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毎日更新をやめたら自分のnoteが書籍化された話



これは持論だが、

noterとして成長するには

「仮説と検証」がすべてだと思う。



私さ、前はムリして毎日更新をしてたんだよね。
閲覧数?
毎回「9人」とかだよ。


驚愕の1ケタ。いや逆にスゴイよ。
閲覧数が1ケタで止まったnoteを書いたことある人いたらコメント欄で教えてほしいくらいだよ。絶対にいないと思う。



別にね、毎日更新することは悪いことじゃない。
でも、毎日更新という執筆スタイルは私には合ってなかった。


だって私が毎日更新したところでさ、

ムリして書いたnoteだから魂がこもってない。

魂がこもってないから、誰にも響かない。

誰にも響かないから、誰にも読まれない。

誰にも読まれないから、さらに書く気力がなくなる。

もう誰にもとめられない地獄のスパイラルに陥ってた。


そのスパイラルから抜け出して、最初に書いたnoteがこれだ。

閲覧数は数十万に爆増。

「note創作大賞」で優秀賞を受賞。

複数の出版社からお声がけいただき、書籍化までされた。


こんな夢みたいなできごとが起きたのは、ひとえに毎日更新の地獄のスパイラルから抜け出せたおかげだ。
そのスパイラルから抜け出したきっかけとなる出来事は、とあるライブだった。




大好きな歌手のライブを見に関西に行ったんだよね。
そしたらそのお目当ての歌手が歌う前に、いわゆる「前座」となるバンドが曲を披露してくれた。


3曲ほど披露した後、ボーカルの男の子がこう言った。

「今回前座として出させていただいたワケですが、これをきっかけに少しでもボクらのことを知ってもらえたらうれしいです」

って。そしてこう続けた。

「ボクたち、こういう活動もやってます」
「ほかにこういう曲も作ってます」
「インスタもやってるからフォローしてください」
「あとは……」

その様子を見て、

「ああ、まるで私のようだな」と思った。




私が昔、毎日更新で書いていたnoteはまさにこんな感じの「自分本位」の姿勢で書かれたnoteばかりだった。

とにかく自分、自分、自分、自分。

自分のことを知ってほしい。
自分の文章を読んでほしい。
「読者に楽しんでもらおう」なんて気持ちは一切、ない。



もちろん、さっき出てきたボーカルの子の姿勢はすごく大切だ。
前座の時間が終わる最後の短い時間。

この貴重な時間を使ってしっかり自分たちを売り込んでいく。
これは絶対に必要だし、やらねばならんことだ。
ただ、それ「だけ」で終わったらもったいない。




だって「宣伝」を聞きたくてしょうがない人なんて、いないじゃない?



テレビがわかりやすい例だと思う。
テレビつけて、番組が一切やってなくてひたすら

ずっとCMだけ流れてたら、

誰も見ないじゃん?



あれと一緒。
番組っていう「他人を楽しませるコンテンツ」があるから人はテレビを見る。
そしてその「楽しいコンテンツ」の合間にCMという宣伝がある。
だから人はCMを見てくれる。



なので、「自分を知ってほしい」「自分のファンになってほしい」という思いで自分を宣伝するなら、

「相手に楽しんでもらう」


っていう姿勢がすごく大切って思うんだ。



見てよこれ。私がむかし書いてたnoteのタイトル。

「最近買ってよかったもの」
「転職することにした理由」
「今月読んでよかった10冊の本」

あかーん!!(宮川大輔)



たとえばさ、「今月読んでよかった10冊の本」ってタイトルのnote、今あったじゃん。

「このnoteを読むメリットって、何かあります?」

って誰かに聞かれたら、私、答えられない。
だってないんだもん。メリットが。



逆にいえば、「読まれるnote」ってのは「読者にとって読むメリットがあるnote」ってことだ(当たり前すぎるけど)。

だから今の私なら「読むとこういうメリットがある」ってテーマを決めて、そのテーマに沿ってコンテンツをつくると思う。



たとえば、「今月読んでよかった10冊の本」という最悪のnoteをどう改良するかっていうとこんな感じに改良すると思う。

「読めば絶対に部屋が片付く!マストバイな本12選」

これをコンテンツに落とし込むとこうなる。
(こないだ実際に自分のツイッターでつぶやいたときのキャプチャ)。


実際のツイート


これなら、「読む価値のあるコンテンツ」と言えるんじゃないかな(言えなかったらごめん)。


だってこれなら、

「おっ、これは部屋を片付けたいと思っている、まさに自分のためのコンテンツだな」

って思ってもらえる。
相手が読むメリットを感じてくれる。



だから、私思った。
毎日更新をしていても、誰にも読まれないのなら

「自分のnoteは、

誰に、どんなメリットを届けられるのか」


を熟考すると、一気にたくさんの人に読んでもらえるんじゃないかって。




だってそのメリットさえ決めてしまえば、そのメリットを読者に届けるためにどんな努力だってするじゃない。
そうして生まれたnoteって、読者が喜んでくれる価値あるnoteになるじゃない。
するとそういうnoteはたくさんの人に読まれるじゃない。
だからメリットを考えることって超大事だと思うんだ。



でもさ、これ難しいよね。

「自分のnoteは、誰に、どんなメリットを届けられるのか」

趣味でnote書いてる人も。
「〇〇大学の公式note」や「〇〇会社の広報note」の中の人として書いている人も。きっと、すごく悩むんじゃないかな。




私の場合「自分のnoteは、誰に、どんなメリットを届けられるのか」を考えた結果この結論に行きついた。

それは私のnoteを読んだ人が

「うわ~~~!!!!

