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『北の玄武が逃げ出した』🐢🦆【第2話】

第2話 秘書の不可解な日常


阪急電車が遅延して仕事に行けない。

遅延している理由は桂駅の線路に立ち入ったカラスの交尾だという。あの日から奇妙なことばかり起きるようになった。

最初に起こった不可解な出来事、それはうちに居着いたアダンソンハエトリグモが突如姿を消したことだ。もう3ヶ月は共に暮らしていたので急に寂しくなった。奴の名はラヴィ。私が唯一、心をゆるすことのできる虫だった。虫は昔からビジュアルが苦手で直視できなかったが、ラヴィにだけは自然と愛着が湧いたのである。

ラヴィが粋なクモであることを確信したのは、私がストラヴィンスキーの春の祭典を聴いていた時のことだ。部屋の壁に張り付いていた1匹の小さな蜘蛛が急に踊り出した。もちろん最初は気のせいだと思った。春の祭典といえば、フランスパリのシャンゼリゼ劇場で初演された当時、聴衆が大ブーイングを引き起こした前代未聞のバレエ音楽。まさかこんな複雑難解な曲を蜘蛛が理解できるはずがないと思った。だが、変拍子に合わせて飛び跳ねるタイミングは決して偶然ではなかった。その足捌きは長年ストイックに練習を重ねてきたであろうプロバレリーナに劣らない。実験的にもう一度そのフレーズを流すと、また同じ足捌きで飛び跳ねた。

彼だか彼女だかわからないが、この日から私は蜘蛛にラヴィと名前をつけて可愛がった。安易かもしれないと思ったが、偉大なロシアの作曲家ストラヴィンスキーから取った名だ。

綿棒に砂糖水をたっぷり含ませたものをあげると喜んで駆け寄ってきて、夢中になって吸い付くラヴィの姿はたまらなく愛おしい。

帰宅すると、どこからともなく玄関までやってきて出迎えてくれる。まさかこんな小さな虫が人間に懐くとは思いもしなかった。

ラヴィとの間に友情が芽生えてから3ヶ月が経った頃のことだ。家の最寄りの駅ビルで買い物をしたら抽選券をもらった。どうせハズレだろうと思いながらスクラッチを5円玉で削った。現れた文字は4等。裏面を見ると4等は駅ビルの最上階にある占いの館で20分鑑定プレゼントと書いてある。生まれてこの方、占いなど信じてこなかった私はすぐにゴミ箱に捨ててしまうつもりだった。だが、ふとエレベーター横に貼ってある占い師紹介の宣伝が目に入った。

占い師の名はミステリーるりこ。得意な相談内容にペットの気持ちという項目があるではないか。ラヴィはいったいどこからやってきて、どういうつもりで私と暮らしているんだろう。これだけは調べようがない。そもそもペットの気持ちなど確かめようがないのだから、占い師がいくらデタラメを言っても当たっているのか外れているのかさえわからないではないかと思った。

でも、いったいどんな風にペットの気持ちを占うのだろう。気になり出した私は面白半分で7階の占いの館へ向かった。


占いブースに入ると60歳前後の女性が椅子に座っていた。見た目は至って普通だ。話し方もまともな人らしかった。

「こんにちは。初めての方ね。今日はどんなご相談?」

「えっと、ペットの気持ちを見てもらいたいのですが...」

「はい、わかりました。ペットちゃんのお名前は?」

「ラヴィです。」

「ラヴィちゃんね。はい、じゃあみてみましょう。少しお待ちください。」

ペットが何の動物かも、何に対しての気持ちを知りたいのかも聞いてこなかった。ミステリーるりこは目の回る速さでタロットカードをシャッフルし、机の上に並べ始めた。


「はい、お待たせしました。ラヴィちゃんね、この子とても小さくて黒いわね。ハムスターよりももっと小さい生き物、哺乳類じゃないわね。」


ラヴィが蜘蛛であることは一言も言っていないが、どことなく当たっている。だがこの程度で占いを信用してはならないと思った。


「はい、蜘蛛なんです。」

「あら、やっぱり。とても賢いわねこの子。あなたに懐いてる。でもね、気をつけた方がいい。」

「何をですか?」

「この子は何か企みがあるわ。あなたの持っている情報を狙ってる。スパイを意味するカードが何枚も出てるのよ。」

「あなた仕事は何をされてるの?」

「大学で教授の秘書をしてます。」

「それだわ。」

「え?」

「ラヴィちゃんはね、あなたが有益な情報を持っているのを知っていて、あなたに近づいた。そうカードが言っている。とにかくとても頭がいいから気をつけて。きっと必要な情報を手に入れたらあなたの前からいなくなるわよ。」

ここまで聞いて私は呆れてしまった。

ジョニーがスパイ?あの小さな蜘蛛が?

