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先住民教育家であるクレット島の古老が他界して1年

昨年の今頃、私はアイヌの村へ行った。というのも学芸員資格の単位をとることと、北海道にある多くのアイヌの博物館が国際的な先住民族の国際的な人権団体に関わっておりモーン族の窮状をアイヌの学芸員に伝えるために最適だと考えた。なぜ最適かというと名古屋のモーン族コミュニティから北海道の札幌にモーンの方がいると情報を入手し、いつか彼らの先住民運動をするために、在日モーンをアイヌの博物館へ連れて行ってアイヌとのパイプを作ろうと考え、下準備のためにアイヌの学芸員に直談判しに行こうと考えた。実は人生初めてのアイヌの村の訪問であった。

1 先住民教育の概要

私にとって人生でキーパーソンになる友人がでできた。アイヌと台湾先住民タイヤル族の青年教育活動家である。彼らと私の関係を話す前に世界における先住民教育の概要を紹介する。
まず世界で最初に先住民教育が始まったのはフィンランドとニュージーランドでありとりわけニュージーランドが世界に大きな影響を与え1970年代に始まった。この背景にはこの時期に世界の先住民の人権が世界的に見直され、とりわけニュージーランド先住民マオリでは近代化により追い立てられ学業不進からの「貧困問題」からまた次世代が大学へいけないまたこの次世代が貧困になるという負の悪い循環が起きていた。ましてや過去の先住民の学校教育はアメリカ先住民、アイヌ、アボリジニや琉球を見れば植民地政府🟰近代理性主義者の学校による教育虐待や指導死が罷り通り、少数民族・先住民の主体性、尊厳、文化そして彼らが文化を介して生成してきた生態環境を破壊されてきた。現在国連宣言により彼らの地位向上には「主体性」の実現であり、主体性のためには彼らの主体的な教育が求められ、彼ら主体の大学設立に向けてまず第一歩として「社会教育」を提供する博物館同時に幼稚園から高校の設立が求められている。並びにアボリジニを事例に大学入試以外及び学士を必要としない当事者に向けて「生涯学習講座」、「科目等履修生」といった「大学解放運動」が展開されてきた。

日本では1994年に萱野茂により「旧土人法」が廃止となり「アイヌ新法」・民族国家の日本へと変わった。2008年の「洞爺湖 G8サミット」の裏で札幌と平取で萱野茂の息子である萱野志朗をはじめとする世界の先住民が集まり「先住民サミット アイヌモシリ」が開催された。会場では「発表者間での相互理解と共感」が展開された。その共感とはこの会の参加者であるフィリピン先住民イゴロット族国連「先住民族問題に関する常設フォーラム」議長ヴィクトリアの「母なる大地」のという概念である。この概念は先住民の生活文化の尊重により自然のラン開発と新自由主義的経済政策に対抗し世界を救うことである。ヴィクトリアは「G8サミットで世界経済の立て直し金融安定化、経済問題、気候変動への対処と世界的食糧危機、アフリカ問題、紛争解決、平和構築などが話し合われるのは大変結構です。G8はこれらの問題を招いた」と演説した。
この翌日に萱野茂二風谷アイヌ資料館ウコチャランケ(発表者と参加者の車座)でアイヌ語教室やノルウェーとマオリの言語教育が発表されていた


ーなお私はこの当時中学生で、当時の運動に非常に共感したのを覚えている。その時、私立中学なのでグアテマラ アンティグアのイツモトラベルの親戚の影響でチチカステナンゴノのキリスト教・マヤ族の自然崇拝の習合と近代植民地化に関して研究して卒業レポートを書いた。その傍らイツモトラベルの民宿で働くマヤ族のメイドに推し活していた。(それ以降、基本的に先住民ないし研究対象地域の女の子ばかりに恋をしてしまう 笑)レポートの発表ではいまだにその当時の年配で一切、性的マイノリティすら暴言を吐かない非常に穏やかな英語教師に褒められたのをよく覚えている。高校の卒業レポート(生物学)では、大怪我の入院をきっかけに放送大学・人類学者内堀基光の近代以前の宗教に基づく生命倫理と世界観と環境破壊の関係についての講義を予習しておいた上で、諏訪神道の供儀・口承文芸の価値・生命倫理を手がかりにした近代化による諏訪湖の汚染・御神渡りの温暖化、霧ヶ峰のリゾートー開発の歴史を提出した。確かその時の成績は優だったはず。本当は今の茅野市・諏訪市の学芸員が研究している神仏習合に着目していたらもっといいレポートが書けていたのが心残りー

