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老いを愉しむ人たち

たとえばドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーは、人間を「死に向かう存在」として解像化し、死から逆算していかに生きるべきかを問うた(とまあ雑に要約しておく)。

人間は死すべき存在であるが、このとき、死は寿命として考えられている。

事故死とか殺人とか戦死とか、そういう事件性のある死に方ではなく、人間は、どんなにあがいても、どんなに健康に気をつけて長生きしようとしても、そもそも生物としての寿命によって、死すべき運命を逃れるわけにはいかない、と。

つまり、死すべき存在とは、自分に与えられた寿命をじりじり食いつぶしていく存在だというわけだ。

そして、寿命を食いつぶすとは、老化するということにほかならない。


人間は老化なしに死ぬことはない。人間にとって死が必然性であるのと同様に、老化という現象もまた、人生について多少なりとも真剣に考えようとすれば、避けて通れないテーマである。

哲学のテーマが「善く死ぬこと」なら、死と同じく必然的な老いについても、誠実な思考が期待される。善く老いることこそ、哲学のテーマである。

ある意味、老いに哲学的にアプローチするにあたって、現代ほどふさわしい時代はないかもしれない。現代は、生きづらい社会である以上に死にづらい社会である。それは、平均寿命の長さを根拠にしてもいいし、死をタブー視し、徹底的に衆目から遠ざける根深い風潮を根拠にしてもいい。そして死にづらいということは、老いが長いということである。死は一人一回だが、老化はクロニカルな現象なので、定量的に考量しないといけない。死ぬまで老いに付き合わされるその主観的な密度と長さにおいて、現代社会は空前絶後的である。

善き死についてはソクラテス(あるいはハイデッガー)に尋ねるといいだろう。だが、「善く老いること」については、すぐれて現代人が自覚的に取り組むべき課題ではなかろうか。


というわけで、前置きが長くなったが、今回は、私が最近目にした、老いを愉しんでいる稀有な現代人を紹介風に書き留めておきたいと思う。

老いを愉しむ、というか待ち侘びている人たちである。お二人ともかねてより個人的に私淑している方々だ。

哲学者の千葉雅也氏は、4月28日にこんなツイートをしている。

かつての長髪ギャル男哲学者が、伏し目がちに老眼鏡を着こなす光景というのは、アンバランスというか、千葉さんもやっぱり年取ったんだなあとの感を強くする。しかし彼は「なかなかいい。いよいよ大人になった感じ」と、強がるでもなく穏やかに揚々と、自身の老いに居場所を与える。素敵だと思う。

そういえば、大阪と京都を中心に活動されているミニマリストのNATTYさんも、半年ぐらい前にこんなことを言っていた。

【24:36~】個人的に白髪に憧れを持ってるので、早く増えてくれへんかなというのが、希望ではあります。何回か銀か白に染めようかと迷った時期もあったんですけど、自然に生える方が似合うと思うので、待ちたいと思います。たった一度の老いを、楽しみたいと思ってます。

【1週間Vlog】家賃3万5千円大阪府枚方市に住む36歳独身男の日常【Vol.23】

たった一度の老いを、楽しみたい」というのは素晴らしいフレーズだと思う。老いは若さに対立するものではなく、神様がプレゼントしてくれたギフトだという感覚。このフレーズ、半年ぐらい前に動画で拝見して以来、折に触れてにやにやしみじみ思い出している。


二人に共通するのは、老いを待ちわびる感覚、待望する感覚である。

私自身も、実は、老いを楽しみに待望している。

NATTYさんは36歳、千葉雅也さんは44歳らしい。対して私は28歳で、彼らよりは若者である。

別に若いのが辛いわけではない。

個人的には、老化して可能性や選択肢が限定される状況に、憧れがあるのだ。

若いうちは可能性だらけと言われる。

可能性だけでは、しかし、充実しない。

数多ある可能性の中から一つ選ばないといけないのだ。

だが、何かを選ぶということは、それ以外を選ばないということだ。

一つ選んだら、それが自分の人生の視界を占め、他の可能性を締め出してしまう。

もちろん、大げさに「自分はまさにこれを選んだ」とわざわざ自覚はしていない。日常はもっと無意識に生きられている。

だが、ふとしたときに「こうじゃない人生もありえたのかな」と思いを巡らせる。

人生は、自分があえては選ばなかった選択肢の数々で構成されているかのようだ。

若いといつでも挑戦できるからこそ、いまあえて「それを選んでいない自分」に不安と焦燥感を覚えることも少なくない。


なんとなくだが、老いて人生の可能性が徐々に狭まっていけば、いろんなことが確定し、むしろ心安らかに目の前のことに集中できそうな気がする。

可能性が狭まると、やることが明確になる。

こればかりは、実際に老いないとどうにもならない。幸か不幸か、まだ明確な老いは自覚していない。

老いて、最終的には、「死ぬことが仕事」になる。それのみが仕事になる。これほどシンプルなことはない。


老いによって人生の可能性、選択肢は限られていく。それにしたがって、自分が何者であるか、何者になれたか、木彫りのように浮かび上がってくるだろう。そして、その輪郭ある生をしっかり引き受けていくことだ。可能性が狭まるほどに、限られた時間、身体、資源の中で最大限を尽くさなければならない。できることが少なくなっていくからこそ、できるわずかな事柄と「親密」になっていくというわけだ。

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