文章書きたい~~!!!」


って書きたい欲を大爆発させること。




これが

「私のnoteが読者に差し上げることができる、読者にとってのメリット」

なんだ。



だから「華さんのnoteを引用してnoteを書きました!」って通知が来ると五体投地するレベルでうれしくなる。
引用して書いてくれてる人、いつもありがとね。



こうやって「自分のnoteは、誰に、どんなメリットを届けられるのか」を考えると、一気に書きやすくなるんだよね。

だって誰に対して何をどう書けばいいのか、瞬時にわかるようになるから。
だからすごく書きやすくなる。


しかし、一つ問題がある。


書きやすいから書いた文章が、必ずしも読まれる文章だとは限らないんだだ。

渾身の出来だ!

って思っても全然読まれなかった、ってことない?



私はあるよ。

ってか誰よりもあるよ。
「読まれなかった回数選手権」があったら日本どころか世界で戦えるレベルだよ。

絶対に負けねぇ。

絶対に、誰にも、負けねぇ。


じゃあ、読まれる文章を

書くためには、どうすればいいか?



これね、一つしか方法はないと私は思ってる。

とにかく書いた文章を誰かに読んでもらって、その誰かからフィードバックを受けることだ。

「ええ……(困惑)」

ってなるよね。わかる。



もうnoteで文章を書いてる人なら耳ダコだよね。

「フィードバックが大事?」
「そんなんわかってるし」

ってなるよね。
わかる。みんなそんなこと、わかってるってことがわかる。



たださ、「そんなんわかってるわ」ってなるくらいフィードバックは大事なんだよね。
それくらいみんなが「わかりきってる」って言えるくらい大事なことなんだ。



でも、「実際に誰かにフィードバックしてもらう」となるといろんな問題が立ちはだかる。

たとえば「家族や友人にはnoteやってることナイショだから、フィードバックは頼めない」とか。

たとえば「フィードバックをしてもらうからには文章のプロに依頼したいけど、どこで探せばいいのかわからない」とか。


私もそうだった。

そもそも私、noteって趣味で書いてたしさ。
仕事で書いた文章ならまだしも、趣味で書いた文章をプロに見てもらうのはなんとなく抵抗があった。



でも、それでもどうしても「読まれるnote」を書きたかった。
じゃあどうしたかっていうと

友達にビールをおごった。


7杯おごった記憶がある


場所は恵比寿。


恵比寿には「ヱビスビール記念博物館」って博物館があるんだけど、ここでできたての極上のビールを飲むことができるんだよね。
近くまで来たら行ってみて。マジでうまい。


このヱビスビール記念博物館で友達にビールをおごった。
もう缶とか瓶では絶対に味わえない最高にウマいビールを飲みながら、

「これからnoteで書く予定のネタ」

を友達に”声で”聴いてもらうことにした。



これ、我ながら効果抜群だった。



実際の文章を見せるわけじゃないから照れくさくないし。
相手からしたら

「ただいつもの飲み友だちと、居酒屋に行ってビール飲んで話聞いてるだけ」

だから引き受ける側の相手も、頼む側の私もすごく気楽だった。



でさ、友達にネタを聞いてもらってると彼女の顔が曇る瞬間があるのよ。
そこでわかる。

「あ、このネタはつまらないんだな」


って。



逆に声出して笑ってくれたり、しんみりと涙ぐんでくれたりするネタもあった。
そういう「相手が反応を返してくれた」ネタは価値がある。
だからそういう反応を返してくれたネタだけをnoteにする。

これがすごく良い方法だった。



今までたくさんnoteを書いてきた。

100万円貯めて、汚部屋を脱出してみた

別居婚を8年やってみた

いい文章を書き続けたいあなたへ

これは全部、居酒屋で友達に聴いてもらった結果「生き残ったネタ」を文章にしたものなんだ。




「良い書き手は、良い読者が育てる」


という言葉がある。

まさにその通りだ。
良い読者を持つことが、良い書き手になる最短の道だ。



だから、身近な人でいい。

友達とか家族とか。
社会人なら会社の同僚とか先輩とか。
大学生ならゼミの友達とかサークルの先輩とか。

なんでもいいからnoteのネタを

言葉で話すといい。


これが「読まれるnoteを書く」ための最短の方法だ(と、思う)。


ただし、

「でも、私ちょっとそういうnoteのネタを話せる友達いないし」

って人はいると思う。



そういう人は、「あなたのnoteにフィードバックします」って人をnoteの中で探すといい。
「フィードバックサービス」とか「ライターコンサル」って検索すると出てくるよ。
お値段は数千円くらいのことが多いかな。