さて話をもどし実はアイヌが先住民として認められて先住民教育の第一歩としての博物館教育が今から10年前に行われるまでマオリと比べて40年も遅れている。

大学と博物館と地域社会が連携したり、放送大学で先住民教育向けの学芸員資格を提供している。大卒を必要としない高齢の文化伝承者らを博物館に招き、若いアイヌの青年教育家を育成している。このの多くの青年活動家が和人の極右の人種差別の標的となっている片親が和人である。博物館教育をまず最優先にしたのは学歴や学位取得に拘らず、地域住民のニーズに合わせて教育を提供できるからである。アイヌの学校教育に関しては、アイヌの人口が最も多い「平取町」に茅野茂によって幼稚園が1980年代に誕生し10年ほど前にアイヌ語小学校教育が始まり、昨年の10月にはアイヌ文化を教える高校のコースが始まった。
このような気運によってかつての日本の植民地支配にあった台湾先住民青年団など世界中の先住民・少数民族が北海道に視察しにきている。なお台湾先住民は台湾有事の関係もあり親日家であるが日本兵の暴行事件をきっかけに起きた「霧社事件」や現在の台湾政府の発電所開発による先住民史跡の破壊など過去から現在まで追い立てられていることを忘れてはいけない。

自分で染めて縫ったロンジーを履いた私と台湾先住

平取には教育法が「ユネスコ」と「OECD」で成立しているために後者の文脈にある経済通産省と関係のあるウレシパで地域開発協力隊として働く東京生まれ片親が和人のアイヌ青年教育家・木彫り職人見習いがいる。実は彼らはクレット島の退化していく窯業技術と共通した活動をしており面白い。それは観光客、博物館入場者に自らの手工芸活動を「展示」して、先住民文化の普及、一般市民への教育が展開されている。さらに皮肉なことであるが私が大嫌いな極右政治家がウポポイを「ウソポイ」というが、近代からの入植者の荒らしによってある特定の高度な技術とくにチセの断熱技術が失われ、入植者、近代植民地の荒らしによって変容・破壊された先住民文化が展示されてしまっている。ただし入植を近代化とも読み替えることもでき、アイヌはアイヌなりに近代化の恩恵を受けて、彫刻、音楽、刺繍、アイヌ式洋食といったアイヌのモダン文化を大正以降発達、成熟させてきたことも忘れてはいけない。もし世界の全ての伝統文化が完全に昔のままの文化ならば、次世代から見捨てられてしまうし非常につまらない生活文化である。伝統文化の維持とは言うなれば「守破離」のプロセスである。
 しかしアイヌとクレットのモーンを比較するとウポポイはこの変容した文化を政治的に中立に修正する機能を果たす「博物館」の機能で違う。クレットの場合、モーン「主体」の博物館として私営博物館があるはずが、民主化問題を伴う政教一致を背景に専門職でない僧侶による寺院位立博物館運営による博物館資料の杜撰な管理や民主化問題などにより自らを表現する「展示活動」が機能していない。焼き物に至ってはJICAの都市開発を伴う政治問題によって食器向けの焼成技術という大変高度な無形文化が消えようと仕掛けている。アイヌの場合、タイと比べて政治問題がマイルドであり、教育として修正するみこみがある。 

2アイヌの青年教育活動家に出会う


人生初めての北海道及び「ウポポイ」や平取で片親が和人で東京生まれのアイヌの青年と親しくなった。片親が和人であるアイヌと親しくなったというのも、彼ららは片親が和人ゆえにそこまで和人に対して嫌悪がなく、全くアイヌ文化をしらないため北海道のアイヌにとってよそものである彼ら自身がアイヌ社会へ飛びんでいく。
クレット島へモーン語もタイ語もわからないまま飛び込んだ私と似ていた。ウポポイではアイヌの学芸員にはアイヌ語名の名前を持っており、Nalavitというタイ語名をもつ私とにている。
 ウポポイでオポンパケという乃木坂46にいそうな美少女学芸員に惚れそうになった。けど「わいは昔はアイヌのJKの彼女ほしいと思ったけど日本仏教の僧侶になってタイかミャンマーかモーンの娘を妻帯し、周囲から貶され、妻帯や子孫の存在によって社会を変えてやる。宗教の違いで現地の女性との妻帯が禁じられている公民権問題を変えてやる」とタンカ切って、オポンパケを笑わせた。ー児孫のために秦の坊守を妻帯するーアイヌの青年らは雪国の民ということもあり、東南アジア旅行に関心が高い。ウポポイに限らずこのような彼らは今回以前のブログや先に述べたバンコク都市開発によるモーンの危機を語るとかなりショックになり口が塞がらない、「協力したい」と承諾し直談判にこぎつけた。

