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現代の生きづらさについて、覚書

現代は、いのちの価値が爆上がりした時代として表象できる。

生命至上主義、生権力の春である。

そこでは、死が抑圧され、死をいかに遠ざけるかが重大な課題となる。

延命長寿は当たり前に。

だから、年寄りが増えた分、少子化でバランスをとる。

いったん生まれた命に関しては、できるだけその死を先延ばししようとする。これから生まれる命は、死のリスクと生のコストの高さから、そもそも誕生させない(少子化)という力学が働く。

命の価値が高い=簡単に死ねない=生を維持するコストが高い。こんな図式である。

だから「最初から産まない」というのが合理的で持続可能な選択肢になってしまうのだ。


生命至上主義の時代、命の価値は極めて重く、死ぬことは忌避され、なるだけ先送りにされ、結果的に生を維持するコストが過大になってしまった。

その一方で、世の中自体は便利で豊かになり、したがって人手も要らなくなり、残っているのは確かなやりがいや居場所を見出しづらい「ブルシットジョブ」ばかりとなった。アピールしつづけないと必要としてもらえない世の中になった。つまり人間は本質的に不要ということだ。いてもいいけど、いなくても困らない、いや、もしかするといないでいてくれた方がマシかも…。そんな世の中である。

現代の生きづらさの一端が、ここに表れているような気がする。現代は、命の価値が高いのに、命は不要とされている時代だ。逆にいえば、命は不要なのに、やけに命の価値が高く見積もられている時代である。

人間が不要で、確かな居場所を見出しづらいのに、その命を維持するコストはやけに高い。命を大事にし、死のリスクをとことん減らし、健康を維持しようとしたところで、その生は「不要不急」だと社会に告げられる。不要なのに、維持することを要求される。こうなっては、「生きることは苦行」となってもおかしくはない。本質的に無意味な生を、過剰に丁寧に維持しようとするのだから。かくしてひとは人生の迷子になる。

生命尊重の考えが悪いのか、世の中が豊かになったことが悪いのか、あるいはその両方が重なったことが悪いのか。いずれにせよ、現代人はこうした背景のもと、慢性的な居心地の悪さを日々抱えながら、今日一日を生きている。

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