私も去年とある人に自分のnoteにフィードバックしてもらった。

誰にお願いしたかはヒミツ♡


なんでかっていうと、「私には最高のコンサルタント」だったけど、今このnoteを読んでいる人にとっても最高だとは限らないから。



「うわ、この人が書くnoteめっちゃ好きだわ」


って自分が思う人に依頼するのが、やっぱり一番いいからね。




ちなみに。


私がもし誰かのnoteにフィードバックするなら

①まずめっちゃ褒める

②次にシンプルに日本語の修正

③最後に、「ここをこうするのはどう?」って相談

という3ステップにすると思う。

というか、今、会社やめて独立して現在「ライターや新人編集者への教育研修」やってるけどまさにこのステップでやっている。



「フィードバック受けたいけど、実際どんな感じなのかわからんくて怖い」

って人のために、まずは①の「フィードバックでめっちゃ褒める」ってのがどんな感じか具体的に見せてみようと思う。

私が以前、とある人のnoteを褒めちぎった時のフィードバックがこんな感じ。




実際の怒涛のフィードバック

あーもうこれ、まずnoteの流れがめっちゃ良くて超好きです。

テンポがよく、縷々として文章に引き込まれていく。雑味が一切ない。

「読者にとってのノイズ」がない文章って、なめらかなんですよね。
こんな、おだやかに流れる小川のようなきれいな文章、久しぶりで新鮮な気持ちになります。

一度もつっかかることなく読めるって、これ、読んでる側からするとわかりにくいんですけど書き手のすごい努力の結果なんですよね。
マジでありがたい。


あとやっぱりこのnoteの冒頭の一文がいいですね。

ファーストビューで閲覧できる箇所に、離脱されないような文章があるのは大切ですよね。

クリックして、「おっ」と思う文章がここにあると、やっぱりスクロールしたくなりますもん。

紙とは違う、Webならではのこの気遣い。すごく好きです。


それから、文章の表面はエッセイ風でとても読みやすいのに、その裏では「論理性」に記事全体が下支えされているんだなって思いました。

こういう記事骨子の組み方もめっちゃいいですね。

情報という「点」を、論理という「線」で結ぶことに見事に成功している。

こういう文章、普通書けないですよ。
私これすごく勉強になりました。


あと自分自身の考えを「相対化」した上で、執筆に臨んでいるのも大好きです。

書き手として、こういう姿勢大切ですよね。

「私はこう思うけど、そう思わない人もいるよね」
「でも、私の考えの中で、音楽性が合う部分がもしあって、しかもそれが参考になったらうれしいな」

っていうこの謙虚で誠実な姿勢。見習います。


これ、例えるならなんかアジフライに似てますね。

アジフライって、醤油をかける人もいればソースやタルタルや塩コショウをかける人もいるでしょ。

でも、正解ってないじゃないですか。

「醤油こそ正義!ソースは邪道!!認めるべきではない!廃止しよう!」なんて言う人はいない。

醤油もおいしいし、ソースもおいしい。
なんなら何もかけなくてもおいしい。

そんな姿勢と同じように、執筆に臨むのって大切ですよね。

「私が書いたことが唯一無二の真理」ではなく、「あくまで、私が書いたことは読者にとっては選択肢の一つにすぎない」というこの謙虚さ。

私も大切にしようと思います。


あと、これは書き手の人柄が出ていると思ったんですが、「強調語が少ない」のが書き手の誠実さを物語ってますね。

「かなり」「超」「めっちゃ」「すごく」。

これらの強調語って主観的なものでしょう?

だから、使わないことで客観性を担保できる。
そこに誠実さを感じます。


もちろん、強調語を使わないことが「常に正しい」わけじゃもちろんないとは思います。
場合によりますからね。

私、文章の種類によっては(つまりたとえばエッセイとかなら)こういった強調語はどんどん使うんですけど。

でも、この強調語がもつ「ある種の危うさ」をしっかり理解しておく。

これってすばらしいことだと思うんです。


あとこのnote、型にハメないところもいいですねー。

一番ココが好きかも。

なんだっけ、PREP(プレップ)法でしたっけ。
「Point(結論)」
「Reason(理由)」
「Example(具体例)」
「Point(結論)」
の順で書く文章作成の方法。

このPREP法でついつい何でも書きたくなっちゃうんですよね。楽だから。

でも、文章にもいろんな種類があるじゃないですか。
執筆の目的が違うとかね。

情報伝達なのか感情表現なのか意思表示なのか、その目的によってたとえば「あえて、意図的に結論を最後に書く」ということも手法として私はアリだと思うんですよ。

そういう「型にはめ込まない」という、書き手の執筆に対する姿勢がすごく素敵だなって思いました。


それから、「読者が読みたいであろうことを先読みして書く」という姿勢がにじみ出ている文章ですね。

やさしさと気遣いに裏打ちされた文章だと思います。
これって実際の生のコミュニケーションと一緒ですよね。

「相手が聞きたいことを話し、相手が言いたいことを聞いてあげる」。

生のコミュニケーションってこれが大事じゃないですか。
文章も会話も一緒なんですね。改めて、このnoteを読んで気づかされました。




……と、こんな感じ。


いや、なんでこんなに褒めるん?


って思った人いると思う。
それはね、自分の文章の「どこが魅力的なのか」は自分じゃわからないと、私は思うからだ。


みんなもそうじゃない?
「イイネ」がいっぱいついた自分のnote、「えっ、どこが良かったんだろう」って思うことない?私は、ある。



おもしろいnoteを書いてる人って、とにかくみんな「自分の長所」を徹底的に磨いているんだよね。

「短所を見つけてそれを長所にしよう!」

ともがいている人は一人も、いない。



この戦略はすごく良いと思う。好きだ。
だって短所を長所に転換するには、ものすごいコストと時間と労力がかかるわけだから。
そこにリソースを費やすのはちょっともったいない。



だったら、短所を長所にするために努力するよりも、

長所をさらに磨き上げて

誰にも負けない武器にする。


そのほうがたとえどんな戦場でも、戦っていける。
そう思うんだ。



だから、私は褒める。

「ここが好きだよ」

って心を込めて伝えている。



ただ、褒める「だけ」で終わったらよくない。
フィードバックがここで終わると、フィードバックを受けた人の文章が中途半端に磨かれて終わってしまう。


だから私は、いっぱい褒めた後に

ステップ②「日本語の間違いを添削して修正」

をやっている。


これも大切なステップだよね。
だってたとえばさ、極端な話「人工知能」が「人口知能」ってなってたら意味がかわっちゃうしね。
だからフィードバックで「正しい日本語に直す」ってのはとっても大切。




具体的に、私が普段どういう風にライターの原稿に添削を入れてるか見てみよう。

でも、実際にいつもお世話になってるライターさんの原稿をここに載せるわけには、さすがにいかない。


なので、この方法にする。

「わざと間違った日本語を

ふんだんに盛り込んだフェイク記事」


をここに載せる。
そして、その記事に対して添削してみるね。



このフェイク記事は、自分の会社で複数人ライターを採用する際につくったものだ。

採用するにあたって、応募してきてくれたライターさんたちにこのフェイク記事を読んでもらった。

そして赤ペンで「この日本語が間違ってます」ってライターさんたちに書いてもらった。

んで、「全部の間違った日本語に気づけた人」だけを採用した。

今から見せるフェイク記事は、この採用試験のときに私が自分でつくったフェイク記事だ。



さて、実際そのフェイク記事をここに載せてみるね。
ライターさんもそうでない人も、

「間違った日本語に気づくか」


ゲーム感覚で楽しんでみてね。



ちなみに、間違いは21カ所もあるよ。
それでは、どうぞ。




ここからフェイク記事だよ!