しかしその翌日、平取の二風谷へ行った途端、一部のアイヌの年配男性から「和人なのに云々」とロンジーを履いた私に対して穏やかな声で罵声を吐いてきた。実は高校の時と同じだった。15年前に東京のあるアイヌ文化団体で両親がアイヌであるアイヌの方が和人の虐待でひどいトラウマを抱えていることが多く、「トラウマ」のせいで私に「過覚醒」し怒りっぽく関わりにくい。過覚醒なアイヌのオヤジがちらほらXでも博物館でもちらほら出会う。そういう方に限って杉田水脈のような大和民族・現人神天皇・神道云々と叫ぶ和人の極右の狂人と同じく、宇梶武の家族と言った片親が和人であるアイヌ文化伝承者に偽物云々と罵り「人種差別」をする。先住民の公民権運動や先住民の加害者側出身の学者の努力が台無しになる発言はやめてほしいもの。逆を言えば片親が和人であるアイヌの青年協力家は平和活動家を果たしており高く評価するべきである

狂人に反撃をしてアイヌの友人を増やす

けど私はそんな和人、アイヌや和人やモーンを「ビルマ人」と罵るタイ人、学芸員の平和活動を否定するミャンマ人であろうともそのような狂人らのせいででくじけるわけでもない。私はクレット島のSNS広報掲示板に書き込みした。「今、北海道のアイヌの村でクレット島のモーンの未来のために先住民教育を調査しています。けど多くのアイヌの方から(暴論を伴う)不安の声・反対の声が出ています。(クレット島のモーンを苦しめた)和人出身だけどこの地域のための教師として学芸員になっていいのかな」とタイ語で書き込んだ。翌日、Facebookで現地の役所で働く私の親方を含めて何人かが賛同した。そんでひどいこと言ってきたアイヌの宿主に言い返してやった。彼に「よっかった」と言われてた。さらに博物館で罵ったアイヌの高齢男性に関して、二風谷で働く片親がアイヌである友人の木彫り職人に言いふらし、アイヌ住民の友人が凄まじく多いい大阪出身の和人である住民のおばちゃんらを味方につけることができた。どこの民族に限らず、人類は文化の価値をめぐって派閥が出来上がったり、邪見である「文化相対主義」を遠巻きに否定する文化の本質主義者がいる。そのような愚者に囚われず、気の合う人と異文化コミュニケーションするのが良い。

3 写真でクレット島のモーンの地域住民を動かす


シリムアンとウレシパの青年教育活動家

言いふらしたのがきっかけで、アイヌの木彫り職人でもある青年教育家と仲良くなった。なかなかのジャニーズの知念似のイケメンである。アイヌの生まれであるが、東京出身で地域おこし協力として平取に飛び込み、先住民文化活動に勤しんでいる。東京に戻った後も私のモーンの窯業研究の進捗を報告するインスタ投稿をよく見てくれる。
彼にクレット島のモーンのために写真コラージュを作って良いか承諾を得て撮影した。

私はFacebook のクレット島広報に写真を添えてこのようにタイ語で投稿した。

アイヌの青年教育家O君は未来のアイヌのために彫刻をしている
シリムアンはクレットの未来のために奮闘していった

この日の先日に宿屋の台湾先住民タイヤル族のルームメイトと文言文を交え、近所のアイヌの親子に温泉へ連れってってもらい、ローストビーフ丼を奢り意気投合した。漢文でなぜこんなに親切なのと聞かれ、「霧社事件」といった日本政府の開発という暴力の償いのためと答えた。というのもクレットのモーンを苦しめる元凶の一つにJICAと日本政府の開発がある。この元凶の系譜をたどると、ODAは大東亜における日本軍の地域開発を伴う政治工作員につながってくる。台湾ではないが、このプロジェクトの実態を知らずに、少数民族である満州のモンゴル人青年兵を育てチベット仏教寺院文化財を守った高祖父のことや台湾先住民の迫害がかさなる。なぜなら当時の状況や組織構造を見ると、末端にいた市民と高祖父を含めた末端の日本兵・少数民族兵というのは、敵対する民族の軋轢をうまく利用して「漁夫の利」で大日本帝国を作ろうとした腹黒い軍の上層部に騙されて彼らの近代的で快適な生活の向上と少数民族の自由のために活動していると信じてきた。ところが終戦間際に一部の少数民族青年兵らがこの実態をしり、日本兵に無差別殺人をおこなってしまう。けどそれ以外の少数民族の青年兵は彼らの日本人である恩師の立場を理解しており救出されることもあった。
アイヌのO君と出会った日に、写真を正装のタイヤル族の友人と自分で染めた黒いロンジーを履いた私を互いに撮影し交換した。というのも後で話す古老のオットーのロンジー姿の威厳さを思い出したからである。

