさんはずっと喋っていたのかと思うと何とも言えない気持ちになりました。

申し訳ないような気もしないでもないですが、彼女にとっては誰かが目の前で彼女の言葉を受け流してくれるだけでも良かったのかなとも思いました。しかし、私は夕飯をこしらえるため帰宅せねばなりませんでしたから、彼女の前に座り続けることもできません。

帰宅して相方にポメさんとの出来事を話すと、「なんてタイミングで自己紹介してるの」と笑われましたが、私としては他にできる会話を持ち合わせていないし、彼女が気が紛れてくれればいいのだけどと考えたのですが。

同じ時間に並行して、たくさんの人々が、それぞれの人生を送っていて、あまり交わることはないですから、普段は並行して生きる人々のことを気にとめることはありません。時に、こうやって並行していた線が、何らかの具合で方向を変えたり脱線したりして、交わる瞬間もある。

一度、線と線が交わり、点としてポメさんの断片に触れてしまうと、私の脳内には付箋紙に書かれたメモのようにポメさんが残されてしまいます。何もすることはできないのですけど。私には何もできないし、きっとすぐ消えてしまうのでしょうけど。

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