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現代の無用者階級を考える

結局、ニートの問題とか考えると、現代社会はかなりのボリュームの無用者階級を抱えているとみてよいのだと思う。

昔は、無用者は戦争に行ったり僧侶になったり飢饉や疫病で死んだりしていたわけだが、現代では昔より戦争をするハードルが上がっており、飢饉や疫病もリアリティが弱い。食品ロスが問題視されるほど過剰生産な社会だし、昨今のコロナ禍も、世界中がわずかなリスクを針小棒大に騒ぎ立ててはじめて現実の問題になったようなところがある。

豊かさや安心、安全が実現され、我々の社会は、良くも悪くも命を雑に扱えなくなった。生命に対して過剰にお行儀良くなった。

そういう意味では、逆に、昔は「死」が今よりも不可抗力感をもっていたのだと思う。

無用者(弱者)が戦争や飢饉や疫病で死ぬだけではない。

そこで死んだ人たちの「おかげで」、たまたま生き残った人たちが自動的に有用な、社会に必要とされる人間になることができた。

明石家さんまの「生きてるだけで丸儲け」という言葉が折に触れて取り上げられたりするが、こうした言葉にいちいち感心しないといけないほど、現代では「生きている」ということが当たり前になりすぎてしまったきらいがある。

客観的に冷徹に見れば、昔の社会は自然の不可抗力によって無用者に死を与えていた。あるいは、死を与えることで生き残った者に自動的に生きる意味を与えていた(生きている=有用)。

昔は生きているだけで「勝ち」だった。戦争や飢饉や疫病のリスクに加え、乳幼児死亡率も高かったからだ。しかし、うっかり「死なない世の中」になって、生きているだけでなく、なんらかのスキルや才能を証明したり、ルックスやコミュ力で差をつけたりしないと勝てない世の中にもなった。「ありのままの私」ではダメで、「これができたら」「あれができたら」と、条件付きで承認される社会になったということだ。

現代の生きづらさは、いわば死にづらさに由来していると言ってもいいくらいである。

人間はなかなか死なないので、無用者が無用者としてうっかり長生きしてしまう。また、生きてるだけでは勝たせてもらえないというか、現代社会では、みんな心理的にうっすらだが確実に自己肯定感や承認欲求に飢え続けているので、必然的に勝者と敗者が作り出され、無用者階級が自然と増大していく傾向にある。

経済的にも、世の中が進歩すればするほど実質的な人手は不要になるので、そういう意味でも無用者はどんどん生み出される。完全な無用者とならずそれなりに雇用を与えてもらっているにしても、やってもやらなくてもいい仕事を仕方なく割り当てられているだけ、そう評価せざるを得ないブルシットジョブな風景が濃厚になっている。そこで働く人たちは、自分自身の無用感に耐え、あるいはこれを無理やり抑圧してドラッグのように自己啓発書を読み続ける日々を送ることを余儀なくされるわけだ。

現代は、無用者リスクの時代だともいえる。まともな生き方、まともな仕事の「定員」がすでに埋まっているので、仕方なく闇バイトやパパ活で稼ぐしかなくなる。めちゃくちゃ運が良ければYouTuberとして成功できるかもしれない。

かつての命を雑に扱う時代なら、余分な人口を戦争に派兵したり、ちょっと前でも植民地獲得のような事業で海外にはばたかせたり、あるいはそんなことしなくても定期的に到来する飢饉や疫病、まあ普通に今より低レベルな医療・衛生環境といった諸要因によって、勝手に人口は「調整」されていた。そしてその「おかげで」、生き残った者にしっかり意味のある仕事と役割が付与されていた(ざっくり言えばですね)。

こうした意味で、個人的には、自分も含め、無用者が無用者としてうっかり長生きしてしまう時代に、ブルシットジョブで消耗したり、闇バイトやパパ活でキワどい稼ぎ方をしたり、クリエイターとしてわずかな可能性に賭けるような生き方をしたり、そういうことに陥ることなく、持続可能性のある無用者の身の処し方はないのか、あるとしたらそれはいかなる仕方で可能か、そういうことを最近はよく考えている。

冒頭で、かつて無用者は戦争に行ったり僧侶になったり・・・と書いたが、こうなるとやはり僧侶という生き方の持続可能性を考えなければならないと思う。

個人的に、現代はすでに僧侶だらけの社会だと考えている。

純粋な無用者は、社会不適合者として、ニートや引きこもりになっている。何らかの有用性を努力して獲得したりアピールしたりして、実際に働いて直接カネを稼ぐということではなく、実家に寄生して親の収入や年金に頼って、不労所得で最低限の暮らしをしている。親は、あるいは年金という形で国家は、こうした寄生者に「施し」や「恵み」を与えている格好だ。彼らは現代の世捨て出家人であり、彼らは山奥の寺社と経典ではなく、実家とゲームに頼ってその人生を消費している。

