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陰謀論を取り締まる人たち

ネットニュースを見ていたら、こんな記事が目に飛び込んできた。

先日の和歌山での岸田首相襲撃事件を受けて、ネットやSNSでは「逆に岸田側の仕込みでは」「SPの動きに予定調和感がある」「カメラワークが映画みたい」などといった天邪鬼コメントが噴出した。これを記者は格好の「トンデモ陰謀論ネタ」だと食いつき、「ネットではこんな困った陰謀論者がいます、やれやれ…」記事を書くに至ったわけである。

というか、こんな事件が起きたら必ず陰謀論者がウヨウヨ湧いてくるだろうな〜という観測で、自分からTwitterのトレンドやキーワード検索に食いついていった光景も見える(自分が記者ならたぶんそうしている)。

所詮は週刊誌の三文記事である。扱う話題も、話題を扱う仕方も、全部ネタとして消費される運命にある。しかし、ネタとして消費しているあいだも人格は形成される。積もり積もって、気づいたらうっかり無邪気な悪人になっているかもしれない。人間が壊れるのを未然に防ぐには、定期的に「驚いて」、定期的に「ブラッシング」することが大切である。だからこんな与太記事でも、簡単に多少の分析を試みておくのは悪くないだろう。

そのうえで、この手の反陰謀論が展開されるたびに思うのは、批判している方が、批判されている方と実際には瓜二つなのではないかということである。

陰謀論を批判する側は、しばしば陰謀論者が恒常的な不安に苛まれており、陰謀論の言説にすがることで自己肯定感を取り戻した気になっているという。

記事でも、ある精神科医の発言が貼り付けられている。

「陰謀論に傾倒する人は、自分自身や自分の周りの状況をコントロールできないという不安を抱えている場合が多いです。陰謀論を信じることで、自分たちの状況や社会の出来事を理解できるようになり、不安を解消しようとする傾向があるんです。また、自分自身に自信が持てず、自己肯定感が低い人も多いように思います。自分たちが知っている特別な情報や洞察力を誇示し、自己肯定感を高めようとする傾向があります。陰謀論に共感することで自分自身を特別だと感じることができ、それが自己肯定感を高めることに繋がるということもあるでしょう」

【トンデモ陰謀論が浮上】岸田首相襲撃で支持率アップに「タイミング良すぎ」「自作自演」/Yahoo!ニュース

自己肯定感の低い人の心に陰謀論がスーっと入り込んできて、「自分自身が特別だという感覚」を形成することによって、その人の自己肯定感を回復させることに成功する。自信を取り戻した陰謀論者は、一般市民とくにメディアの人間をみて、「あいつらは知ったフリして全然真実を知っていない!」と優越感を得ることができる、と。

だが、個人的には、この記事を書いたようなメディアの人間こそ、このような優越感を積極的に利用しているようにみえる。

彼ら「陰謀論警察」とでも呼ぶべき人々は、さんざん陰謀論を批判しながら、実はその中身をファクトレベルで検証することは稀である。彼らが陰謀論を批判するのは、それが事実レベルで間違っているからではなく、単にそれが陰謀論だからだ。陰謀論がダメなのはそれが陰謀論だからだ。信じられない同語反復に見えるかもしれないが、世の反陰謀論的言説はほとんどこれと同じ構造で書かれている。

彼ら「ジャーナリスト」とて、いちいち事実を検証するのはめんどくさい。何が言われたかではなく、誰がそれを言ったかの方が重要だ。「陰謀論者」がそれを言ったのなら、それは問答無用に間違っている。そんな彼らは陰謀論者について次のように端的に解説する。

陰謀論者は、自分たちの信念に基づいた情報のみを探し、それ以外の情報や反証は往々にして無視してしまう。

同上

どうやら、メディア人は、信念よりも事実を重んずる人種らしい。陰謀論者は不安を解消したいのかやたら強い言説に依存し、信念ベースで物事を判断しがちだ。しかし自分たちはそうでない、と。

かくして自尊心を高めたメディアは、「自分たちはマトモ」という道徳的優越性にもとづいて、陰謀論者を断罪する。それに事実の根拠は必要ない。とにかく自分たちにはマトモな人間としてマトモじゃない陰謀論者を断罪できる権利があり、それにもとづいて、道徳的・知的に劣った人たちを槍玉に上げる(ついでに嘲笑しておく)というわけだ。

道徳的に優れているなら、知的にも優れていることになる。
道徳的に正しいなら、知的にも正しいということになる。

どうやら、メディアはそういう信念ベースで陰謀論の取り締まりをやっているようだ。

メディアは、もしかしたら、架空の陰謀論者を仕立てて茶化し、これに優越した気になって気持ち良くなる「ゲーム」を楽しんでいるのではないか。そのゲームのルールは、実在するかどうかに関わらず、とにかく極端な仮想敵を仕立ててこれを叩き、それに成功すれば、自分たちが依拠する「表のストーリー」に対する反証や反例を全部なかったことにできる、というものだ。

極端な陰謀論者(そもそも実在するのか?)さえ叩ければ、異論をその可能性のレベルで無効化することができる。ひとつの信念であらゆる情報や反証を無視できる「陰謀論者」と、思考を節約しラクして一気に結論まで行ってしまうその態度において、まるで生き写しのようだ。

メディアがこんな調子だからか、人々はみな「陰謀論者」とみなされないよう慎重に立ち回る。

異論の表明=ヤバい陰謀論者認定にまでなってしまうと、人々は知らず知らずのうちに異論をもつこと自体を自粛していく。異論にはグラデーションがあるのだが、ひとたびメディアの手にかかると、そんな曖昧さは切り落とされて料理される。メディアが言説を扱う手際の雑さが、まわりまわって自粛的人格類型を生み出す。

公の場で発言するとは、揚げ足を取られないようお行儀のいいことだけ喋ることなんだ…という寂しい悟りが今日の日本人の常識である。


最後はだいぶ飛躍して話を膨らませすぎたかもしれない。しかし、別に今回の記事に限らず、メディアの報道は、高級なものから低級なものまで、一事が万事こんな調子である。そういう意味では、象徴的で取り上げやすい記事ではあった。

「陰謀論に立ち向かう」と息巻いて鏡の前に立つや、まもなく鏡に映った人物と決闘を始めるメディア。

まったく、アホらしい仕事ではないか。


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