【インタビュー】日本一のコンテンツマーケティング会社で大活躍のディレクターを直撃


田中啓介
1976年鳥取県生まれ。明治大学卒業。
2006年株式会社GAPIに入社。
趣味は一眼レフで娘を撮影すること。
キャノンの中級機を愛用している。

――御社で運営されているサービスについて教えてください。

田中さん:企業さまのコンテンツマーケティングを支援するサービスを運営しており、企業さまが記事作成を
弊社に委託し、そして弊社が抱えるライターさんや専門家の方に記事を作成してもらうという仕組です。

弊社で抱えているライターさんは1万人を超えています。そのため、弊社独自の人口知能を使ってクライアントから依頼のあったトピックに最も適したライターさんへ自動で依頼が行く仕組づくりをしています。ちなみに、僕自身が執筆を担当することもありますね。

――ご自身でも執筆されるとは驚きました。田中さんの得意ジャンルを教えてください。

田中さん:僕の得意なジャンルは建築、美容、医療、金融などの分野で執筆を行い、コンテンツSEOを担当しています。

困っていることは、時々「建築」ではなく「建設」に関する依頼が僕宛てに来ること。ちょっと紛わしいかもしれませんが、この二つは全くの別物なので、毎回別の専門ライターに依頼しています(笑)。

――普段ライターさんとのやりとりをスムーズにするために注意していることはありますか?

田中さん:気さくに話しかけてもらえるよう、普段から気を付けていますね。そうすれば、ライターさんも自身の要望を言いやすい状況をつくることができると言えると思います。

たとえば、業務以外の雑談も意識的にするようにしています。僕がドリンクを飲みながら執筆をしているライターに声をかけることもありますね。

最近では、ライターさんとのコミュニケーションが本当にうまくなってきたなと実感しています。
雑談がすごく盛り上がって相手が爆笑してくれたりするととてもうれしいですね。

――田中さんは社内チームのマネジメントも担当しているとのことですが、チームのメンバーに一番求めることは何ですか?


田中さん:いろいろありますが、一番最初に思い浮かぶのは「高速でPDCAを回して欲しい」ということ。クライアントに納品した記事のPVが思わしくなかったら、集客のための次の打ち手を「すぐに」考えてほしいんです。また、その際当然ながら「真っ当な」集客をしたいです。姑息な手段を使ってしまっては、いずれ自分自身の足元をすくわれることになりますからね。

――最後に、田中さんご自身のプライベートとご趣味について教えてください。

田中さん:最近の趣味はウォーキングですね。近所の町医者に「運動してください」と言われたことがきっかけです。万歩計を使って数字を記録しているのですが、一日平均10キロは歩きます。

やはり、体は大切な資本です。10キロも歩くのは敷居が高いと感じるかもしれないので、ウォーキングに興味がある方はまずは1キロくらいから体を慣らすのもよいかもしれません。ウォーキングにはかなりハマってしまい、今年は元旦の朝も一人で走っていました(笑)。余分なぜい肉が落ちていくのは快感です。

――それだけ体調管理をされているということは、食事の内容も見直されたのでしょうか?

田中さん:はい。実は僕、かなりの偏食家でした。食わず嫌いで食べられなかった物は約100個ほどありますね。海外旅行の時などはその国の食べ物が合わず、ことと次第によっては帰国するまで絶食ということもありました。

ウォーキングをきっかけに食べる事の重要性を再認識し、口にできるものを少しずつ増やしました。特に時間がかかったのはイカですね(笑)。あの食感に抵抗があり、食べられるようになるのに3年かかりました。今では大好物の一つで、イカを丸々1匹たいらげるなんてこともあります。

――ありがとうございました!

(フェイク記事ここまで)



……どう?


間違った日本語をふんだんに使った、フェイク記事。
これつくるのに2時間くらいかかったわ。マジで疲れた。

で、ここから答え合わせ。正解はこんな感じ。





こんな感じ。


ここまで、「私が普段やっているフィードバック」を実例つきで見てもらったワケだけど。

フィードバックってこんな感じなんだよね。


こんな風にフィードバックを受けることで、書いた文章っていうのはさらに磨かれていくんだ。



ただね、フィードバックを受けるときは「ただやみくもに書いたnote」を提出しちゃうとかなりもったいない。

「魂を込めることに成功したnote」


だけを出すのが一番だ。



なぜならば、書き手のあなたが"真剣に"文章を書いているように。

フィードバックする側の人間も、"真剣に"フィードバックしているからだ。



フィードバックって緊張するんだよね。
フィードバック「される」時じゃなくて、

フィードバック「する」時に。



私は今まで編集者・編集長としてキャリアを積み、独立した今は「新人編集者とか新人ライターへの研修」を仕事の一つにしている。

そのほか企業の広報さんが書いたリリース添削とか、大学院生が書いた論文添削とか(実は私、博士課程中退してるから論文も添削できる)、公式noteを運営している中の人のnote添削など、とにかく「他人が書いた文章へフィードバックする」仕事をしている。



未だに緊張するんだよね。
いつ、いかなる時もフィードバックを「するとき」に緊張する。

もう編集者としてのキャリアを何年も積んできてるのに。
編集長も長年務めてきたというのに。

未だに緊張する。



まさに昨日も人さまの原稿にフィードバックをした。
原稿2本見たよ。


一つは、とあるコンテンツマーケティング会社の社員さんが書いた原稿。
もう一つは、とあるWeb媒体の新人編集者が書いた原稿だった。


どちらの人も、文章を書くことを仕事にしている人だ。
前者は「クライアントから依頼をうけて、クライアントのために記事を書いて納品する仕事」。
後者は「自社のオウンドメディアに掲載するための記事を書く仕事」。