ただ、ニートや引きこもりだと持続可能性はなかなか期待できない。働かずに暮らせるとはいっても、とても他人に勧められる生き方ではない。

たぶん、いわゆるミニマリストと呼ばれる人々なんかは、現代の新しい、かつ真剣な意味での僧侶に相当するとみてよいのではないかと思う。

現代のミニマリストは、必ずしも世捨て人でないし出家しているわけでもない。現代社会にある程度適応して、それなりに働いてもいる。

しかし、人生の基準を自分でしっかり精査しているので、人生に期待する水準が概して世間の常識的なそれよりだいぶ低い。

モノが少ないだけでなく、思考の面でもミニマリストなのだ。

だから無理して節約する、しんどそうに出費を抑えているのではなく、むしろ納得して気持ちよく、ミニマルな暮らしを楽しんでいるわけだ。

そういうわけだから、ミニマリストは無駄に仕事をしない。月10万も稼げれば十分な人たちが少なくない。

そうすると当然労働時間も少なくなる。アルバイトやフリーランスだけで、生計が成り立ってしまったりする。

世間の常識とは距離をとっているが、現代のテクノロジー摂取にはむしろ貪欲である。スマホ一台あれば、なんでもできる。スマホとは「モノを減らすためのモノ」であるから、ミニマリズムをエンパワーしてもくれる。現代では社会の常識を相対化するのにわざわざ山奥に引きこもる必要はないのだ。

ミニマリストの「若さ」も注目に値すると思う。YouTubeなんかで生活の様子を撮影したvlogを見ていると、20代でミニマリスト生活を実践している人がごろごろ見つかる。まあ若いうちにたくさん遊んであるいは仕事に打ち込んで、いっぱい稼いでいっぱい消費した挙句、30代40代で「シンプルでモノの少ないていねいな暮らし」に目覚めていくパターンかと思っていたら、わりと感度の高そうな20代、それも20代前半とかでいきなりミニマリストの生活を楽しそうに実践しているのだ。

vlogの「感染力」は凄まじく、動画を見ていると、なんだかむずむずしてきて、とにかく手を動かして色々片付けずにはいられなくなる。彼らが体現する生活の風通しのよさ、そして気持ちよさが感染して、ミニマリストが増えている。思想や価値観ではなく、直接に一番コアな生活様式にアプローチするので、その感化力はじわじわと、持続的・本質的なものになる。

とはいえ「青春」は続かない。彼らもいずれは中年になり、周りも結婚する人が増える中で、自分の人生を改めて考えさせられるようにもなる。気ままで身軽な暮らしがいちばん。とはいえ、収入も低く、このままでは明らかに結婚などできない。子どもも残せない。好きなゲームやアニメも最近面白くなくなってきた。いろんなことが、飽きてきた。うっかり髪も薄くなってきている。人生の折り返しに差し掛かり、老いや死をいよいよ真剣に、しかも孤独に、考えていかないといけない・・・と。

ミニマリストが真の意味で現代の僧侶階級ないし哲学者階級を形成するとすれば、やはり人生経験がものをいうだろう。彼らには孤独と時間があるので、人生経験を形而上学的に位置づけるインセンティブに近い。普通の社会人は忙しい。良くも悪くも、孤独でない。既定の意味を履行していくので精一杯だ。彼らはむしろ有用性のレールの上を走っているのだ。

ミニマリストは生活のシンプルさ、ていねいな暮らしの手触りの良さだけでは満足できなくなる。自分の生き方を正当化できなくなるのだ。正当化できるとしたら、それは、彼らが人間の生き方一般を宗教的ないし哲学的に考察し、何かしら言語化して世界の中に位置づけることによってのみだろう。

何もそんなことは「プロの」宗教家や哲学者に任せておけばいいのかもしれない。しかし、彼らミニマリストが、最低限の暮らしをしながら、同時にある程度社会に参加し、気持ちのいい生活を自ら構築して体現できているその「業績」は、ちょっと前例のないものだ。現代の賢人は、孤独と時間を愛し、かつ、辺境の山奥ではなく便利な都市に住んで、スマホやSNSといったテクノロジーを使いこなす階級から生まれるだろう。骨太で解像度の高い幸福論が、きっと彼らの実践から生まれるはずだ、と妄想しております。


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