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ケインズとともに脱労働社会を考える

先日、書店でたまたま『ケインズ説得論集』という本を見つけ、パラパラ読んでいると「孫たちの経済的可能性」という小エッセイがあった。ケインズといえば、「AIで仕事がなくなりケインズの予言通り週15時間労働の世界になる」的な話で最近やたら言及されるようになったので、それが書かれた論文に直接あたってみたいなと思っていた折だった。そしてこの短いエッセイを目で追っていると、すぐ週15時間の話に出くわした。それ以外にも結構面白い話があったので、今回はこのエッセイを取り上げてみたいと思う。

ところで本自体は買わなかった。ネットで検索すると無料でPDFが上がっていたので、それをぼちぼち読んでいきたい。山形浩生訳。

「孫たちの経済的可能性」(1930)を読む

ケインズは、17 世紀末以来、世界が全体として爆発的な経済成長を遂げてきたことを念頭に置き、このままのペースでいけば、おそらく100年後くらいには経済問題がすっかり解決してしまうか、少なくとも解決が視野に入ってくるだろうと予測している。100年後といえば、この論文が書かれたのが1930年だから、2030年。現在は2023年なので、まあ大体ケインズが念頭に置いていたタイムゾーンと重なっている。「経済問題」という言葉は、「生存のための闘争」とも言い換えられているが、それが解決されるというのは、大まかには、人々ががむしゃらに働かなくても、社会全体として、すべての人が食うに困らない程度の生産性に到達している状態をイメージすればよいだろう。

「100年」というのがどういう感覚で導き出されたかはわからないが、AIの革新的な進歩を目撃している現在、そろそろ経済問題がマジで解決されるのでは?という気運は日に日に高まっている。脱労働社会は実現間近だ。

しかし、それで人々が皆ハッピーになるかといえば、全くそんなことは考えられないとケインズはいう。

私たちは明示的に、自然によって --- そのあらゆる衝動と最も深い本能を通じて --- 経済問題を解決するという目的のために進化させられてきた。経済問題が解決したら、人類はその伝統的な目的を奪われてしまう。

「孫たちの経済的可能性」

「人類は経済問題を解決する目的のために進化してきた」という前提をケインズは置く。その経済問題がいよいよ解決されるとなれば、それは、人類がそれのために進化してきた目的が失われるということである。克服すべき問題がある状態ではなく、克服するものがもはやなくなってしまった状態は、それ自体が「問題」ではないか。人類は、労働から解放されたと同時に、生きる意味を見失うのではないか、と。

ケインズは同時代の裕福な家庭の主婦を例に挙げる。彼女たちは「豊かさのおかげで、伝統的な作業や仕事を奪われてしまって」おり、「料理も掃除も裁縫も十分おもしろいとは思えない」ようになっている。彼女たちはもはや経済的必要性に迫られて労働する必要はない。だが、それは単なる労働からの解放ではなく、労働という自己肯定や社会的承認の機会をまるまる奪われることを意味する。

個人的には、ケインズが単に「裕福な家庭」と言わず、「裕福な家庭の主婦」と言ったところが面白いと感じる。ケインズのうっかり無意識というか、「豊かになってやることがなくなった」状況と「家庭の主婦」がドッキングされているのだ。豊かになったら主婦のような仕事しかなくなるし、また家庭の外でも、どちらかというと女性の方が活躍できる仕事が増える。豊かになると第三次産業たるサービス業が隆盛し、また今日喧伝されているように近い将来AIがあらゆる雇用を脅かせば、一般的な労働者は看護や介護といったホスピタリティ系に殺到せざるえないだろう。これも、明らかに女性が得意な仕事である。また、男性の方もどんどん女性化ないし中性化しており、現代のチー牛とかこどおじ、化粧男子、脱毛男子などの現象は、豊かな世界にもはや「男」の居場所はないことをさりげなく証明しているように思える。豊かであることと女性性の親和性。

話をもとに戻そう。
経済問題が解決すると人々は労働から解放される。が、そのことで人々は生きる意味を見失い、時間を無意味に持て余す。労働からの解放によって出現した「暇」は、実に由々しき問題だ。

でも余暇と過多の時代をゾッとせずに待望できる国や人々は、たぶん一つもないと思う。というのも私たちはあまりに長きにわたり、頑張るべきで楽しむべきではないと訓練されてきてしまったからだ。

同上

余暇と過多は実はゾッとすべき恐ろしい現象だ。ケインズはこのように指摘することで、嫌だ苦しいと文句を言いつつ、人々が「いかに仕事を辞めたがらないか」を説明する道を用意しているように思える。人類は、経済問題が解決されても、それがあたかもまだ解決されていないかのように、働き続けるだろう。