私ね、ずっと文章を書く仕事をしてきたからわかる。
文章を書くのは難しい。
書くだけなら誰にだってできるんだよね。

でも、「読まれる文章」は

誰にでも書けるわけじゃない。


だから文章を書くのは難しいと思うんだ。




「文章を書く仕事をしている人」がつむぐ言葉は、まさに計算に計算を重ねて磨き上げられたダイヤモンドのようなもの。
悩んで悩んで悩み狂うのがプロの仕事だから。



だから、文章のあちこちに悩み苦しみ抜いた痕跡がある。
同じ文章を書く仕事をしているから見ればわかる。
それこそ、一瞬で。

「泣けない原稿は原稿じゃない」


昔、そう文章の師に言われたことがあるけどまさにこれ。
表現者として悩み苦しみ抜いた痕跡があちこちにあるからこそ、原稿を読んでると泣けてくる。
本当にそうだよね。泣けない原稿は原稿じゃない。



正直、一見わかりにくいよ。

だって「書く仕事」をしている人が生み出す文章っていうのは、完璧だから。

完璧な文章って、スラスラ読める。
縷々として流れる小川のようにスイスイ読める。
だから、はた目から見るとすごく簡単な文章に見える。

「こんなの私だって書けるよ」

って思っちゃう文章に見えるんだ。



でも、極限まで磨き上げた文章ってそうなるんだよね。
「私でも書ける」って思われる文章に見える。


でもさ、完璧な文章ってのはそういうもんだ。
それでいいと思う。
そうでなければならないと思う。



そういう完璧な文章ってのは悩んで悩んで悩み狂って生まれるもんなんだよね。

読む側から見ると簡単そうに見えるのに、その簡単そうに見える文章を生み出すのは簡単じゃない。
簡単じゃないから、書くのはすごく大変だ。
大変っていうかもはや辛いよね。


前もほかのnoteで言ったことあるけど。

文章ってさ、インクで書くんじゃないんだよ。

血だよ。血で書くんだ。


自分の血をインク代わりにして書くつもりで、文章を書くんだ。



だから書くのは大変。書くのは辛い。
辛くて当然だよ。血で書いてんだから。
血ぃ出てたら絶対痛いでしょ。
だから書くのは痛いし辛い。



私「書くのが辛い」なんて新人のころ悩んだことあるけど、今考えると我ながらもうホントに意味不明。
「頭痛が痛い」みたいな感じ。「馬から落馬する」みたいな感じ。


「書くのが辛い」ってもう意味がわからん。


もはや翻訳不能なトートロジーだ。
それでは言葉が重複している。
「書く」という動詞がすでに「辛い」という意味を内包しているのだから。



でも、書くっていうのはそういうこと。
辛くて痛いもんなんだ。
でも、文章という名の自分のわが子を産むために、この産みの苦しみに耐えるのが書き手である私らの務めだ。

それが「書き手という母」の

あるべき姿だ。


そうやって痛い思いで出産した文章は、絶対に、絶対に読者に響くと思う。
失血死するんじゃないかってくらいの血の量で書いてんだから。
それくらいさらけ出して書いてんだから。そら絶対に読者に響くよ。


たまに血どころか内臓全部ぶちまけてる人いるけど、もうそれくらいやったほうがいいと思う。


だってすべてをさらけだして書いたほうが絶対に良い原稿になるから。
素っ裸になるくらいの気持ちで全部さらけだして書くんだ。




だから、緊張する。
「書くことを仕事にしている人の文章」にフィードバックをするのが。


相手が自分の血を使って書いた文章だよ?
苦しんで苦しんで苦しみ抜いて産んだ文章だよ?
それにフィードバックするってことは、つまり

魂の領分に

踏み込むことになるんだよ。


緊張しないわけが、ないじゃない。
プロの文章に肉薄することはほとんど命がけだ。



初めて部下の指導をすることになった時、

「なんかココ気になるからこう直しておいて~」

とか適当にフィードバックしていた新人編集長だったころの自分に言いたい。

チャンジャで頭洗うぞ。


チャンジャ



書く仕事をしている人は、文章をつむぐ「プロ」だ。
新卒だろうが新人だろうが関係ない。
これまで積んできたキャリアの期間もこなしてきた原稿の量も、どうでもいい。

「公式noteを立ち上げたから、毎日更新のためにちょっとした記事を書いただけ」

「ちょっと上司に頼まれてSNS運用任されたからツイート用に短文書いただけ」

「クライアントから依頼されたからSEOで検索1位とれる集客記事をお試しで書いただけ」

関係ない。


文章を書いて、それで会社から給料をもらっているならその時点で全員プロだ。


プロが行う仕事には、

すべてに意味がある。


助詞を意図的に消したり、あえて副詞を動詞から話したり、わざと表記ゆれを入れたり、流れを良くさせるために故意に主語と述語をねじれさせたり、接続詞の後に作為的に読点をなくしたり、演出として恣意的な誤謬を入れたり。

彼らが書いた文章はすさまじく巧妙な構造力学に支えられてできている。



マジで舌を巻くよ。
意図が込められてない箇所なんてただの一つもないんだから。
一文いちぶんに丹念に丹念に丹念に意図が込められている。



特にタイトル。記事のタイトルだ。

タイトルはもう本当に死ぬほど冷や汗書きながらフィードバックしてる。
書き手がその力量のすべてを注ぎ込んだ傑作だから。

Webの世界では、「記事タイトルをつけられるようになるのに最低でも5年かかる」と言われている。

5年だよ、5年。



私もいろんな編集者見てきたけど、確かにそれくらいかかるなって実感してる。
自分自身も、タイトルをつけられるようになるのにちょうど5年くらいはかかったなって思ってる。




だから余計にタイトルへのフィードバックはすごく緊張する。
正直赤入れしたくないなって思う時もぶっちゃけ、ある。
でも仕事だからやる。
どれだけ緊張してもその責務は果たさなくてはいけない。



プロが書く文章には「すべてに」意図がある。

フィードバックをする以上、書き手が込めたそれらの意図を私は「すべて」くみ取らなくてはいけない。

それがフィードバックをする側の、すなわち私の、果たすべき責務だ。



なぜそれが責務なのか?