苫小牧空港の回転寿司屋で死にかける


バスの乗り間違えもある飛行機ギリギリ2時間前で苫小牧についた。アートワークを兼ねた調査、学芸員資格の課題が終わり、苫小牧空港へ着いた。飛行機ギリギリで夕食に空港の回転寿司を食べた。ネタが全然臭くない!。東京の回転寿司の北海道ネタが痛んでいると知った。それ以降北海道のネタは口にしていない。また一貫2なのか1つなのか混乱しパニックになり5000円を払ったうえに〆のあら汁のエビのトゲで喉がひっかかり喉を詰まらせ死にかけた。飲み込めたものの飛行機代が払えないというアクシデントにで出会う。河口慧海なら座禅して直感で出すが、そのような余裕がない。2回死んだと思った。しょうが無いので父に電話し、父がこっそり父のヘソクリを私のザックに入れたそうな。探したら見つかり、無事に飛行機に乗れた。今となっては本当に滑稽である。

写真投稿の二週間後

遡ること北海道にいく数週間前に、恩師である東洋大学上野昌之名誉教授に手紙を出し、世界の先住民教育の概要がわかる本を聞いた。参考図書リストが北海道から帰宅後に届いた。このリストの本を入手しに国会図書館へいった。知ったことは今回のブログに先ほど書いてある通りである。
この帰宅中、駒場東大を通るバスがいえの最寄駅に近くなった時、ノンタブリーの役所で働くクレット島の親方から返事が来た。

ウッ(シリムアン)の親方がいなくて寂しい





実はこのウッは私に故人でモーン語の模様の名前を教えてくれた人間国宝の陶彫職人である。
実はウッと別れた最後の日を思い出すと私の人生である仏教の人生の価値観「生死一大事」を思い出してしまう。クレットにいた時、タイ入国前から身内の死別で私と父が狂ってしまった挙句に、私がクレット島滞在中に感染症になり、かつ強いストレスで半分意識を失い仏教の戒律を破りシャム人、おそらく近代化で搾取された挙句に妓楼で働ように追い立てられたイサーンの「女郎」と交じり、翌日、「渡秦往生当願一切衆生(タイにわたり一切衆生と共に往生する)」請願が砕かれたように感じクレット島で入水自殺未遂をしてしまった。(なぜこの請願を立てた経緯はブログの「今までの足跡」を読んでもらいたい)チャオプラヤ川のほとりにいた幸いモーンの高齢女性と電話越しの母に止められた。断片的であるが女郎と交わった直後の夜、信心深い祖母と精神科医の父に電話で泣き喚めいた。「(生物としての)男であるからしょうがない。人間は(自然としての)煩悩があり。(阿弥陀、自然の摂理である)仏に救われる」と父に言われたことをかすかに覚えている。その時は本当の意味がわからなかった。帰国後に両親ではないある医者に聞いたら適応障害で「乖離」と呼ばれる精神疾患になっていた。しかしこの医者にひどい虐待をされ資料をなくし、挙句に両親の病院のアルバイトへいく途中の千代田線内で服毒自殺未遂をし生死を様取った。

 ある程度、私の人生の方向性ないし私の請願文がわかる理解者が増えてきたころ、シリムアンが得意とした超絶技巧な半同芯円上の線に沿って唐草門の集合体を描く蓮文を覚えようとスケッチした。この模様はブリラム県のカンボジア系先住民の史跡から出土される唐草文を描かない蓮文と類似している。面白いことにクメール語とモーン語は同じ祖先を共有しており言葉がにている。スケッチをした翌日の明け方、私は気が動転し両親の寝室の扉を叩きおこし、両親の懐に入り一緒に寝た。シリムアンが他界したという知らせが来た。彼は私が知る限り職人としてモーンの窯業用語をしる最後の話者であった。若い職人に陶器や博物館の質が悪いといって大喧嘩しかけたり、タイのJICA事務所に喧嘩うるような抗議電話したりなど散々タイで悪行三昧した私に「もしモーン語を忘れたらクレットへ戻ってくればいい」と穏やかな声で話してくれて、仏教戒律を破ったにもかかわらず日本で一人前になったらシリムアンと一緒に活動していきたいという夢だけは仏教の戒律を破ったにもかかわらず捨てられなかった。私はその後、シリムアンのハス模様を描いたのはシリムアンの親方が浄土へ旅立つとき近代都市開発・気候変動に追い立てられたモーンや彼らが守ってきた地球の一員である「一切衆生」を文化財で守れと伝えているように感じてしまう。それ以降、下手くそながら彼の得意な模様を蕎麦猪口えお彫刻し、クレット島でボランティアしたタイ在住の吉本芸人にお礼としてあげた。また彼の死以降、現在役場で働く彼の仕事仲間つまり今の私の親方と親しくなった。