笑ってしまった。きっとこの占い師はペットの気持ちなど何もわからなくて、困り果てた矢先にスパイダーから連想する言葉で適当にストーリーを作り上げたんだ。きっとそうだと思った。

「そうですか、わかりました。今日はこれで失礼します。ありがとうございました。」

鑑定時間は10分以上残っていたが、無料チケットを置いて私は逃げるように占いブースを出た。

家に帰るとラヴィはいなかった。玄関まで迎えに来なかった日はこれまで一度もなかったから、急に寂しくなるではないか。家中どこを探しても見当たらない。


私は占い師の言葉を思い出した。


「きっと必要な情報を手に入れたらあなたの前からいなくなるわよ。」

まさかとは思うが、もしあの占い師の言うことが本当なら、ラヴィが必要としている情報とはいったい何だろう。

私は今の仕事をはじめた日からこれまでのことを思い出した。


この研究室で働くことになった最初の日、私は前任者の引き継ぎノートを確認していた。直近の前任者は1ヶ月で退職し、何の引き継ぎも残していないと聞いている。引き継ぎノートの作成者は恐らくその前の秘書さんだろうと思っていた。だが、全て読みおえた時に気づいた。このノートは12人の歴代秘書たちによる合作だ。みな、最後の引き継ぎページに日付を残している。この日付から推測するに、いちばん長く続いた人で3ヶ月、それ以外の人は1、2ヶ月でやめている。ここの教授は幾度となく秘書に見捨てられてきたのだろう。気の毒だ。

いったいどんな問題を抱えた教授なのだろうと思ったが、初めて会った時は驚いた。こんなにやる気のない教授がいたのかと。その名は察時未来さじみらい先生だ。

「どっかにやりがい売ってへんかな〜」

これは察時さじの口癖だ。

いつも気の抜けた笑みを浮かべてTwitterばかり見ている。

だが、察時さじはただのやる気のない人間ではなかった。医学界では最先端の再生医療の研究を成功させ、世界から注目されている。優秀な研究者だ。いったいいつ、そんな研究をしているのか不思議で仕方ない。それほど、本気で何かに取り組んでいる姿を目にしたことがなかった。

「無理しないでね〜。疲れたらいつでも休憩してええし、なんなら早退してもええから〜」

私にはいつもそう声をかけてくれる。こちらからすれば、自由に働かせてもらえるのでその点文句はない。

だが、この研究室の問題は教授ではなかった。恐らく秘書たちが次々と辞めてきた理由は助手の小野田だ。出勤初日に問題は明るみに出てきた。

はじめましての挨拶をした時、彼は私にこう言った。

「前の秘書は大脳に突き刺ささるような品のない香水の付け方をする人でした。いや〜あなたは違います。気品高く可憐な香り。ずばりシャネルのチャンス!オータンドゥルですね?」

出会ったことのないタイプの失礼な奴だ。自信満々に指摘した香水の銘柄は間違っている。(私の愛用する香水はサンタマのチッタディーキョートだ!覚えておけ。)

そう心の中で叫び、私はとびきりにこやかな笑顔でこう言った。

「小野田さん、香水にお詳しくていらっしゃるのですね。そんな高貴な香りがすると言っていただけて光栄です。」

私があくびをして感情のない涙を流すと急にやって来て、

「どしたん?聞くで」

と勘違いモード炸裂だ。距離感のおかしい助手だ。

それから小野田は自分の気に入らないことがあるたびに平気で人前で舌打ちをする。言葉が思い出せない時も、本のページが思うようにめくれない時も、自分の発注ミスで実験マウスが500匹納品された時もだ。

いらだちの感情を人前で撒き散らすとはなんとみっともないのだろう。自分の負の感情で空間を埋めるとは配慮が足りない。今すぐやめていただきたいところではあるが、私は気づかないふりをしている。そんな時の心の鎮め方はこれだ。小野田が舌打ちをするたびに私の基本給を1,000円ずつあげる契約をいつか結びたいと考える。そうすればこの不快な音もいつしか喜びに変わるだろう。そんな未来を思い浮かべて、この不愉快さに折り合いをつけている。

そんなわけで、厄介な助手の存在は気に障るが、多少のことは目をつぶることができた。

翌朝、6時に電話が鳴った。私は仕事のある日は毎朝8時に起きる。出勤は世間では遅めの10時だ。

こんな朝早くに何事かと思いスマートフォンをみると、助手の小野田からだった。


「た、た、たか、高嶺さん!大変です!!うちの研究室に何者かが侵入したようです!」


察時はいつものほほんとしているが、自分の研究室のセキュリティだけはこれでもかというくらい頑丈にする人だ。本当に侵入者がいるのだとすれば、おおごとかもしれない。

脳裏に昨日の占い師の言葉がよぎった。

不安に駆られた私はすぐに研究室に向かうことにした。





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