それは、書き手が込めた「すべての」意図をくみ取らずにフィードバックすると「ただの的外れな諫言」になってしまうからだ。
だってその状態でフィードバックしたところで「いやそれはこういう意図があるんです」って言われちゃうじゃん。



ただただ無意味なコミュニケーションコストを相手にかけさせただけに終わってしまう。
仕事でこんなことが許されるわけがない。



ほら、こんな笑い話があるじゃない。
知ってるかな。とある原稿で、

登場人物たち全員の一人称が「ぼく」だから、誰が喋っているのかわかるように

Aという登場人物は「僕」
Bという登場人物は「ぼく」
Cという登場人物は「ボク」

とかき分けたら、
「表記ゆれがあったから全部『僕』で統一しました~!」
って直されてしまった。

みたいな笑い話が。
プロが書く文章には「すべてに」意図があることを理解していないと、こういう大事故が起きる。



だからほんと、フィードバックってのは恐ろしいよ。

自分の実力のすべてが、

相手にバレるんだから。



「編集長」だの「上司」だの「メンター」だの、部下に教える立場の人はきらびやかな肩書でコーティングされているけど。
フィードバックをするとそのコーティングがすべてはがれる。
だから、ほんとに、恐ろしい。



ってかそもそもさ、フィードバックっていうのは「その文章」ひいては「作品」をさらにブラッシュアップさせるための「建設的な批判」のことを指すよね。



建設的な「批判」っていうのは、

その文章の「完璧な理解者」にならないと絶対にできない。

だって完璧な理解をしていないと、批判そのものが一切意味のない戯言になってしまうから。



この「完璧の理解者」になるには、

実力がいる。


実力がないと、相手に送ったフィードバックは「ただの感想」になってしまう。
アドバイスになりそこねた、ただの感想だ。


「素人の感想と

プロのアドバイスには価値がある」


って言葉がある。



これは逆を言えば「素人のアドバイスと、プロの感想には価値がない」ってことだ。

全くその通りだと思う。



会社に勤めていたころは、私は会社からお金をもらって部下の編集者たちへフィードバックをしていた。

会社を辞めて独立した今は、私はクライアントからお金をもらってクライアントの会社に所属する社員さんたちへフィードバックをしている。

お金をもらってフィードバックという仕事をしている以上、私は当然プロだ。



私が会社員だろうが独立した経営者だろうが関係ない。
お金もらってフィードバックしてんだから、どっちの私も「プロ」だ。


そのプロがアドバイスではなくただの感想を送るなぞ、絶対にあってはならない。
プロに求められるのはアドバイスであって、アドバイスになりそこねた「ただの感想」に価値などない。




誰かの原稿にフィードバックする時、私はできるだけ口頭で伝えるようにしている。
文章で返すフィードバックだと、ニュアンスが伝わらなかったりするから。



プロってのはとにかく読者のことを考えて考えて考えまくって文章を書く。

そうやって読者のことを考え抜ける人っていうのは、ただ一人の例外もなく感受性が豊かだ。



しかし、感受性が豊かということはそれは同時に彼らの易傷性が実に高いことを意味している。

ライターとか編集者とか、それ以外でも「文章を書いてお金をもらっている」人って、とても”繊細”(って言葉はあんまり好きじゃないけど)な人が多いじゃない。
良い悪いは全く別にして、ね。



ってか"繊細"だからこそ良質な文章が書けるから、むしろ"繊細"であることはとても重要な特質だと思う。

この特質は、

物書きがすべからく持つべき特質だ。




でもだからこそ、的外れなフィードバックをすると彼らの筆を折らせることになりかねない。
"繊細"だからこそ、的外れなフィードバックで筆が簡単にポキリと折れてしまう。




彼らの筆が滑らかに動くよう、より良質な筆になるようフィードバックをしているはずが、筆そのものを折らせることになりかねないんだ。

「筆が折れたから2本に増えたぜ!これでもっと書けるなキャッホオオオウ!」って言う人も確かにいるけど、ほとんどの人はそんなポジティブには考えない。



だから私は、そうならないようニュアンスが最も伝わりやすい「声」という媒体を使って伝えるようにしている。
そうすれば、フィードバックという贈り物を優しく穏やかな「声」という真綿で包むことができるから。



でも、どの編集者もプロとして仕事をしている。
私が会社に勤めていたころの先輩も、上司も、同業他社でよく飲みに行く編集者も。
全員プロとして仕事をしている。




だから、プロの編集者として

プロの書き手にフィードバックをする以上、

「伝えている内容」は厳しい。




これはどの編集者も一緒。全員厳しい。
プロとして文章を書く人を相手にしているから、相手に求めるレベルも当然高い。
というかフィードバックをする際の下手な「やさしさ」ってのは、むしろ書き手が生み出した文章の進化を阻害する要因となりうるから。




だから私も新人の頃、自分が書いた文章をたくさんの先輩や上司から厳しく指導されてきたし、指導する側に回った今はそうしている。
もちろん、フィードバックという「厳しい」贈り物を優しく穏やかな「声」という真綿で包んだ上で。

それがフィードバックを「する側」がとるべき、常住坐臥の肝要な姿勢だからだ。



だから、たまに私のフィードバックを受けたライターさんから

「声と表現は菩薩そのものなのに、

その言葉の意味内容は、まさに悪鬼羅刹」


って言われる。
これは、本当に、ごめん。いやマジでごめん。




でもさ、フィードバックする際、私は一見ニコニコしながらおだやかに話しているように見えるかもしれないけど。

でも実際のところ、汗びっっっしょりだよ。

これ以上ないってくらい緊張してるんだもん。



当たり前だ。
だって相手の魂の領分に踏み込むことになるんだから。




でもさ、その「魂の領分」に踏み込まれて原稿をもみくちゃにされてこそ(そこに愛が無いとダメだけど)、良い原稿を書けるようになると思うんだ。
だから、フィードバックってのは「書く仕事」をしている人にとってはものすごく価値があると思う。