私はこのような記憶をバスの中で思い出し、オットーの写真(トップの画像)を送信し「ご健在」ですかと聞いた。返事はこうだった。

「いつ他界したかわからない。今日、荼毘に伏した。」

キャストアウェイホームステイというクレット島の中の民宿オーナであるシャム人の友人が言うには糖尿病だった。先住民としての文化を守ろうとした結果、糖尿病ということにショックだった。
 オットーとの出会いはそのシリムアンにクレット島で愛語をいただいた時のタイ入国のときだった。その時は本当に最悪な出会いだったけど今ではかけがいの無い宝である。右も左も分からないし、大雲和尚(奈良康明先生)の死別で狂っていた私は島の中でモーン語の先生を探すことにし、知っているタイ語のフレーズで先生を探した。そのときデパラというモーン料理屋のオーナーに出会った。オットーであった。最初は観光客として私を友好的に向かい入れて、先祖代々受け疲れる「カロック」という各家庭の守護動物霊とこれがやどる先祖代々の宝であるパイプと魚篭を見せた。モーンの蓋つき茶碗をハマイと呼ぶとか、自然釉薬の窯変の焼成技術などを教わった。ところが今と比べて、先住民向け学芸員すら知らなかった私は当然ながら島民と衝突しまくった。アイヌ問題に例えたらウポポイを「ウソポイ」、アツシを「コスプレ」という先住民文化財教育の教養がない極右の廃人と島民に誤解される結果となった。オットーも色々と聞く私がしつこいとブチギレられた。私は児童虐待経験を伴う発達障害の影響もあるかもしれない。「ワシはモーン文化を守るためにできることだけのことをしている。今は陶工じゃない!このモーン語のポップだってそう」などとオットーがブチギレながらも、「今のクレットのモン語は都市開発により危機的である」と申し上げて、ボン!と薄いタイ語で書かれた児童教育用モーン語の教科書をもらった。学芸員の資格とモーンの防災用・教育用の薪窯研究で多忙過ぎで、教科書を完訳できていないが、この本のおかげでミャンマー難民である在日モーンと親しくなり、タイ文字がある程度読めるようになった。今では大事なオットーの「形見」である。また自分でロンジーを染めてほぼ毎日履くようになったのもオットーの威厳さと世界一おっかない先住民の先生というキャラが好きだから。またロンジーはインド起源の服でアジアとくに日本では一切衆生を救済する菩薩の服である。
オットーは怖い先生とはいえども、実はやたらめったら和人、片親が和人であるアイヌに暴論・暴言を吐くような極右の狂人ではなかった。オーストラリア国籍の華人おばちゃん、モーンの女性と結婚した薬学部教員・英語教師、一時の父親であるイギリス人といった外国人住民には優しかった。とくにオーストラリアの華人のおばちゃんは、初めてタイへ移住しクレット島へ移住した時、タイ語がわからずオットーがタイ語を教えてくれた。タイの仏教用語でナムジャイ=水(のように清い)心と呼ばれる人情・慈悲に溢れる方だった。


  一方でオットーの料理屋ができた経緯を見ると、結果的にオットーはJICAと戦っていた。というのもJICAがクレットの周りに環状高速道路のような高架橋を島の周りに回らした時期つまり1990年代にあった大洪水後:JICAの火事場泥棒が起きた時期であった。この時期、サラダ用乳鉢産業が陶器が土器へ退化していくほど窯が洪水で破壊され尽くされ、開発で粘土が捨てられ初めていくころである。そこに本質的な先住民・少数民族の問題を隠蔽するように利益誘導を伴う観光開発が軍政及び日本政府の途上国開発として行われてきた。オットーはそもそもクレットの窯屋の生まれで、幼い時は陶工である家族の手伝いをしていた。しかしJICAの開発という暴力を含む近代化を伴う気候変動の魔の手がやって聞いてオットーの窯屋も廃業となった。仕方なく、自分たちの文化を守るため、文化を広めるために飲食店「デパラ」を開業した。オットーはクレット生まれの古老の中で一番若く65歳ぐらいであった。彼は若手の古老としてモーン語を地元の若者に教える活動をし、タイのネットメディアにも取り上げられていた。オットーには娘が何人かいたが、モーン語が話せなかった。せめてでも私が最後の弟子として話せるようになりたい。
 