余暇に耐えられない人間は、働く必要がなくなっても、働くことにしがみつく。「つまらない作業や決まり切った仕事があるだけでもありがたく思う」わけである。これは、今日のいわゆるブルシットジョブ論につながるものだ。やる必要がないのに、ただ暇を埋めるためだけの、穴を掘って穴を埋めるような「クソどうでもいい仕事」が大量に用意され、それを人々は辛そうに喜んで引き受ける。どうでもいい差異を作り出して無駄に忙しくして「やってる感」を得て満足したことにする…すでに我々にもおなじみの風景だ。

ブルシットジョブという補助線を引けば、100年後どころか、すでに経済問題は解決済みともいえる。ちなみに、正確にはケインズも「100年後」ではなく「100年以内」という言い方をしている。我々の社会は、豊かになっていくのに比例して「人間として最低限のライン」をますます引き上げていった。それは、労働からの解放というイベントを先延ばしにする、人間の弱さないし狡知であった。

ともあれ、ここまでを整理すると、ケインズは経済問題が解決された先の未来について、二つの風景をイメージしている。一つは、人々が暇になって生きる意味を見失った世界。もう一つは、無駄に忙しく働いて無理やり意味を持続させる世界である。

これらは二つとも、やはり持続可能ではないだろう。ケインズはこの二つの中間をとるかのように、「仕事をできるだけ広く共有させる」ことを提案する。同じ仕事を今までより多くの人で分け合い、一人あたりの労働時間を減らそう。「働かないと人間ダメになる」とはいえ、何も一人の人間が一日8時間も10時間も働く必要はない。それを3人とかで分けたら、一人は3時間ほどでよくなる。

私たちはパンにバターをもっと薄く塗ろうと試みるはずだ --- 多少なりとも残っている、やるべき仕事をできるだけ広く共有しようとするだろう。一日3時間労働や週15時間労働にすれば、この問題をかなり長いこと先送りできる。というのも、一日3時間も働けばほとんどの人の内なるアダムは満足するからだ!

同上

こういうのを読むと、ケインズも、人知れず、今日のシェアリングエコノミーやギグワークを先駆的に思い描いていたのだなと感慨深い。

ケインズが描くように、労働が一日3時間、あるいは週15時間程度みたいな感じになれば、社会の道徳も変わる。

私たちは再び手段より目的を重視するようになり、便利なものより善良なものを好むようになる。今の時間、今日という日を美徳を持って立派に活用する方法を教えてくれる人々を尊ぶようになる。物事の直接の楽しみを見いだせる素晴らしい人々、働きもつむぎもしない、野の百合のような人々が尊敬されるのだ。

同上

読んだあとの感想と展望

短いエッセイではあるが、示唆的な話が凝縮されて詰まっており、ケインズの発想や思考のもつ射程の大きさや深さを感じさせられた。この時点ですでに、今日のブルシットジョブやシェアリングエコノミーが予見されているし、無理に働く必要がなくなった世界を、当時の裕福な主婦を引き合いに想像するのも面白かった。

ケインズの議論をふまえたうえで、経済問題が解決された世界についての見通しをより解像的にしたい。

まず、ケインズが指摘するように、経済問題が解決された世界では、もはや人間がやるべき仕事がなくなってしまう。働きたくても働けない(雇ってもらえない)か、働いてもそれこそせいぜい週15時間とか週3日程度とかになる。こうなると、人々はこれまでの生き方 --- 時間を勤勉的に使う生活様式 --- を変更することを余儀なくされる。

もっとも、最直近までは、どうでもいい仕事を割り振ってもらって無駄に忙しく働くことで、経済問題の解決なんてまだ先のことであるかのようにふるまってきた。

だがそれが、近年のAIの革新的な発展によって、強制的に解決されそうな気配もある。

そうなった場合、一番の打撃を受けるのは、特定の業種や仕事というより、サラリーマンという生活様式そのものだと私は思う。

現在、AIが席巻しても残る仕事は?とか、どんな職種なら生き残るか?みたいな話が盛り上がっているが、それらは正直、本質的な問いではない。問われているのは、業種ではなく働き方であり、サラリーマンという生活様式、企業に生活を保障してもらう被雇用的ありかたそのものではないか。

この、人口ボリュームとしても甚大な「旧サラリーマン階級」をいかに食わせ、かつ、その自己肯定感および承認欲求をいかにして保障するかが、経済問題解決後の、重大な社会問題というか、政策課題となってくるだろう。

食わせる部分に関しては、よく言われているように、ベーシックインカムが考えられる。財源は、国債から消費税、所得税、相続税に至るまで選択肢に事欠かないし、AIの導入によって経費が格段に下がれば、力強い経済成長も期待でき、その成長分を、ベーシックインカムの増額に毎年充てていくことができる。