だからこそ。

書き手に「価値があるフィードバックだったな」と思ってもらえるように。

そしてその書き手が書いた記事を読んだ読者が「この記事読んでよかったな」と思ってくれるように。




今日も明日もその先も、良質なフィードバックをしていきたい。
そのために、どんな小さなことであってもまるでスポンジのようにすべてを吸収して学びたい。

これが、私が今年、学びたいことだ。



いや、違う。

正確には

「今年も、学び続けたい」ことだ。



この学びが終わることなど一生、ない。
なぜならば学びを終えた瞬間、「成長」ではなく「現状維持」にフェーズが移行するからだ。


現状維持では後退するだけだ。
キャリアは常に進化させていかねばならない。


これはどの職業でも一緒だと思う。
編集者だろうがライターだろうが大学教授だろうが美容師だろうがフォトグラファーだろうがタクシーの運転手だろうが会社役員だろうが関係ない。
どの職業でも一緒だ。


誰かが書いた文章に、良質なフィードバックをすること。
私はそれを、今年も学びたい。
プロであり続けるために学び続けたい。

そうして「良いコンテンツ」をつくる人の一助になりたい。
私のフィードバックを受けて「もっと書きたい」「書くのが楽しくて仕方がない」「筆がとまらない」と言ってもらいたい。

「書き続けたい」と言ってもらいたい。



私は今まで、表現者として何度も何度も筆を折りかけた。
表現者であり続けることは、諦観・絶望・銷魂とのたゆまぬ戦いだった。
だから、「続ける」ことがどれだけ尊いことか、私は知ってる。

だからこそ私、noteの「ミッション」が大好きだ。
noteのミッション、なんだか知ってる?

「だれもが創作をはじめ、

続けられるようにする」。


なんだって。


これすごくない?
始める、で終わるんじゃなくて「続けられるようにする」ってところ。
続けることをとても大切にしている素敵なミッションだと思う。


だから私も、プロの編集者として。
「書きたい」と思ってもらえるフィードバックがしたい。
「書き続けたい」と思ってもらえるフィードバックがしたい。

そんなフィードバックができるよう、今年も来年もずっと学び続けたい。




だから学びが終わることなど、一生、ない。
終わることがあるとすればそれは自分の命が終わったときだ。



女優アーサー・キットは言った。

私は常に学んでいる。 墓石が私の卒業証書になるだろう

そうだ。学びってのは一生続くもんだ。続けるもんなんだ。


だから私は今年も学ぶ。学び続ける。
文章のプロとして、「進化」し続けるために。





(了)








あとがき



塩むすび、うっっっっま。

このnoteさ、自分の部屋でセブンの塩むすび食べながら深夜に書き上げたんだよね。
最近のコンビニのおにぎりってやっぱレベル高いよね。
おいしいわ、これ。


このnoteはさ、「今年学びたいこと」をテーマにして書いた。

「今年学びたいことかぁ。なんだろ?」

って思ったけど瞬時に

「プロの編集者として、フィードバックをもっとうまくできるよう学び続けたい」

って思った。



多分これ、編集者なら誰でも真っ先に思いつくことだと思う。

編集者って職業っていうより、もはや生き方だから。
だから絶対に真っ先にコレが「今年"も"学びたいこと」として思い浮かぶと思う。



noteにはプロの編集者がわんさかいる。

村井 弦さん、竹村俊助さん、イノウ マサヒロさん、などなど。
noteで文章を書いている人なら一度は彼らのつむいだ言葉に触れたことがあるんじゃないかな。


今紹介した3つのnoteは「編集とは何か」をテーマにしている。
しかし、編集者だけじゃなく、文章を書くすべての人に読んでもらいたいすんごい大傑作だ。ぜひ読んでみてね。



ちなみに、「編集とは何か」に対して私が出した結論はこれだ。

このnoteで語りつくしてるから特に「あーもう書くのがつらいなぁ」って人、のぞいてみてね。


……そう、編集者とは職業ではなく生きざまだ。
だからこういった一流の、プロの編集者に「今年学びたいことは?」と聞いたらきっと全員が全員「編集者として更に高みを目指したい」って答えると思う。



だから私も、今年学びたいことってなんだろ?って考えた瞬間

「プロの編集者として、フィードバックをもっとうまくできるよう学び続けたい」

って思ったんだよね。


でも、バカ正直に「これが学びたいことです」って書いたところで誰も読むわけがない。

だって考えてもみてよ。

私は編集者としてキャリアを積むために、他人の文章にフィードバックする方法を学びたいです。

これが、今年学びたいことです。

って書いたところでさ。

「だから、何?」


って思わない?




もちろん、そう思わない人もいっぱいいると思う。
(そういう人は、やさしいよね。ありがとね)。


けど、noteの中で暮らしている人のほとんどは私のことを知らないし、ましてや好きでもない。
そういう人たちにも自分のnoteを届けるためには、これじゃだめだ。



「今年学びたいこと」がテーマだったからといって、

バカ正直に「今年学びたいことはこれです」って書いちゃだめだと思った。



「今年学びたいこと」がテーマのnoteは、現時点でもうすぐ4,000件に届きそうな勢いだ。

私はこの4,000件の中から自分のnoteを見つけてもらわなくちゃいけない。
見つけて、そして読んでもらうために。
ありとあらゆる努力をしなくちゃいけない。




だって、自分が大好きなnoterさんの「今年学びたいこと」なら

「うわ~!知りたい!何を学びたいんだろう?」

ってなるけどさ。
「私のことを知っている」「しかも私のことを好きだと思ってくれてる」人はすごく少ない。



だから、「私のことを知らなくて私のことを好きじゃない人」にもこのnoteを届けるために。
「私が今年学びたいこと」という中身を「もうnoteを書きたくない人はこうするといいかも」というメリットで包み込んだ。