バスから降りた私は家に戻り親の前で「JICAが憎い!」と泣き崩れ叫んだ。
そのあとタイ好きや在日モーンがいるミャンマーの掲示板で死別、嘆きなどを知らせるが、逆効果だった。よくわからん怪しい日本人とミャンマー人のオヤジたちから私の投稿を削除されたり心許ない発言が返事された。おそらく美大のチンピラの被害の名残りで私が詐欺師だと勘違いされたか、もしくは日本政府の圧力、ミャンマーやタイの軍事政府の検閲を恐れたと見られる。
しょうがないので、自治体にこの写真とオットーの慰霊のコラージュとタイ語で「オットー先生は世界一怖い先生でした。教え子でした。けどタイ語やモーン語が話せない私たち外国人の地域住民にも言葉を教えてくれました。とてもナムジャイがある方でした。実は私が在籍する放送大学は大洪水の時にモーンの文化財をまもりクレットの古老の支援をしたSTOU(タイ国立通信大学)と交流があります。私はオットーのような地域の先住民教育の教師として学芸員になれるかな?」


オットーのロンジー姿の慰霊とロンジーの自画像(片面)


また別項で「オットーから習った古代モーンの窯業技術につながる臼の焼き方を通院した精神科医のいじめでなくし、またオットーの後釜としてモン語がわかるひといませんか?」とタイ語で投稿した。

そしたら親方が「5年前にクレットへ来た日本人でオットーの弟子です」と起点をきかしコメント共に自治体の掲示板に再投稿してくれた。
数時間後、多くのクレットのモーンの方などからいいね👍やハートがたくさん来た。中にはタイの私立通信制大学ランカムヘーン大学出身の地域住民であるモーンの役人からも手伝いたいと返事が来たり、戦前の日本でいう「憲兵」の検閲・攻撃を掻い潜りながら公民権運動をするモーンのおばちゃんらからもコメントがたくさん来た。親方も私が親方の工房と一緒なんだと投稿をしてれた。

実はオットーが荼毘に付された日をタイ上座部の葬儀の流れから計算すると、まさしく平取町ないしウポポイのアイヌ青年教育家と直談判に成功した日に旅立った。振り返れば軍政にダム放水された日にオットーに手紙を書き、道元禅師の言葉の意訳「雨粒という小さな功徳が降れば川となり知恵の海と大きな慈悲となる」や「来年クレットへ必ず戻る」とつたないタイ語で送った。ずっと私を待っていたのか。送ったキャストアウェイホームステイのオーナーである友人が言うにはコラージュ用に撮影した日だったそうな。モーンの未来のために糖尿病でボロボロになったオットーは日本政府に追い立てられたモーンの問題を私とアイヌの友人に託してしまったのか。まぐれなのか、それとも何かの超越した力によるオットーの引き継ぎなのか…私にはわからない


モーンはビルマではない

死別の後

 結果的に私は、オットーとシリムアンの死別の日に起きたことを包み隠さずクレット島の自治体掲示板に投稿し、シリムアンとオットーの弟子として一部の理解ある地域住民が公認した。いまも間違えて日本の学芸員の感覚で島民が憲兵のリスクに晒され、観光業プロジェクトと衝突しやすい発言をしてしまい親方らに怒られたりする。しかし彼らと交流する中である観光産業広報の地域住民の女性が「モーンはビルマ人、タイの都会に先住民はいない」というシャム人のある有名な歴史学者すらいう差別発言に対して、タイ軍政社会の住民なりに遠巻きに抗議のYoutubeを投稿し先住民運動・公民権運動をやった。振り返れば超越した存在の力「本願力」つまりレジリエンスによって悪行三昧をした私や世の中は動かさ救済されているのだろうか。

本願力に遭いぬれば 虚しく人ぞすぐるぞなき 功徳の宝海 満ち満ちて煩悩の濁水隔たりなし

親鸞




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