問題はむしろ、人々の心理、神経症的ですらある勤勉さを受け止める制度ないし技術である。これについては、まあ、ある種の勤勉プログラムが必要なのだと思う。ここでは、「人間は、労働するという己の本質から決定的には逃れられない」という前提で話を進めていく。少なくとも、そこから人間が逃れられないのだとすれば、どのような生き方や社会のあり方が望ましく、また想定可能かを考えたい。

別に複雑な話でもなく、労働から解放された後も、人々は、様々な労働に従事して、その対価に様々なクーポンや特典を得る。人々は、Googleマップの口コミを書いたり、地域の清掃活動に参加したり、単に毎日一万歩とか歩いたりして、相応の特典やポイントを得る。もはや、労働に対して時給1000円とか月20万円とかではなく、サブスクが20%オフになるとか、ベーシックインカム支給が10%増額されるとか、そんな報酬をモチベーションに勤労に励む。仕事と社会性の両立や割り振りの最適化も、AIが勝手にやってくれるだろう(すでにウーバーイーツは快適な優れたUIをAIによって提供している)。経済問題解決後の労働は「ポイ活」化する。ポイントは、個人のちょっとしたお小遣いにもなれば、社会的信用や社会的承認の証ともなる。

たった数%、数十%の「ポイント」のために頑張るなんてアホらしいと思うかもしれないが、これが案外馬鹿にならない。今でも、普通のポイ活なんかをすると、それがなけなしであるだけに、ちょっとした買い物すらも惜しくなる。「100ポイント貯めるのにこれだけかかったんだから、本当に欲しいものだけ慎重に選ばないとな」。ポイントを効率的に貯め、貯まったものは大事に使うよう、行動および生活が最適化される。合理的で、節約的(ケチ)で、プリディクタブルで、大人しくて、リスク嫌悪的な人格が形成される。

これは、結果的に社会の治安にとっても良い話だ。為政者目線で意地悪く見れば、人々が労働から解放されて暇になり、真の自由を得ることは不都合である。最悪、革命が起こる可能性もあるからだ。

一般市民のレベルでも、暇すぎてエネルギーを不穏に持て余した隣人を感じながら生活することは迷惑だろう。そこで、「善き市民」のための勤労道徳プログラムが有効になると思われる。人間は自由に飢えている以上に正しさに飢えているものであって、自分が正しく善き存在であることを自他両方に証明させる舞台装置が必要である。

冷酷に突き放して言えば、旧サラリーマン階級には一種の「ポイ活乞食」になってもらい、うっかり社会の治安にも貢献させる。「ベーシックインカムで暇な人間が増えると治安が悪化する」という懸念を払拭するために、社会は、暇人のエネルギーを空費させる新形態の「ブルシットジョブ」を、従来の賃金労働とは別の仕方で用意することになるだろう。


ケインズの言うように経済問題が解決され、人々が労働から解放されたら、そのとき人間は真の意味で自由に、主体的に、好きなことをして生きていくことができるし、そのように生き方を転換していくべきだというのはまったくその通りなのだが、そのように展望するだけでは不十分、というか無責任ですらありうる。経済問題が解決されかけても、あたかも解決されていないかのようにすすんで仕事を追加して時間を圧迫して「いつかいつか」と気づいたら皺だらけの無気力老人になってしまうのが人間である。脱労働社会においても、たぶん人々はせっせと「ポイ活」に邁進している。もっとも、今日の正社員やサラリーマンと違って、責任を伴わない気楽な労働、というか作業だから、時間と自由という観点では着実に進歩しているといえる…とは思いたいが。

脱労働社会は古代ギリシャを再演するだろうか。労働は奴隷(AI)に任せ、人間は政治や文芸、スポーツなどを通じて自身の創造性を発揮していくと。個人的には、古代と異なる様々な条件に目が行く。古代の都市国家と比べて、現代は都市や国家の規模からして違うし、娯楽が洗練された挙げ句、わざわざ街に出ていかずともスマホやモニターの向こう側から快楽が供給されるようにもなっている(孤独化)。さらに、生きられる時間の長さもまったく違う。寿命も伸びたが、テクノロジーも格段に進歩しているので、主観的な時間の密度でいえば、現代の50年は古代ギリシャ人にとっては200年にも300年にも感じられるのではないか。

そうした個人的には馬鹿にならないと思える差異をふまえれば、人間が生を持て余して、世界の手応えを喪失し、記号や情報に神経症的にのめり込んでいくのは決して説教できるものではないし、それを真剣な社会問題として、技術的に適切な居場所を与えることを考えていかなければならないだろう。いずれはメタバースとかドラッグが技術的、というか生理学的に生の空虚を埋めていくのかもしれないが、それまではなんらかの「労働」が必要になることだろう。




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