まるで肉まんのように。



「私が学びたいこと」が具で、「読者にとってのメリット」が肉まんの皮。



こうやって「書きたいこと」を「読者にとってのメリット」で包み込むと、読んでもらいやすいかなって思った。
だから今回は肉まん方式でnoteを書いた。あー、楽しかった。



このnoteは、まさにエッセイ……つまり随筆として書いたんだよね。

「随」っていうのは

「成り行きにまかせる」って意味なんだって。


つまり随筆とは、「筆がおもむくままに、筆にまかせて書く文章」ってことだ。



だからこのnoteは「もうnoteを書きたくないあなたへ」から始まり、「フィードバックってめっちゃいいよ」と話題が流れ、最終的に「プロの編集者として学びたいこと」に着地した。


まさに筆がおもむくがままに任せて書いた。
だから流れるような文章に仕上がった。



この書き方は、村上龍の「トパーズ」って小説に触発された書き方なんだよね。この小説知ってる人いるかな。

たしか大学生のころに読んだと思う。


1980年代の東京を生きている風俗嬢が、一人称で語る小説。
読んだときに「なんだこの文章!?」ってなった。
本当に不思議な文章だった。

どんな感じで不思議なのか?



ちょっと最初の二行、引用してみるから読んでみて。

いくよ。


その男とすれ違った時あたしの内臓のうちの一つが爆発したような感じがしてその場に崩れおちそうになってしまった。

なぜそんなにショックだったかと言えばあたしはその土曜日の昼下がりとてもイヤなタイプの客とプレイをしてきたばかりで心がとても沈んでいて事務所に寄る気になれずに何か気が晴れるような買いものをしようと思って青山を歩いていて、中学の頃からずっと好きだったその男のことを考えていたからだ。

村上龍『トパーズ』の冒頭より引用


……なんか不思議な感じしない?


たった二行なのにすごく長いよね。
でも、不思議とすいすい読めてしまう。



凡人の私だったら、この『トパーズ』という小説の冒頭はきっとこう書いてしまう。

その男とすれ違った時、あたしの内臓のうちの一つが爆発したような感じがした。
その場に崩れおちそうになってしまった。

なぜそんなにショックだったかと言えば、あたしはその土曜日の昼下がりとてもイヤなタイプの客とプレイをしてきたばかりだったからだ。

心がとても沈んでいた。
事務所に寄る気になれなかった。

「何か気が晴れるような買いものをしよう」と思って青山を歩いた。

歩いている最中、「中学の頃からずっと好きだったその男」のことを考えていた。

一つの文章に、一つの意味だけ込めるのが本来あるべき「文章の基本」だ。

一つの意味が終わったら「。」をつけて一文を終わらせる。
だから、(原文ではたったの二行だったのに)この基本にのっとると七行になる。

でも、原文の二行のほうが、ずっと色気がある文章だと思わない?



風俗嬢の小説だから色気があるって意味ではもちろん、ない。
そうじゃなくて文章そのものに艶がある感じ。
この艶を出すためには、文章の基本なぞ全部無視して「二行」でスイっと書くべきなんだと思う。


この文体こそ、「筆の成り行きにまかせて」書いたまさに「随筆」だ。
私にはそう見えた。

※もちろん、プロの小説家だからものすごく緻密な計算と戦略と推敲の上に完成された文章だろうけど、ね。



だから、「うわ、なんかこういう書き方してみたいな~」って思ったので今回やってみた。

あーもう超楽しかった。



コレ意外といい方法かも。
ガッチガチに構成案を固めてから書くのも好きだけど、こうやって筆が流れるままに書く文章も楽しいもんだね。
これぞ随筆。まさにエッセイ。


こうやって、「楽しく書ける」方法をいっぱい見つけていっぱい試して、そうして文章を書き「続けて」いこうと思う。
「楽しく書ける方法」が一つだけだと、その方法を使えなくなった時に書けなくなっちゃうからね。


リスクは、分散する。
だから、文章を書き続けるために「楽しく書く方法」はいっぱい持ってたほうがいい。



未来の私が、筆を折らずに済むように。






【関連note】いつか本を出したいあなたへ


ここまで読んでくれてありがとう!

長かったでしょ。お疲れさま。
お茶でも飲んでゆっくりやすんでね。

さて、ここからは関連noteの紹介です。

「いつか本を出すのが夢」「一生に一度、本を出してみたい」

と思ってnoteの更新を頑張っている。
でも、なかなかイイネがつかない。なかなかフォロワーが増えない。
出版なんて、夢のまた夢……。

そんなことないです。


私がnoteで書いたエッセイ「100万円貯めて、汚部屋から脱出してみた」が書籍化されました。

私はnoteのフォロワーがまだ30人程度しかいなかった時点で書籍化にこぎつけました。
また、今回書籍化されたnoteは初めて書いたnoteだったので、投稿件数はたったの1件。

noteのフォロワー30人、

投稿件数1件でも

書籍化を実現できるんです。



その書籍化を実現するためにやったことすべてを、包み隠さず1.7万文字というボリュームで徹底的に解説しました。

題して、「フォロワー30人、投稿1件なのに『noteの書籍化』を達成した方法」という有料noteです。


この有料noteはありがたいことに人気noterの方からもうれしいレビューが届きました!

※この時はnoteのコンテンツ量が今の10分の1以下だったので、はるかに安い980円で販売してました。


【このnoteはこんな人にオススメです】

「いつか自分のnoteを出版したい」「一生に一度、自分の本を出したい」と思っている人
・本を出したいけど、何から始めていいのかわからない人
・「出版社に持ち込む」方法があるのは聞いたことがあるけど、どこの出版社に持ち込めばいいのか?何を持ち込めばいいのかわからない人

» 「フォロワー30人、投稿1件なのに『noteの書籍化』を達成した方法」を読む

「いつか本を出したい」ではなく、「10か月後には近所の本屋で自分の本が並んでいる」ことを確実に目指せるnoteです。

私が書籍化するために行った「すべて」をそそいだ大傑作note。
「一生に一度、自分の本を出したい」と夢見る方はぜひ読んでみてくださいね。


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